第7話「温室の夜に咲く本音の月明かり」
昼間の喧騒が嘘のように引いた夜の王立セレスティア学院は、深い静寂に包まれていた。
私は寮のベッドから音を立てずに抜け出し、薄手のカーディガンを肩に羽織る。
石造りの廊下を歩くたび、布張りのルームシューズの底からひんやりとした冷気が足裏へと伝わってくる。
窓の外には銀色の月が中天に懸かり、中庭の木々の影を石畳の上に長く引き伸ばしていた。
夜風が微かに開いた窓の隙間から忍び込み、私の頬を冷たく撫でていく。
本来であれば、生徒は自室で就寝している時間だ。
見回りの教師に見つかれば厳しい叱責を受けることは免れない。
しかし、私の足は迷うことなく学院の裏手にある王立魔法植物温室へと向かっていた。
『今日の昼間、ファビウス様に見せた私の態度。あれは完全にやりすぎた』
私は歩きながら、胸の奥で小さくため息をつく。
彼の内面を指摘したことで、フラグを折るどころか、逆に強烈な興味を惹いてしまったような気がしてならない。
公爵子息という重圧から逃れるために道化を演じている彼にとって、あの言葉は劇薬だったはずだ。
攻略対象たちを遠ざけ、エルヴェティア様とフロリアさんの関係を良好に保つという私の計画が、予期せぬ方向へと分岐し始めている。
焦りと不安が、心臓の鼓動を不規則に早めていた。
思考を落ち着かせるため、夜の温室で植物の世話をしようと思い立ったのだ。
ガラス張りの巨大なドームが、月明かりを受けて青白く浮かび上がっている。
真鍮の重いドアノブに手を掛けると、金属の冷たさが指先の熱を奪っていく。
ゆっくりと体重をかけて扉を押し開けると、蝶番がかすかに軋む音を立てた。
足を踏み入れた瞬間、むわっとした湿気と、幾百もの植物が放つ濃密な青葉の匂いが全身を包み込む。
外の冷気とは別世界の、生命の熱気に満ちた空間だ。
ランプは灯っていない。
天窓から降り注ぐ月の光だけが、シダ植物の大きな葉や、色鮮やかな花弁の輪郭を幽玄に照らし出している。
私は足音を忍ばせながら、通路の奥へと進む。
ふと、前方から微かな水音が聞こえた。
じょうろからこぼれる水が、土に染み込んでいく柔らかな音だ。
誰かいる。
私は足を止め、ガラス越しに差し込む光の先へ視線を凝らす。
そこには、一人の少女が立っていた。
銀糸のように輝くプラチナブロンドの髪が、夜の闇の中で淡く発光しているように見える。
手には純銀製の小さな水差しを持ち、大切そうに一つの鉢植えに水を注いでいた。
エルヴェティア様だった。
彼女は侯爵令嬢としての重いドレスではなく、就寝用の白いネグリジェの上に薄いガウンを羽織っただけの無防備な姿だ。
その細い肩の線が、月明かりの下でひどく儚く見える。
『エルヴェティア様。どうしてこんな夜更けに』
私が息を呑んだ気配に気づいたのか、彼女の手が止まる。
ゆっくりとこちらを振り返る。
サファイアブルーの瞳が、闇の中で静かに私を捉えた。
「……響音」
咎めるような響きはなかった。
ただ、そこにいるのが私であることを確認し、安堵したような吐息が漏れる。
「申し訳ございません、エルヴェティア様。お休みになっているかと思い、一人で参りました」
私は深く頭を下げ、ゆっくりと彼女の歩み寄る。
彼女の視線の先にあるのは、あの夜霧草の鉢植えだった。
蕾はまだ固く閉じているが、月明かりを浴びて葉の表面が銀色の産毛のように光っている。
「私も、眠れなくて」
エルヴェティア様の声は、夜の空気に溶けてしまいそうなほど低く、掠れていた。
「この花が、いつ咲くのか気になって。ただ、それだけよ」
彼女は水差しを傍らの木箱の上に置き、両腕で自分の肩を抱くようにする。
温室の中は暖かいはずなのに、彼女の体は微かに震えているように見えた。
私は彼女の隣に立ち、同じように夜霧草を見つめる。
土の湿った匂いと、彼女の髪から漂う薔薇の香水の匂いが混ざり合う。
「……響音は、なぜ私にそんなに尽くすの」
唐突な問いかけだった。
彼女は私を見ないまま、花だけを見つめて言葉を紡ぐ。
「あなたはいつも、私のために動いている。私の不機嫌をなだめ、あの平民の娘との間を取り持ち、私の評判を守ろうと必死になっている。付き人としての義務を超えているわ」
彼女の声が、微かに震える。
「あなたが何を知っていて、何を企んでいるのか。私にはわからない。私は……誰かに無条件で尽くされるような人間じゃないわ」
侯爵家という重圧の中で、常に計算された関係しか築いてこなかった彼女の、痛切な本音だった。
誰からも愛されない悪役令嬢として振る舞うことでしか、自分を守れなかった少女の孤独。
私は彼女の横顔を真っ直ぐに見つめる。
そして、一切の迷いなく、静かに口を開いた。
「エルヴェティア様が好きだからです」
彼女の肩が跳ねた。
大きく見開かれた青い瞳が、私を信じられないものを見るように射抜く。
「……好き?」
「はい。貴女の強さが好きです。そして、その強さの奥にある、誰にも見せない柔らかい部分がもっと好きです」
私は一歩だけ、彼女へ距離を詰める。
「不器用で、本当は優しいのに、わざと冷たく振る舞うところ。魔法植物が好きで、誰もいない温室でだけこんなに穏やかな顔をするところ。私は、エルヴェティア様の本当の顔を知っています」
彼女の唇が震え、何かを言いかけては止める。
呼吸が浅くなり、胸元が小さく上下している。
「私はただ、貴女が心から笑える日が来てほしいんです。貴女が誰かを恐れず、自分らしく生きられる場所を作りたい。そのために私にできることがあるなら、なんだってします」
沈黙が降りた。
温室の葉が擦れる微かな音だけが、私たちの間を流れていく。
エルヴェティア様は私の顔をじっと見つめ、やがて視線を落とす。
「……変な子ね、あなたは。私を、怖いと思わないの」
「全然」
私は即答する。
「むしろ、ずっと傍にいたいです。追い出されても、窓からよじ登って戻ってきます」
私の言葉に、彼女は数秒間動きを止め、それから。
小さく息を吹き出し、肩を揺らした。
「ふっ……ふふっ」
それは、冷たい嘲笑でも、貴族の計算された微笑でもなかった。
年相応の少女の、飾り気のない本物の笑い声だった。
月明かりの下、彼女の顔に咲いた笑顔は、私がゲームの画面越しに幾千回と夢見た、どんなスチル画像よりも美しいものだった。
目尻に微かな涙を浮かべながら、彼女は私を見る。
「窓からよじ登るなんて、侯爵家の付き人としてあるまじき行為よ。……でも、そうね。あなたがそこまで言うなら、私の傍にいることを許してあげる」
『今、この瞬間。私は推しに、本物の友人として認識された』
胸の奥から熱いものが込み上げ、視界が滲む。
嬉しすぎて、言葉にならない。
私は必死に涙を堪え、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。一生、お仕えいたします」
「大げさね」
彼女は柔らかく微笑み、再び夜霧草へと視線を戻した。
その横顔には、もう先程までの孤独な影はなかった。
二人の間に流れる空気は、春の陽だまりのように温かい。
しかし、私の脳裏には無慈悲なカウントダウンの音が響いている。
学院祭まで、あと2週間。
この笑顔を守るための本当の戦いは、ここから始まるのだ。




