壱・神子としての十八年
私の名は紗夜。原本姓を許されないは、巫女に生まれると同時に村長がつけた名を冠する。白河家——代々、華ノ宮に仕える家系の娘。
七つの歳から、私は選ばれていた。
母の胎にいる時から、村の長老達には「今年の神子はお前だ」と決まっていた。
村の因習とはそういうものだ。
娘を産んだ女が誰であるか、村中のが見届けていた。
奇形を持っていれば別だろうが、そうでないかぎり、十八年ごとに白河家から一人。神子となる。
乳母の死、骨の神事、初潮を見届けてからの。三つある結界の石を順に修業。
十六の春に終わった時、私はもう、自分が何であるかを知っていた。
穴主に捧げられる生贄。。
宮の石段の前で、あの冷たい指を私の頬に当てた前任の巫女は、十七の夏、主の神前に消えた。
社の中へ、一人で歩いていく。
後を追うことを許された者は誰もいない。
翌朝、社の中は空だった。注連縄だけが残る。
何があったのか、私に説明してくれた者は誰もなかった。
けれど匂いが残っていた。
あの日から三日ほど、社の中から甘く重い鉄の匂いが漂い、村中の井戸がその匂いを含んだ水になった。
村人達は黙ってそれを飲み、干ばつに耐え、豊作を喜んだ。穴主は、また眠りについた。だから今度は、私の番。
冬が来た。
雪は私の十八回目の誕生日を、村から完全に切り離した。
元日の朝、母が涙ながらに新しい白装束を畳の上に広げた。
私はへ移る最後の月を、それから数えていた。
神子の務めは、年が明けてからが本番だった。
神域で一月、現世でのケガレを清め、二月の最初の蝕に、主へ捧げられる。それまでは、母の家に就寝を許された最後の猶予。
私は冬の窓辺に座って、自分の髪を梳いていた。
椿の枝から作った櫛を通すと、長い髪がさらさらと音を立てる。
これを、最後に自分で梳くのは今日の午後だった。
明日から先は、白装束の下で髪を隠す。
薄氷を踏む音がして、私の部屋の板戸がわずかに揺れた。
「紗夜様」
声がした。低く、少しだけ掠れた声。
「詠華か」
私は振り返らなかった。目を閉じた。櫛を置く動作だけが、少しだけ遅れた。
「寒いのに、どうした。また忍んで来たのか」
「盗みじゃない。姉様の顔を、見ておきたかっただけ」
戸が細く開いて、冷気が入り込んだ。詠華は、私の後ろに立つでもなく、蹲踞の下に立つでもなく、私の部屋の敷居に跨るようにして座った。
肩で息をしている。外は相当寒いのだろう。頬が赤く、鼻が赤い。そのくせ唇だけが白いのは、寒さのせいと、私の顔を見て息を止めているせいだと、私は知っていた。
私より一つ下の村娘。
だが乳母が亡くなった後、私の側に置かれた「付き人」。
神子付きの雑務をする巫女。神域の掃除、禊の湯の準備、神具の修繕。
表向きは、それだけの役割。
けれど、私にとって詠華は、それ以上の何かだった。
七つの時から一緒にいた。十まで、同じ屋根の下で寝起きした。十から、神子としての私の修行が始まってからは、詠華は裏方の仕事を与えられ、なかなか私の顔を見られなくなった。それでも、冬の夜ごとに、板戸一枚を挟んで、私の声だけを確かめにやって来た。
十三の冬、私は詠華の手を、初めて握った。
「寒い」と詠華が言った。
「お仕度の間、手を温めさせてほしい」
私は、神子が触れてはならない禁を破り、詠華の手を取った。
荒れた指先、冷えた掌、私よりひとまわり小さい手。
詠華の顔が火照るのを、暗がりの中で、ぼんやりと私は見ていた。
あれから五年。
詠華の手は、もう少しだけ骨っぽく逞しくなった。
けれどあの夜の冷たさだけは、変わっていない。
毎年冬が来ると、詠華は同じように私の敷居に座り、同じように私を見る。
「来月からは、顔も見られなくなる」
私は言った。言うつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
詠華の目が揺れた。
「いや…」
低く、ほとんどつぶやきのような声。
詠華らしくない。彼女は普段、私の前ではおとなしい子だった。神子に対する礼儀を、過度に心得ている。——それなのに。
「紗夜姉様を、主にやったりしない」
私が振り向いた。
詠華の顔は、泣きそうなのに、どこか硬い。歯列がかみ締めた唇の下で、線を作っている。目は真っ直ぐ私を捕らえて、逸らさない。泣きそうで、笑って、怯えて、けれどどこか残忍な光を溜めている。私が知っている詠華は、こんな顔はしなかった。
「一人で何かを企んでいるでしょう」
詠華は答えなかった。ただ、私の膝に手を伸ばし、白装束の裾を摘んだ。
「姉様を、誰にも渡さない」
「詠華——」
「誰にも、渡さない」
その夜、私は詠華の手を取り、温めたまま眠った。それが、私が母の家で最後に眠った夜だった。




