第13話「シナリオの外側で名前を呼ぶ」
響音は魔法植物温室の重い真鍮の扉を押し開け、初夏の日差しが降り注ぐ中庭へと飛び出した。
吹き抜ける風が、灰色のエプロンドレスの裾を大きく揺らす。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、湿った土の匂いから、甘く爽やかな若葉の香りへと一瞬で切り替わった。
石畳を蹴る布張りの靴底から、硬く冷たい感触が連続して足裏に伝わってくる。
心臓が肋骨を激しく叩き、耳の奥で自らの血流の音がドクドクと鳴り響いている。
息はすぐに上がり、喉の奥がカラカラに乾いて張り付く。
それでも、響音の足は止まらなかった。
光の反射で白く飛ぶ視界の先に、目指す標的がはっきりと映っている。
真っ白な大理石で造られた、三段の円形噴水。
水しぶきが太陽の光を乱反射し、無数の小さな虹を中空に架けている。
その噴水の縁を背にして立つ、長身の青年の姿。
紺色の制服に身を包み、黄金の髪を微風に遊ばせているのは、アルデウス・フォン・セレステだ。
彼は静かに目を閉じ、腕を組んだまま、微動だにせず誰かを待っている。
その横顔は、彫像のように完璧で、王太子という重圧を一身に背負ってきた孤高の冷たさを漂わせている。
しかし、今の響音には、その姿が遠い異世界の住人のようには見えなかった。
彼もまた、計算されたシナリオの檻の中で息を潜め、本物の偶然と温もりを渇望していた一人の人間なのだと、響音は知っている。
響音の足音が近づくのに気づき、アルデウスはゆっくりと目を開けた。
深く澄んだその瞳が、真っ直ぐに響音を捉える。
その瞳に宿る静かな熱と、微かな安堵の色を見た瞬間、響音の足元がふらつきそうになる。
響音は噴水から数歩手前の位置で急ブレーキをかけ、乱れた呼吸を整えるために肩を大きく上下させた。
膝に両手をつき、肺が弾けそうなほど激しく息を吸い込む。
「走る必要はない」
アルデウスの低く落ち着いた声が、水音を透かして響音の耳に届く。
その声には、響音の到着を確信していたような、穏やかな響きがあった。
響音は顔を上げ、額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭う。
乱れた黒髪が頬に張り付いているのも構わず、響音は背筋を真っ直ぐに伸ばした。
アルデウスは腕を解き、響音の方へ体を完全に向け直す。
水しぶきの冷気が二人の間を通り抜け、微かな白檀の香りが響音の鼻腔をかすめた。
「……お待たせいたしました、殿下」
響音の声は掠れていたが、はっきりとした輪郭を持っていた。
「いや。君が来るまで、何時間でも待つ覚悟はできていた」
アルデウスは静かに歩み寄り、響音との距離をじりじりと詰める。
二人のつま先の距離が、わずか数十センチまで縮まる。
アルデウスの長身が、響音をすっぽりと影の中に包み込んだ。
「君が今日、ここに来たということは。私に、何らかの答えを聞かせてくれるということか」
アルデウスの瞳が、僅かに揺れている。
常に完璧な王太子として振る舞う彼が、ただの付き人である響音の返答に対して、明らかな緊張を見せている。
その事実が、響音の胸の奥を強く締め付けた。
響音はエプロンドレスの生地を両手で固く握りしめ、一度だけ深く瞬きをする。
脳裏に浮かぶのは、温室で背中を押してくれたエルヴェティアの笑顔。
フロリアとファビウスの屈託のない笑い声。
そして、自分をモブだと思い込んでいた、昨日までの臆病な自分の姿。
『私はもう、誰かの影に隠れるのはやめる。自分の足で、自分の物語を歩くんだ』
響音は握りしめていた手を開き、体の横に自然に下ろした。
そして、アルデウスの紫水晶の瞳から一切視線を逸らさず、口を開く。
「はい。お返事を、しに参りました」
響音の心臓が、破裂しそうなほど激しく拍動している。
声が震えそうになるのを、腹の底に力を込めて必死に抑え込む。
「私は、ただのモブです。名前も設定もない、背景の付き人です。その事実は、これからも変わりません。……でも」
響音は一歩だけ、アルデウスの方へ足を踏み出す。
石畳が靴底と擦れる微かな音が響く。
「私のことを、初めて人間として見てくれたのは、あなたでした。シナリオの外側で、私の本質を真っ直ぐに受け止めてくれたのは」
アルデウスの瞳が、見開かれる。
響音は震える指先をそっと伸ばし、アルデウスの制服の袖口に触れた。
金糸の刺繍の硬い感触が、指の腹に伝わってくる。
「……アルデウス、さん」
生まれて初めて、王太子の敬称を外し、一人の青年の名前として呼んだ。
その声は微かに上擦り、水音に溶けてしまいそうなほど頼りなかった。
しかし、その言葉が持つ破壊力は絶大だった。
アルデウスの全身が、弾かれたようにビクッと硬直する。
彼の紫水晶の瞳が激しく揺れ動き、呼吸がピタリと止まる。
瞬きを数回繰り返した後、彼の白く透き通るような肌が、耳の先から首筋にかけて、みるみると朱色に染まっていった。
彼は口元を片手で覆い、視線を斜め下へと逸らす。
「……なるほど。そう呼ばれると、少し」
アルデウスの声は、かつてないほど低く、かすかに震えていた。
「少し?」
響音が首を傾げて問い返す。
アルデウスは大きく息を吐き出し、覆っていた手をゆっくりと下ろした。
その顔はまだ微かに赤いまま、しかし口元には隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいる。
「……心拍数が、予測範囲を超える」
王族特有の抑制された語彙で放たれた、限界ギリギリの感情の吐露。
その不器用すぎる告白の形に、響音の胸の奥で何かが弾けた。
響音はこらえきれず、吹き出すように笑い声を上げた。
肩を震わせ、お腹を押さえ、心からの本物の笑い声が中庭に響き渡る。
アルデウスは少し不満げに眉を寄せたが、響音の笑顔を見つめるうちに、彼自身も釣られるように小さく声を立てて笑い始めた。
「……よかった。私も、同じです」
響音は笑い涙を指先で拭い、満面の笑みでアルデウスを見上げる。
二人の間にあった見えない身分の壁、シナリオの強制力、そのすべてが光の中に溶けて消え去っていく。
アルデウスは静かに手を伸ばし、響音の右手を優しく包み込んだ。
少しごつごつとした男の人の手の感触と、驚くほど温かい体温が、響音の掌から全身へと伝わってくる。
噴水の水が風に煽られ、二人の頬に冷たい飛沫を運んでくる。
その時。
「あーっ! ようやく!」
遠くから、広場を引き裂くような甲高い声が飛んできた。
響音が弾かれたように振り返ると、中庭の入り口付近で、フロリアが両手を口に当てて満面の笑みで飛び跳ねている。
その隣には、やれやれと肩をすくめるファビウスの姿がある。
「フロリア、静かにしろ。節度を持て」
さらにその後ろから、銀縁眼鏡を押し上げるレナルドが歩み寄ってくる。
「いいじゃないですかー! 響音さんがついに殿下を落とした歴史的瞬間ですよ!」
フロリアの遠慮のない叫び声に、響音は顔から火が出るほど赤面し、アルデウスの手を振り払おうとする。
しかし、アルデウスは響音の手を離すどころか、さらに強く握りしめ、自分の方へと引き寄せた。
「逃がすつもりはない」
アルデウスの低く甘い囁きが、耳元に落ちる。
響音は身動きが取れず、ただうつむいて顔を隠すことしかできなかった。
中庭の喧騒は、祝福の鐘のように明るく、どこまでも温かい。
響音はふと視線を上げ、遠く離れた温室の窓ガラスへと目を向ける。
ガラス越しに、エルヴェティアが静かにこちらを見下ろしていた。
彼女は一人の少女として、最も誇り高く、最も優しい微笑みを響音に向けている。
響音もまた、彼女に向かって小さく、けれど確かな笑みを返した。
モブとして生きることを選んだ少女の物語はここで終わりを告げ、ここから先は、彼女自身が主人公となる新しい物語が幕を開けるのだ。
初夏の陽光が、彼らの未来を祝福するように、どこまでも眩しく輝いていた。




