── 終章・峠の向こう
三日目の山道。
私たちは北の峠を越えた。雪は深く、詠華は私の腰を抱いたまま一歩一歩踏みしめた。
食料は紬が森で採った木の実と、凍った獣の乾し肉。水は雪を口の中で溶かした。
峠の頂で、詠華は一度だけ振り返った。華ノ宮の村は、るか下の雪に埋もれていた。
その奥に、社殿がある。主が、今頃目覚めているのか、それとも穢れた私が逃げたことに気づいて怒っているのか。村がどうなるか、私は覚悟していた。
「詠華」
「はい」
「この村は、もう守られないかもしれない」
詠華は、私の手を握ったまま、少しだけ笑った。
「主の機嫌を損ねた以上、村の豊作も、雨も、病を祓う力も失われるだろう」
「それでもいいのか」
詠華は目を伏せた。
「紗夜様が生きていてくれるなら、私はどんな村も失います」
私は詠華の手を握り返した。
「お前は残酷な娘だ」
「はい」
詠華は静かに笑った。
峠の向こう側は、別の人間が支配する村だった。
海の向こうとまではいかないけれど、華ノ宮とは違う因習を持つ村だった。
そこでは、十八の巫女を捧げる風習はなかった。
代わりに、を山に返す風習があった。どちらも同じ、だと詠華は言った。古い所は、どこも何かを捧げる。
「なら、私たちも、いずれ何かを捧げねばならないのかも知れない」
詠華が答えた。
「なら、紗夜様と、私の二人で、捧げるものを半分ずつにしましょう」
私は詠華を見た。
荒れた指先、黒い短刀をしまえた腰、少しだけ骨っぽくなった身体。
けれどその目に宿る光は、十七の少女のものではなかった。何十もの冬の寒さを湛えた、深い、深い海の色。
「詠華」
「はい」
「この先の道は、私がお前を守る」
詠華の目が揺れた。
「姉…いえ、紗夜様」
「神子だった私に、もう神はいない。だから今度は、お前の神になる」
詠華の涙が、月の下で光って落ちた。
私たちは峠を下り、華ノ宮ではない村へ歩き出した。
私の左手首と、詠華の左手首には、同じ切り傷が、月の下で薄く光っていた。その傷は、跡形もなく消えることは、もうない。
二人が同じ穢れを持つ証として、二度と消えぬ印として。
風が吹いた。峠の上から吹く風は、もう華ノ宮の社殿の匂いを運んでは来なかった。
代わりに、遠くの村で焚かれた薪の匂いと、雪解け水の匂いがした。
詠華/紗夜の手を、紗夜/詠華は離さなかった。
最期まで。




