灼ける日差し、冷えた距離
「シュトル――」
その声は最後まで行きつかず、開かれた扉が彼の額を激しく打った。
ヴァルハイド邸へ向かう時間だというのに、出てこないシュトルツを訪ね、扉を叩こうとしていたのが数秒前。ルシウスは苦悶によろめきながら、涙目で上を睨んだ。
「あ、ごめん。気が付かなかった」
目を丸くさせながら、謝るでもなくおかしそうに笑った彼は、後ろ手で扉を閉めた後、「治癒でもしとく?」と手を伸ばしてくる。
「いや、いいです。これくらい……というか」
「ん?」
思ったより痛む額に手をあてながら、隣に並んだ男を見る。
「なんでもないです。時間ありませんよ」
「まだ一分あるでしょ」
「エーレたちは、五分前に一階にいましたけど」
そういう僕は、十分前に準備を終えて待機していた。
「みんな真面目だなぁ~」
先に廊下を抜けていく背が、ゆらりと揺れた。
腰から下げているのは、新調したものではない、グライフェンの短双剣。柄が違う。
その下で揺れている右手は、相変わらず黒い手袋を嵌めたままだった。
「遅せぇ」
「いや、時間ぴったりだから!」
シュトルツを見て、即座に文句を言ったエーレは、何を確認するまでもなく、すぐに正面扉へ向かっていった。
ルシウスは二人の背をじっと見つめながら、納得いかない気持ちを持て余し、半歩前のリーベの腕を二度つつく。
「リーベ、シュトルツなんですけど……」
開かれた扉から、蒸し暑い外気が呼吸を口と鼻を覆う。一度瞼を閉じることで、強い日差しを凌いだ。
扉を開けて待っていてくれたリーベ。一方、二人は早々に中央通りの方へと遠のいていく。
「ん?」と、一拍遅れて、何かを察したらしい彼は、一度は傾げた首を振った。
「ああ、あいつのことなら気にしなくていい」
レギオン内もそれなりに暑いのに、外は更に暑かった。急激な体温の上昇に、ルシウスは前髪を掻き揚げて、前を行く赤い髪を探す。
「そうかもしれませんけど……」
普段通りに振舞っている彼の背からは、緊迫のようなものが滲みだしている。
こちらを一瞥したリーベが、ふと眉を下げる。途端、競歩になった彼は、あっという間に二人に追い付いた。
「シュトルツ」
ん?とも、あ~? ともとれない声で、シュトルツが首を大きく逸らす。小走りでルシウスが追い付いた時だった。
「ルシウスが心配している」
首を後ろに捻ったまま器用に歩く男は、きょとんとした表情をすると、「え?」と、さっとこちらに振り返る。
そのまま後ろ歩きで、「ああ、考え事してただけだから大丈夫だよ」と、額とつついてみせた。
ルシウスは先ほどのことを思い出して、額に当てた手を擦りながら、眉を寄せた。
扉先の気配を感じ取れないほどの考え事。彼の「大丈夫」が、信用ならないものだということを、最近気が付いた。
じとりと睨むと、肩を竦めて、くるりと背を向けた彼ではなく、エーレが嘲笑を返してきた。
「こいつに心配されるなんて、お前も落ちぶれたもんだな」
その視線がこちらへ配られ、目が合った。思わずムッとして、前の二人を見比べる。
エーレは自分以上に、シュトルツの些細な変化を感じ取っているはずだった。
ルシウスは、これから向かうヴァルハイド邸を、頭に巡らせる。
テオドールがもし、正気に戻っていたとしても、あの日の再現にならないとは限らない。
ルシウスの頭には、初めて彼を訪ねた時の光景が過っていた。
――経験則から、私たちは最悪を避ける術を身に着けたつもりだ――
「最悪……」
あの日の帰り道に、リーベが言ったことが蘇った。
いつしか見つめていた黒の背が振り返り、彼と視線がかち合う。
「エーレは本当に、性格が悪いですよね」
宥めるまでは期待していなくても、先ほどの言葉はないだろう。
いつもの彼と言えば彼だけど、僕やシュトルツのことをなんだと思って……
「お前、自分の意に沿わないやつは、全員性格悪いでまとめるつもりか?」
鋭く睨んでくると思いや、再び嘲笑を浮かべたエーレに、ルシウスは即座に反駁した。
「そうは言ってませんよ!」
「こいつが大丈夫っつってんだから、大丈夫なんだよ」
まったく、着く前から騒がしい。
彼は、そうひとりごちって足を速めていく。
全く取り合う気のないその様子に、それでも二人を見据えていたルシウスの名を、リーベが呼んだ。
軽く肩を叩かれてもなお、そちらを見ることもせず、更にムッとして見せる。
瞳は一点、夏の風を受けながら、ぶらぶらと振られているシュトルツの手に注がれていた。
「あの手、いつになったら治すつもりなんですかね」
かなりの裂傷だったはずだ。この二週間ほどのことを思い出した。
シュトルツは一度も、痛そうな素振りを見せたことはなかった。
「今のあいつには、あれが必要なんだろう。気が済んだら治癒するはずだ。貴方が心を痛めてやる必要はない」
関心のないような声色に、ルシウスは熱く焼ける陽を仰ごうとして、それをやめた。
――そんなものなのかなぁ。
ヘリオスももう終わると言うのに、夏はまだまだ去っていく気配を見せない。
「暑い……」
むしろ日に日に存在を主張している太陽に、ルシウスはぼそりと文句を言った。
「ようこそ、よく来てくれたね」
侍従に案内され、扉を潜った先で、エリオットが待ち構えていた。
ルシウスたちを認めるや否や、両手を広げて歓迎の意を示した彼の装いは、その言葉の通り、客人を迎えるため整えられていた。
「お前に会いにきたんじゃねぇよ」
すぐにそう一蹴したエーレは、その隣にいたレオンハルトを捉え、更にぐるりとホールを見渡した後、視線を右奥の扉で止める。
「来てるみたいだな。悪いが、場所を貸してもらう。時間はかからない」
ルシウスは彼に倣った視線を、ふと足元に落とした。
彼は、挨拶も碌に出来ない大人らしい。
相手の間で了承を得られているとは言え、場所を間借りさせてもらう側だとは思えない態度に、居心地の悪さを感じた時。レオンハルトが一歩進み出てきた。
「今夜、信用できるもの以外の屋敷の立ち入りは禁止してある。いくらでも自由に使ってくれて良い」
上背のある彼がエーレの前に立つと、随分と逞しく見えた。レオンハルトはさっと半歩身を逸らすとこちら側へと視線を配って、思考するような沈黙を挟むと続けた。
「弟が是非、貴殿らを歓迎したいと言ってきかない。用が終わったら食事でもしていってくれ」
隣を素通りしようとしたエーレが、呆れた息を吐きだして、足を止める。ついて行こうとしたルシウスも。咄嗟に踏み出しかけた足を留めた。
「歓迎だけならされてやるが?」
左隣に投げられた棘のある言葉に、レオンハルトは泰然とした様子を崩さず、微笑みを見せた。
「貴族ではない貴殿らに、遠まわしな言い方は無礼なようだ。ひとつ、持ち掛けたい相談がある」
「一応、話だけは聞くことにする」
会話はそれで終わった。シュトルツもリーベも、やはり挨拶のひとつもせずに、エーレへと続いていく。
ルシウスは後に倣いながらも、途中立ち止まって、二人へと向き直ることを選んだ。
彼らがそうしないということは、する必要がないということなのかもしれないけど、それはクランとしてはだ。
僕は、人の厚意に対して、礼節を弁えていたい。
「この度は、取り次ぎに続き、屋敷の一角をお貸し頂いてありがとうございます」
会釈までに留めると、上から重厚な笑いが落ちてきた。
「クロードの言った通りだ。随分と礼儀正しい少年だな。レギオンでは、場に合わせた所作も身に着けると聞いたことがある」
その言葉にぎくりとして、ルシウスは何故かエリオットを見ていた。
「いや、えっと……はい」
そんな話聞いたことがない。貴族と接する上位クランでは、あることなのかもしれないけど……
乾いた笑いで流した時、エリオットが歩み寄ってくると、おもむろに手を差しだしてきた。
「畏まる必要はないよ。僕もそういうのが得意じゃないからね」
ルシウスは握手に遠慮げに応える。
「クロードが、君のことを褒めていたんだ。僕も誇らしかったね」
「え、家宰の方ですよね?」
「そうそう、まだまだひよっこで未熟な少年だけど、あと数年もあれば化けるかもしれないってね」
ルシウスはその言葉を聞きながら、首を傾げたい気持ちでいっぱいだった。
応接室でのやりとりを思い返してみるが……駄目だしされた記憶しかなかった。
褒め言葉は嬉しい。しかし、どうも受け取りがたいそれに答えを見失っていた時、「いつまで話してんだ」と、奥の方から鋭い声が飛んできた。
同時に、背を軽く押された。
「ラクナのマスターは大変そうだ」
エリオットが軽快に笑う。無垢さを隠さないその笑いに、ルシウスは毒気が抜かれた気持ちで、肩の力を抜いた。
「じゃあ、改めてしばらくお邪魔します」
最後に告げた時、眼鏡の奥の瞳が細められた。それはエーレたちの待つ部屋へと向けられる。
先に体を翻し、視線だけをそちらに残したルシウスが見たのは、口元に浮かべられた微かな笑みだった。




