第10話「暗転の先の朝と大混乱の事後処理」
暗闇の底から引き上げられるように、私はゆっくりと重い瞼を開いた。
鼻腔を容赦なく刺すのは、薬品の冷たい匂いと、洗い立てのリネンが放つ微かな糊の香りだ。
ぼやけた視界の中で、見知らぬ白い天井が少しずつ焦点を結んでいく。
背中には硬いマットレスの感触が張り付き、薄い麻の掛け布団が肩口までしっかりと掛けられていた。
乾ききった喉を動かし、肺の奥から小さな吐息を漏らす。
石造りの床を伝ってくる冷気が、ここが自分の見慣れた使用人棟の自室ではないことを告げていた。
『ここは。ああ、学院の医務室だ』
意識が鮮明になるにつれ、昨夜の記憶が濁流のように脳裏へと雪崩れ込んでくる。
大広間の天井を覆い尽くすほどの巨大な魔石シャンデリアの眩い光。
ローゼヴァルト侯爵家の一派が上げた、怒りと軽蔑に満ちた怒声。
香水とワインの匂いが入り混じった、むせ返るような熱気。
そして、そのすべての喧騒をたった一言で完全に静寂へと塗り替えた、アルデウス殿下の求婚宣言。
あの瞬間の殿下の真っ直ぐな紫水晶の瞳が、網膜に焼き付いて離れない。
『夢じゃない。あれは紛れもない現実だ。ゲームのシナリオには絶対に存在しない、ただのモブに対する溺愛ルートが爆誕してしまった』
心臓が肋骨を内側から激しく叩き、全身の血の気が一気に引いていくのがわかる。
バグにもほどがある。
私がシナリオを破壊しすぎた結果、世界そのものがエラーを起こしているのだ。
パニックに陥り、跳ね起きようとシーツを握りしめた瞬間、傍らのパイプ椅子が軋む音が聞こえた。
首を巡らせると、窓から差し込む柔らかな朝の光を背にして、一人の少女が座っていた。
プラチナブロンドの髪が、朝日を乱反射して黄金の糸のように輝いている。
彼女は膝の上に広げた分厚い魔法植物図鑑からゆっくりと視線を上げ、私と目を合わせた。
「……おはよう、響音」
エルヴェティア様の声には、呆れと微かな安堵が入り混じっていた。
その顔には、昨日までの大広間で見せた冷酷な悪役令嬢の仮面は微塵もない。
ただ一人の、疲れ切ったけれどどこか晴れやかな少女の顔がそこにあった。
「エルヴェティア、様」
掠れた声で名前を呼ぶと、彼女は図鑑を閉じ、深くため息をついた。
「予想はしていたわ。あなたはいつも、一番重要な場面でキャパシティを超えて倒れるのよ。昨日も、あんな顔をして卒倒するなんて」
「あんな顔、とは」
「この世の終わりを見たような、滑稽で不恰好な顔よ。隣でフロリアが悲鳴を上げて泣き出さなかったら、私があなたを冷たい大理石の床に置き去りにしていたかもしれないわ」
毒のある言葉とは裏腹に、彼女のサファイアブルーの瞳には確かな温もりが宿っている。
私はベッドの上に半身を起こし、両手で顔を覆った。
自分の不甲斐なさに、穴を掘って埋まりたい気分だ。
「申し訳ございません。付き人たるものが、主より先に倒れるなど。それに、昨日の大広間での出来事は……」
「もういいわ」
エルヴェティア様は短く遮り、窓の外の中庭へ視線を向けた。
風に揺れる木々の緑が、ガラス越しに彼女の横顔に淡い影を落としている。
「私が自分の意志で動いた結果よ。家からの命令を拒絶したことで、これから色々と面倒なことになるでしょうけれど。でも、後悔はしていないわ」
彼女の横顔には、かつての重圧に縛られていた侯爵令嬢の孤独な影はない。
自らの足で歩き出した者の、清々しい強さがそこにあった。
私はその横顔の美しさに息を呑み、静かに頭を下げる。
「それよりも、あなたには行くべき場所があるはずよ」
彼女の言葉に、私は顔を上げる。
「殿下が、生徒会室でお待ちよ。朝から何度も使いが来て、あなたが目覚めたら直ちに向かうようにと」
『直談判だ。これは何かの間違いだと、今すぐ殿下に説明して撤回してもらわなければ』
私は麻の掛け布団を跳ね除け、冷たい石の床に素足を下ろした。
医務室の備え付けの布サンダルに足を通し、乱れた灰色のエプロンドレスの裾を慌てて手で整える。
髪を結び直す余裕すらない。
「行ってまいります。すぐに誤解を解いて、すべてを元通りのシナリオに」
「元通り、ね」
エルヴェティア様は小さく笑い、再び図鑑を開いた。
「あなたが生み出した変化は、もう誰にも止められないわ。早く行きなさい。殿下を待たせるのは不敬よ」
その背中を押すような言葉に、私は深く一礼し、医務室の重い扉を勢いよく開け放った。
廊下は、朝の冷たく澄んだ空気に満ちていた。
石畳の床を蹴るたび、布サンダルの頼りない足音が静かな空間に反響する。
私は生徒会室へと向かって、全速力で走り出した。
角を曲がるたびにすれ違う生徒たちが、私を見て一斉に立ち止まり、ひそひそと囁き交わしている。
昨日の大広間での出来事は、間違いなく一夜にして学院中の噂になっているはずだ。
平民の付き人が、王太子から求婚された。
前代未聞のスキャンダル。
驚愕、嫉妬、好奇心。
無数の視線の針が全身に突き刺さるのを感じながら、私はひたすら前だけを見て足を動かす。
胃の奥がキリキリと痛み、額に冷たい汗が滲む。
『殿下は疲労でどうかしていたんだ。そうでなければ、私のような背景モブを選ぶ合理的な理由が一つもない。絶対に何か裏があるはずだ』
重厚なマホガニーの扉の前に到着し、私は荒い息を必死に整える。
肺が熱く焼けつき、喉の奥から鉄の匂いがした。
冷え切った指先で真鍮のドアノブを握りしめ、音を立てて扉を押し開ける。
生徒会室の空気は、羊皮紙の古びた匂いとインクの香り、そして窓から差し込む春の陽射しの暖かさに満ちていた。
部屋の中央、書類が山積みになった大きなデスクの向こう側に、アルデウス殿が立っていた。
紺色の制服に身を包んだ彼の背筋は真っ直ぐに伸び、黄金の髪が朝の光を反射して輝いている。
彼は私の慌ただしい足音に振り返り、紫水晶の瞳で私を静かに見つめた。
「目覚めたか、響音」
その声は恐ろしいほど穏やかで、波一つ立っていない。
それが余計に私の焦燥感を煽り立てる。
「殿下」
私はデスクの前に歩み寄り、両手をついて身を乗り出した。
息が上がり、肩が激しく上下しているのが自分でもわかる。
「昨日の大広間でのご発言は、何かの冗談ですよね。暴走した侯爵家を牽制するための、政治的なブラフであると。そう解釈してよろしいでしょうか」
私の直球の問いかけに、殿下は眉一つ動かさない。
彼は手元の羽根ペンを静かにインク壺の横に置いた。
「本気でない発言は、しない」
短く、絶対的な言葉が室内に落ちる。
私は言葉に詰まり、唇を噛む。
「ですが。私のような名もなき付き人が、王太子の婚約者になるなど、この国の身分制度が根底から覆ります。殿下にはもっとふさわしい方がいらっしゃるはずです」
私は必死に反論を組み立てる。
ゲームの知識を総動員して、本来の道筋を示さなければならない。
「フロリア様は美しく、誰からも愛される素晴らしい方です。太陽のように明るく、王妃にふさわしい資質をお持ちです。エルヴェティア様も、ご実家との問題が解決すれば、これ以上ないほど優秀なパートナーになられます。私なんて、設定すら存在しないただの背景で」
「響音」
殿下の低く静かな声が、私の早口な言葉を鋭く断ち切った。
彼はデスクの横を通り抜け、私の目の前までゆっくりと距離を詰めてくる。
制服から漂う微かな白檀の香りが、私の周囲の空気を満たしていく。
私は後ずさりしようとしたが、足が床に縫い付けられたように動かない。
殿下の影が、私を完全に包み込む。
「君は、まだそんなことを言っているのか。彼らには彼らの道がある」
殿下は私の肩越しに、窓の外を指差した。
私は弾かれたように振り返り、ガラス越しに広がる中庭を見下ろした。
そこには、春の陽光を浴びて輝く、見慣れた顔ぶれがあった。
温室の入り口付近で、エルヴェティア様が誰かと立ち話をしている。
銀縁の眼鏡を押し上げ、手元の書類を指差しているのは、生徒会長のレナルドだ。
彼は魔法植物の栽培記録について何かを熱心に語っているようで、エルヴェティア様は真剣な顔でそれに耳を傾け、時折、私が温室でしか見たことのない無邪気な笑顔を見せている。
『これ、レナルドルートの知的共鳴フラグじゃないか。本来ならフロリアさんが図書室で彼と語り合うイベントだ。どうしてエルヴェティア様と』
視線を少しずらすと、中庭の白い大理石の噴水のそばで、フロリアさんがベンチに座っていた。
彼女の隣には、金髪を無造作に遊ばせたファビウスの姿がある。
ファビウスが大袈裟な身振り手振りで何かを話し、フロリアさんがお腹を抱えて笑い転げている。
時折、フロリアさんがファビウスの肩をバシバシと叩き、彼が痛そうに身をよじって抗議しているのが窓越しにも伝わってくる。
『あれはフロリアさんのサブルート。ファビウスとの陽気なやりとり発展フラグだ。本来なら本命ルートの息抜きとして用意された、誰も使わないはずのイベントが、こんなところで全開になっている』
私は窓ガラスに手をつき、信じられない光景に目を丸くする。
私が入学してからの数週間、推しのバッドエンドを防ぐために必死に介入し、フラグをへし折り続けた人間関係。
それが今、私の制御を完全に離れ、全く新しい形で自律的に動き出している。
シナリオのレールは完全に消滅し、全員が自分の足で新しい道を歩き始めているのだ。
「殿下。なんでこんなことに」
私は呆然と呟く。
背後から、殿下の静かな声が降り注いだ。
「君が、全員の本当の姿を引き出したからだ。シナリオや家の都合ではなく、本人として向き合わせた結果だ」
殿下の言葉が、私の胸の奥深くに突き刺さる。
私はただ、推しを救いたい一心で動いていただけだ。
自分が彼らの人生を根底から再構築するなど、想像もしていなかった。
「彼らは今、自分の物語を生きている。誰かに与えられた役割ではなくな」
私が振り返ると、殿下は私を見下ろし、その紫水晶の瞳にこれまでに見たことのない柔らかな光を宿していた。
「……私も含めて、だ」
その声の静かな熱に、私は息を呑み、言葉を失った。
窓の外から聞こえる鳥のさえずりだけが、二人だけの空間に微かに響いていた。




