第二話 魔法が解けた瞬間
王都の朝は早い。
石畳を叩く馬車の音、市場の売り子たちの活気ある声、そして小鳥のさえずり。
それらが混然一体となって、新しい一日の始まりを告げていた。
俺、アレンは安宿の硬いベッドの上で目を覚ました。
天井のシミをぼんやりと見つめながら、身体を起こす。
昨夜は雨に打たれて冷え切っていたはずだが、今の俺の身体は驚くほど軽かった。
まるで、手足に巻き付いていた重い鎖がすべて外れ落ちたかのような、不思議な浮遊感がある。
「……すごいな。魔力が溢れてくる」
俺は自分の手のひらを握りしめ、体内を巡る魔力の奔流を確認した。
これまで、俺の魔力生成量の九割以上は、勇者パーティの三人にかけ続けていた常時発動型魔法――【印象操作魔法】や【音声補正魔法】、【行動美化フィルター】などの維持費として強制徴収されていた。
自分のために使える魔力など、残りカスのようなものだったのだ。
だが、今は違う。
生成された魔力が、一滴も漏れることなく俺の中に蓄積されている。
指先から少し魔力を放出しただけで、部屋の空気がビリビリと震えた。
これが、本来の俺の力。
ランクA以上の出力を持つ、【演出家】としての真の力だ。
「あいつら、今ごろどうしてるかな」
俺は窓を開け、爽やかな朝の空気を吸い込んだ。
王都の中心部、貴族街の方角には、昨日まで俺たちが泊まっていた最高級ホテル「ロイヤル・クラウン」がそびえ立っている。
一晩経った。
俺がかけた魔法の残滓は、完全に消滅しているはずだ。
「ま、精々頑張ってくれよ。ありのままの自分たちで」
俺は市場で買った安いリンゴを齧りながら、意地悪な笑みを浮かべた。
最高級の料理よりも、このリンゴの方が数百倍美味く感じるのは、きっと自由の味がするからだろう。
◆
同時刻。ホテル「ロイヤル・クラウン」最上階、スイートルーム。
「ふわあ……あー、よく寝た」
勇者レオンは、キングサイズのベッドからのっそりと起き上がった。
豪奢なシルクのパジャマを着崩し、腹をボリボリとかきながらあくびをする。
鏡の前立ち、自分の顔を覗き込んだ。
「うん、今日も俺は最高にイケてるな」
鏡に映っているのは、寝癖で髪が爆発し、目やにがつき、昨晩の酒のせいで顔が少しむくんだ男の姿だ。
だが、レオンの脳内には強固なナルシシズムが存在する。
これまではアレンの【美顔補正フィルター】が、寝起きですら「無造作ヘアが似合うアンニュイな美青年」に見せていたが、今はただの「だらしない男」だ。
しかし、レオン自身はその落差に気づいていない。彼は本気で、自分の全ての瞬間が画になると信じているからだ。
「おい、起きろお前ら! 朝飯の時間だぞ!」
レオンは大声で怒鳴り、隣の部屋のドアを蹴飛ばした。
中から、不機嫌そうなマリアとガルドが出てくる。
「うるさいですわね、レオン。レディの朝は準備に時間がかかりますのよ」
「ガハハ! 腹減ったなあ! 今日は何を食おうか!」
マリアは厚化粧で目の下のクマを隠し、ガルドは獣のような体臭を撒き散らしている。
これまでは【聖女の輝きオーラ】で肌の荒れを光で飛ばし、【野生の香気】という魔法で体臭を「男らしいムスクの香り」に変換していた。
今、この部屋に漂っているのは、ただの中年男性のような加齢臭と、安っぽい香水の入り混じった不快な臭いだけだ。
「おっ、そうだ。今日から新しい仲間が来るんだったな」
コンコン、とドアがノックされる。
現れたのは、深紅のローブを纏った派手な女性だった。
胸元を大きく開け、挑発的な視線を送る彼女こそ、新メンバーの「紅蓮の魔女」リサだ。
「お待たせぇ。アタシが新しい魔導師のリサよ。よろしくね、英雄サマたち」
「おう、待ってたぜ! いやあ、やっぱり華があるねえ。昨日の陰気な男とは大違いだ」
レオンは下卑た笑みを浮かべ、リサの身体をジロジロと舐めるように見た。
リサもまた、まんざらでもない様子で髪をかき上げる。
「あの男、アレンって言ったかしら? 挨拶もしないで消えたらしいじゃない。マナーのなってない底辺ね」
「違げえねえ! 自分の無能さを恥じて逃げ出したんだろ。せいぜい野垂れ死んでるさ」
四人はひとしきり俺の悪口で盛り上がると、朝食をとるために一階のレストランへと向かった。
これから起きる「異変」になど、微塵も気づかずに。
◆
ホテルのメインダイニングは、朝から多くの客で賑わっていた。
宿泊客の多くは地方の貴族や富豪たちで、落ち着いた優雅な朝食を楽しんでいる。
そこへ、勇者パーティが足を踏み入れた。
「よう皆! 英雄レオン様のお出ましだぞ!」
レオンは入り口で両手を広げ、大声で宣言した。
いつもなら、この瞬間に食堂全体がどよめき、拍手喝采が巻き起こるはずだ。
アレンの魔法が、彼の声を「心地よいバリトンボイス」に変え、周囲に「カリスマの風」を吹かせていたからだ。
しかし、今日は違った。
シーン……。
食堂が一瞬にして静まり返る。
だがそれは感動の静寂ではない。
「なんだあの騒がしい連中は?」「朝から大声を出して、品がないな」という、冷ややかな困惑の沈黙だった。
「……ん? なんだ、みんな緊張してんのか?」
レオンは首を傾げた。
反応が薄い。いつもなら黄色い声援が飛んでくるはずなのに、今日は誰も彼を見ようとしない。
むしろ、目を逸らしてヒソヒソと話している。
「ま、いいか。圧倒的なオーラに声も出ないってやつだな」
都合よく解釈したレオンは、ズカズカと中央の席へ向かった。
そこには先客がいたが、レオンは当然のように彼らを睨みつけた。
「おい、そこ退けよ。俺たちの席だ」
「えっ、でも私たちは食事中で……」
「あ? 俺は勇者レオンだぞ? 王国を救った英雄に席を譲るのは国民の義務だろうが」
レオンは客の皿を勝手に横に押しやった。
これまでなら、この横暴も【英雄の強引さ】として、「強気なところが素敵!」「どうぞ座ってください!」と好意的に受け取られていた。
だが、フィルターのない今、それはただの「チンピラの恫喝」でしかない。
「ひっ……わ、わかりました」
客たちは青ざめて席を立った。
周囲の視線が厳しくなるが、レオンたちは気づかない。
ふんぞり返って椅子に座り、近くを通ったウェイトレスの少女を呼び止めた。
「おい、ねーちゃん。水」
「は、はい。ただいま」
駆け寄ってきたのは、昨日も担当してくれた新人の看板娘だ。
愛嬌のある顔立ちで、レオンのお気に入りだった。
レオンはいつものように、ニヤリと笑って彼女の腰に手を回し、そのお尻を無造作に撫でた。
「今日も可愛いねえ。夜、俺の部屋に来ない?」
これはレオンにとっての「スキンシップ」であり、毎日のルーティンだった。
昨日までは、アレンの魔法が即座に発動していた。
触る手つきは「紳士的なエスコート」に見え、セクハラ発言は「ウィットに富んだジョーク」や「詩的な口説き文句」に変換されていたのだ。
だから娘も、『まあ、レオン様ったらお上手なんだから!』と頬を染めて笑っていた。
だが、今はアレンがいない。
魔法は発動しない。
現実は、残酷なまでにそのままだ。
「――ッ!!?」
ビクッ、と娘の身体が跳ねた。
次の瞬間。
「きゃあああああああ!!」
悲鳴が、食堂中に響き渡った。
娘は持っていた水差しを取り落とし、ガシャーンと派手な音を立てて割れた。
彼女は真っ青な顔で後ずさり、涙目で自身の尻を押さえている。
「な、何をするんですか……!?」
娘の声は震えていた。
当然だ。見知らぬ男に、いきなり尻を触られ、気持ち悪い笑みでホテルに誘われたのだ。
恐怖と嫌悪感以外の何物でもない。
「は……?」
レオンは固まった。
予想外の反応に、思考が追いつかない。
「おいおい、なんだよその反応。いつもみたいに笑えよ。俺だぞ? 勇者レオンだぞ?」
「さ、触らないでください! 変態!」
「へ、変態!?」
レオンの顔が引きつる。
自分が変態? この国の英雄である自分が?
ありえない。そんな言葉、一度も言われたことがない。
「おい貴様! 無礼だろう!」
レオンは立ち上がり、娘に詰め寄ろうとした。
だが、その瞬間、食堂内の空気が一変した。
「おい、見ろよあれ……」
「最低だ……女の子のお尻を触ったぞ」
「いくら勇者だからって、やっていいことと悪いことがあるだろう」
「あんな下品な男だったのか?」
ひそひそ話が、徐々に大きな非難の声へと変わっていく。
軽蔑、嫌悪、敵意。
これまで「称賛」しか向けられてこなかったレオンにとって、それは未知の感覚だった。
「な、なんだよお前ら! 俺は勇者だぞ! ちょっとしたジョークじゃないか!」
レオンが叫ぶが、逆効果だった。
唾を飛ばして喚くその姿は、英雄の威厳など微塵もなく、ただの酒場の酔っ払いと変わらない。
「レオン、落ち着きなさいな。民衆が混乱しているだけですわ」
見かねたマリアが立ち上がった。
彼女は扇子を開き、優雅に(と本人は思っている)娘の方へ歩み寄る。
「あなた、英雄に触れられて光栄だとは思わないの? 感謝こそすれ、悲鳴を上げるなんて失礼極まりなくてよ」
マリアは「聖女の微笑み」を浮かべたつもりだった。
だが、アレンの補正がない彼女の笑顔は、口の端が歪んだ、見下すような嘲笑にしか見えない。
そして、その言葉の内容はあまりに傲慢だった。
「な……なにを……」
娘はさらに怯え、他の従業員の後ろに隠れてしまった。
「ちっ、貧乏人はこれだから嫌いですわ。教育がなっていませんこと」
マリアが舌打ちをした瞬間、近くの夫人が眉をひそめた。
「今の聞いた? 聖女様が舌打ちを……」
「それにあの言い草。まるで私たちを見下しているみたいだわ」
ざわめきが大きくなる。
ガルドがダンッとテーブルを叩いた。
「あーうるせえ!! 飯が不味くなるだろうが!! 文句ある奴は表に出ろ! 俺様が捻り潰してやる!」
ガルドの怒号がビリビリと窓ガラスを震わせる。
それは勇敢な戦士の叫びではなく、どう聞いても凶暴な魔獣の咆哮だった。
近くにいた子供が「わーん! 怖いよー!」と泣き出し、母親が慌てて抱きかかえて逃げていく。
「どいつもこいつも、どうしちまったんだ……?」
レオンは呆然と立ち尽くした。
いつもなら、ここで「さすがレオン様、ワイルド!」「マリア様の高貴なお言葉!」「ガルド様の迫力!」と拍手が起こるはずなのだ。
なぜ、誰も笑わない?
なぜ、ゴミを見るような目で俺たちを見る?
「ふん、ここは空気が悪いわね。行きましょ、レオン。あんな女、相手にする価値もないわ」
リサが退屈そうに髪を弄りながら言った。
彼女にとっては、この程度の騒ぎは日常茶飯事なのかもしれない。だが、今のレオンたちにとっては、根幹を揺るがす異常事態だった。
「……そ、そうだな。行くぞ」
レオンたちは逃げるように食堂を後にした。
背中に浴びせられる「最低」「野蛮人」「二度と来るな」という罵声を、必死に無視しながら。
◆
「くそっ! なんだあの店は! 店員の教育はどうなってやがる!」
ホテルを出て、大通りを歩きながらレオンは毒づいた。
「まったくだわ。王家に言いつけて、営業停止にしてやりますわ」
マリアも不機嫌そうに扇子をバシバシと手のひらに当てている。
彼らは気を取り直して、冒険者ギルドへ向かうことにした。
ギルドに行けば、いつものように冒険者たちが尊敬の眼差しで迎えてくれるはずだ。
そう信じていた。
「どけ! 邪魔だ!」
レオンは雑踏をかき分けながら進む。
これまでは【人払い】と【英雄の道】という魔法のコンボで、彼らが歩くと自然と人が避け、まるでモーゼの海割りのように道ができていた。
だが今は、普通に人と肩がぶつかる。
「痛っ! なんだお前!」
「おい、どこ見て歩いてんだ!」
通行人たちが振り返り、怒声を上げる。
「あ? 俺はレオンだぞ! お前らが避けろよ!」
レオンが言い返すが、通行人は怯むどころか睨み返してくる。
「レオンだか何だか知らねえが、謝れよ!」
「王都の道はお前だけのものじゃねえぞ!」
おかしい。
何かがおかしい。
なぜ、俺の威光が通じない?
レオンの額に、じわりと冷や汗が浮かぶ。
その時だった。
道端でうずくまっていた物乞いの老婆が、ふらりとマリアの足元に倒れ込んだ。
「お、お恵みを……」
汚れた手が、マリアの純白のドレスの裾を掴む。
「きゃっ! 汚い!」
マリアは反射的に足を振り上げ、老婆を蹴り飛ばした。
ボグッ、という鈍い音がして、老婆が地面を転がる。
「あら、ごめんなさいね。ドレスが汚れるかと思って、つい」
マリアは冷ややかに言い放ち、ハンカチで靴を拭いた。
これもまた、彼女の平常運転だ。
以前なら、アレンが即座に映像を改変し、「老婆がつまずいたのを、マリアが魔法の風で優しく受け止めた」ように見せかけていた。
あるいは、「老婆に金貨を握らせて励ましている」ように見せていた。
だが、現実はこれだ。
弱った老婆を、聖女が蹴り飛ばした。
ただそれだけの、救いようのない事実。
「……おい」
「今、蹴ったよな?」
「聖女様が、お婆さんを蹴り飛ばしたぞ!」
周囲の通行人が足を止め、マリアを取り囲んだ。
その視線は、先ほどの食堂の比ではない。
明確な「殺意」に近い怒りが込められていた。
「な、なによ。この薄汚い老婆が触ってきたのが悪いのよ。私は被害者ですわ!」
マリアが金切り声を上げる。
「ふざけるな! 謝れ!」
「あんたそれでも聖女かよ!」
「悪魔だ! 鬼女だ!」
誰かが投げた野菜くずが、マリアの頬にピチャリと当たった。
「ひっ……!」
マリアが悲鳴を上げる。
「貴様ら! 俺の女に何をする!」
レオンが剣の柄に手をかけると、群衆の怒りはさらにヒートアップした。
「剣を抜く気か!」
「民衆に武器を向ける勇者なんて聞いたことねえぞ!」
「衛兵を呼べ! こいつら頭がおかしい!」
収拾がつかない。
罵声の嵐の中、レオンたちは立ち尽くすしかなかった。
自分たちが築き上げてきた(と思っていた)栄光が、音を立てて崩れ去っていく。
しかし、彼らはまだ理解していなかった。
なぜ、急に世界が自分たちに牙を剥き始めたのかを。
◆
その騒ぎを、少し離れた建物の屋根の上から、俺は見下ろしていた。
手にはまだ半分残っているリンゴ。
「……始まったな」
眼下では、民衆に取り囲まれ、顔を真っ赤にして何かを喚いている元仲間たちの姿があった。
滑稽だ。
彼らはまだ、「自分たちは正しい、周りがおかしい」と思っているだろう。
だが、その傲慢さが通用したのは、俺というフィルターがあったからこそだ。
「マリア、蹴りはまずいだろう。今まで俺がどれだけ苦労して、お前の暴力沙汰を『奇跡の治療』に見せかけてきたと思ってるんだ」
俺はシャクっとリンゴを齧る。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
「レオンもだ。セクハラが許されるのは、イケメン補正とカリスマ補正が掛かっている時だけだ。今のただの『勘違い男』のお前がやれば、それはただの犯罪なんだよ」
群衆の怒号は、ここまではっきりと聞こえてくる。
石が投げられるのも時間の問題だろう。
あるいは、衛兵隊が来て連行されるか。
どちらにせよ、彼らの「英雄ごっこ」は終わりだ。
「さて、と」
俺はリンゴの芯を放り投げ、立ち上がった。
彼らが落ちるところまで落ちるのを、特等席で見物させてもらうとしよう。
それに、そろそろ「彼女」との待ち合わせの時間だ。
俺はフードを目深にかぶり、混乱する大通りを背にして、軽やかな足取りで屋根を飛び移っていった。




