四日目(一)
四日目――朝。
静かな部屋に、スープの香りがゆっくりと広がっていた。
窓から差し込む柔らかな光。
カーテンが揺れ、春の風がそっと室内を撫でる。
――穏やかであるはずの朝。
なのに。
空気だけが、妙にぎこちない。
カチ、と。
スプーンが器に当たる音が、やけに大きく響いた。
モルテリアは視線を落としたまま、スープをすくう。
ノリヒトもまた、パンをちぎりながら、どこかぎこちない手つきで口に運ぶ。
視線が――合いそうで、合わない。
同時に手を伸ばし、ふっと止まる。
わずかな間。
どちらからともなく、手を引いた。
(……何をやっているんだ、私は)
モルテリアは、内心で小さく舌打ちする。
昨夜の光景が、嫌でも思い出される。
距離。
体温。
触れた感触。
そして――
“綺麗だ”
「……っ」
スプーンを持つ手が、わずかに震えた。
(……あんなもの、ただの言葉だ)
そう、切り捨てようとする。
だが。
(……嘘じゃなかった)
それが分かってしまうから、厄介だった。
一方で。
(……やりすぎたな)
ノリヒトもまた、静かに考えていた。
あれは完全に距離の詰め方を誤った。
もう少し、やりようがあったはずだ。
(……いや)
一瞬、思考が止まる。
(あれは、あれで……)
だが、結論は出ない。
ただ。
何かが変わった、という実感だけが残っている。
――沈黙。
その空気を断ち切るように。
「……今日は」
モルテリアが口を開いた。
わずかに早口。
「一人で、教会に行ってくれ」
差し出される、封書。
「これを渡せ」
「……中は?」
「見るな」
間を置かず、被せるように。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「ああ」
ノリヒトは、それ以上聞かずに受け取った。
再び、沈黙。
だが。
「……昨日は――」
ノリヒトが、口を開きかける。
その瞬間。
「言うな」
ぴたりと。
モルテリアの声が、それを遮った。
一瞬の間。
「……診察だ」
言い切るまでに、わずかな遅れ。
「ただの、診察だ」
繰り返す。
それ以上の意味など、ないと。
そう、押し込めるように。
「……そうか」
ノリヒトは、わずかに視線を落とす。
一度、言葉を飲み込む。
やめることも、できた。
だが。
「……本心だぞ」
結局、口にした。
「綺麗だって言ったのは」
「――ぶっ!!」
盛大に、スープが吹き出した。
「ごほっ……! ごほっ……!!」
むせるモルテリア。
肩が震える。
耳まで真っ赤だ。
数秒。
静まり返る。
「……お前」
ゆっくりと顔を上げる。
「ほんと……そういうとこだぞ……」
怒っているようで。
だが、どこか弱い。
「……そうか」
ノリヒトは、あっさりと頷く。
「すまんな」
一拍。
「でも、そう感じた」
それだけを、残す。
「――――……っ」
モルテリアは、言葉を失う。
視線を逸らす。
(……否定、できないから困る)
胸の奥が、ざわつく。
(……こんなの、初めてだ)
スプーンを持つ手に、力が入る。
「……冷めるぞ」
何事もなかったかのように、言う。
「ああ」
ノリヒトも、それ以上は踏み込まない。
だが。
ほんのわずかに。
空気が、変わっていた。
気まずさは、消えていない。
むしろ、まだそこにある。
けれど。
それだけではない。
言葉にしない何かが、静かに混ざっている。
モルテリアは、ふと視線を上げる。
ノリヒトは、いつも通りパンを食べている。
変わらないようで。
――少しだけ、違う。
「……行ってこい」
ぽつりと、呟く。
「ああ。行ってくる」
短いやり取り。
それだけで、十分だった。
窓から吹き込む風が、二人の間を通り抜ける。
朝の光。
静かな時間。
(……悪くない)
モルテリアは、誰にも聞こえないように思った。
ノリヒトは、何も言わなかった。
ただ、わずかに――
空気が柔らいだことを、感じていた。
四日目の朝は。
昨日より、少しだけ――
優しかった。




