第12話「モブからの卒業と推しからの言葉」
春の終わりが近づき、王立セレスティア学院の中庭は鮮やかな緑に覆い尽くされていた。
吹き抜ける風は暖かく、花の甘い香りがキャンパス全体を包み込んでいる。
学院祭の騒動から数週間が経過し、日常は完全に新しい形へと落ち着きを見せていた。
エルヴェティア様は魔法植物研究の正式な研究生として登録され、放課後の大半を温室で過ごすようになった。
ローゼヴァルト家との関係は王家の介入によって再整理され、彼女を縛り付けていた重圧は消え去った。
彼女はもう、冷酷な悪役令嬢を演じる必要はない。
私はいつものように、水差しを持って温室の扉を開ける。
むわっとした湿気と緑の匂いの中に、二人の人物の姿があった。
エルヴェティア様と、レナルドだ。
二人は大きな木のテーブルに古い文献を広げ、何事かを熱心に議論している。
レナルドが羽ペンで図解を描き、エルヴェティア様がそれに頷きながら自身の意見を述べている。
その横顔は知的で、生き生きとした輝きに満ちていた。
『完全にサブルートが固定化されている。レナルドはエルヴェティア様の知識量に惹かれ、エルヴェティア様も彼の冷静な分析力を信頼している。最高の関係性だ』
私は邪魔にならないよう、足音を忍ばせて奥の鉢植えへと向かう。
そこには、あの夜霧草が青々とした葉を広げていた。
花が咲くのはまだ先だが、着実に成長しているのがわかる。
じょうろから水を注ぐと、土が水分を吸い込む微かな音が聞こえる。
「響音」
不意に背後から声をかけられ、私は肩をビクッと揺らした。
振り返ると、レナルドを見送ったエルヴェティア様が腕を組んで立っていた。
彼女のサファイアブルーの瞳が、私をじっと観察している。
「最近、ぼんやりしていることが多いわね。水が溢れているわよ」
「あ、申し訳ございません」
私は慌ててじょうろを引っ込める。
鉢の受け皿から、水が少しこぼれ落ちていた。
エルヴェティア様は小さくため息をつき、私の隣に立つ。
「アルデウス殿下への返事、まだしていないのね」
直球の指摘に、私は言葉を詰まらせる。
殿下に待つと言われてから、私はずっと答えを出せずにいた。
「……はい。私には、まだ決心がつきません」
「なんで。あなた、殿下のことが嫌いなの」
「嫌いなんてことは絶対にありません。むしろ、あの出来事以来、殿下の顔を見るたびに心臓がうるさくて、まともに会話もできないくらいで」
私は正直に胸の内を吐露する。
エルヴェティア様の前でだけは、私は素直になれる。
「だって私、ずっと自分をモブだと思って生きてきたんです。誰かの影に隠れて、主役の幸せを願うのが私の役割だと。自分が表舞台に立って、誰かの隣で笑うなんて、想像したこともありませんでした」
エプロンドレスの生地をきつく握りしめる。
自分の価値を信じ切れない。
そんな私が、この国の未来を背負う王太子の隣に立つ資格があるのだろうか。
「私なんかが、誰かの主人公になっていいのか、わからないんです」
私の声は震えていた。
温室の湿った空気が、私の重い感情を包み込んでいる。
エルヴェティア様は黙って私の言葉を聞き終えると、短い息を吐いた。
そして、私の肩を両手でしっかりと掴んだ。
真っ直ぐな視線が交差する。
彼女の顔には、かつて私が見たことのない、真剣で力強い感情が宿っていた。
「響音。あなたは本当に、救いようのないお人好しね」
彼女の声は、温室の空気を震わせるほど凛としていた。
「あなたは入学初日から、私のためにすべてを投げ打ってくれた。私の心を救い、私が私のままで生きられる場所を作ってくれた。あなたがモブだなんて、誰が言ったの」
彼女の指先に力がこもる。
「あなたは、私の物語の主役だったわ。私がそれに気づいていなかっただけで」
私の目が、大きく見開かれる。
推しからの、これ以上ない肯定の言葉。
胸の奥に分厚く重なっていた氷が、音を立てて砕け散っていくのを感じた。
「誰かの幸せを願うことができる人間が、自分の幸せから逃げてどうするの。行きなさい。アルデウス殿下が、中庭でずっと待っているわよ」
エルヴェティア様は私の背中を強く押した。
私はよろけながら数歩前に出る。
振り返ると、彼女は最高に美しく、誇り高い笑顔を浮かべていた。
「……推しに言われると、これは反則ですよ」
私は泣き笑いの顔になりながら、深く頭を下げる。
もう、迷いはなかった。
私はじょうろを置き、温室の扉へ向かって走り出す。
外に出ると、初夏の気配を含んだ風が私の頬を撫でた。
光に満ちた中庭の奥。
白い大理石の噴水のそばで、黄金の髪を揺らす青年の姿が見える。
自分の足で、自分の物語の次のページをめくるために。
私は真っ直ぐに、彼のもとへと駆け出していった。




