弐・神域の一月
年が明けた。
私は白い装束を纏い、神社の奥、神域に足を踏み入れた。石段を三十三段登り、社殿の手前に広がる小さい庭。私はそこで一月を過ごすことになる。、祝詞、神楽、結界の。
白い紙垂の下、木の香と古い煤と、微かな鉄の匂い。それがの冬の匂いだった。
詠華は、私に給仕する者としての務めを与えられていた。炊事、薪割り、湯の温度の管理。私の禊に使う桶に湯を注ぎ、私の髪が凍らぬよう毎晩櫛を入れる。
神子付きの雑務。——それはお役目だった。
実際には、詠華は毎晩、私の寝所を訪れていた。
「任務」という札の張られた部屋の隣に、詠華の寝床があった。仕切りは薄い板戸一枚。私は目を閉じていれば、詠華の呼吸で目が覚めた。詠華が部屋の外で止まっているのか、中に入り扉の傍に座っているのか——空気の動きで分かる。
「入っていい?」
詠華は私が「いい」と返すまで動かなかった。
毎回そうだった。私は毎回頷いた。
詠華が入ってくると、いつも私の足元近くに座り、私の寝息を確かめるように耳を澄ませた。
ある夜、私は聞いてみた。
「詠華、お前は本当に何かを企んでいるのか」
詠華は暗がりの中で、私の指先を見つめていた。その指先が顔を上げ、私を捕らえる。
「企んでいる」
その時の紬の声は、十七の少女のものとは思えなかった。重く、低く、骨を噛むように響いた。
「笛の家のお爺さんが、残した巻物を読んだ。主に捧げる前の巫女を連れ戻す方法を記した、古い古い書」
「そんな書が」
「村人は、もう誰もも読まない。だから見つからなかった」
詠華は私の布団の裾に指を這わせた。白い麻布の上を辿る指が、やがて私の手首に触れた。そのまま、手首を抱くように包み込む。
「方法はひとつだけ。穴主が巫女を迎える夜に、巫女を穴主よりも濃い血で穢すこと」
私は息を呑んだ。
「血で? 何を——」
「巫女を、自分の血縁の者として、主が来る前に差し出す。主は血縁の穢れを嫌う。だから身を引く」
「その穢れを差し出す『血縁の者』は、どうなる」
詠華は答えなかった。ただ、私の手首を、両手で強く握った。
「姉様は、生き延びる」
「私は聞いていない。お前のことだと聞いているんだ、詠華」
詠華の息が、一拍止まった。
「私は、だだの人間であり、白河家ではない。だから姉様をとして守る資格がない。だから私は別の方法を採る」
「別の、とは」
詠華は私の手首を握ったまま、目を伏せた。
「主は、供を迎える前に、社殿の結界を一度解く。解いた瞬間、巫女以外の者が社殿にいれば、主はその怒りを持って巫女ごと喰らう、と巻物には書かれていた」
私は黙った。
「だから私は、結界が解けた瞬間、姉様を抱いて社殿を出る。結界は、巫女以外の存在が社殿にいることで乱れる。だから二人の穢れを抱えて穴主を欺く。姉様が血縁に穢されたように装う」
「だったら」
「主は、姉様を穢れと思い怒る。それだけの穢れを姉様に被せて、姉様を連れて出てくる。だから姉様も、穢れて出てこられる」
「だから私は聞いていない」
詠華の手が、私の手首の上で、強張った。
「——穢れを被るのは、姉様だ。だから姉様も穢れる。それは避けられない」
私は詠華の顔を見た。
「私は、穢れを姉様と分け合う」
詠華の声が、かすかに笑った。
「だって、一緒にいるんでしょう。同じ穢れなんでしょう。それなら、姉様も穢れて、私も同じ穢れ。主にとっては、姉様も私も、もう同じ穢れの塊。どれを獲ろうか迷う間に、逃げ切る」
「逃げ切る先は」
「北の峠。一度崩落した道——去年の秋に少し復旧した。雪が降る前なら通れる。三日歩けば、峠の向こうに、主の届かぬ人間の村がある」
私の口が、乾いた。
「聞いたか、詠華。お前は私の穢れを被る、と言っている。それは——」
「愛しているから」
詠華が、初めてそう言った。
「子供の頃から、愛していた。姉様をお守りできるうちは、姉様に近づける。それが嬉しかった。だから姉様が神子になり、何も言えなくなって、それでも私は、側にいた。この10年以上、姉様と一緒に側にいた」
詠華の手が、私の手首から離れて、私の頬に触れた。
「だから今度、最後の仕事をしてくる」
私は詠華の頬に、自分の手を重ねた。
「一緒に穢れを被せるなら、私にも選ばせて」
詠華は顔を上げた。目が揺れ、けれどすぐに笑った。笑った顔の下に、少しだけ怯えた子が見えた。
「なら、姉様も、来月の蝕の夜、逃げましょう」
私は頷いた。
あの日以来、私は毎晩、詠華の手を取って、抱きしめて眠った。
神子は清浄でなければならない、とは誰が決めた。
誰が、この無垢な髪を縛ることを許したのか。
誰が、一人の少女を洞穴の底へ落とすことを、と呼んだのか。
私はもう、自分をに保つ気がなかった。
代わりに、詠華の手を握っていた。荒れた指先が、私の手の甲を包み込む。
明け方、詠華は私の手の甲に、爪を立てて、一筋だけ赤い線を引いた。
「これは、印」
「何の?」
「私は姉様を贄から外す贄だ、という印。穴主は、これを見て、姊様がもう穢れていると信じる」
「傷跡が残る」
「残りましょう、二度と消えぬように」




