宵闇へ溶ける残響
言葉通り、気配も生命力も抑えていたのだろう。逃げ出してしまった猫の姿は、遠くにある。
ルシウスは沈黙した。
「僕よりあの子の方が逃げ足早いんじゃ……」
こんなに近くで声を聞くまで、彼の気配をこれっぽっちも感じなかった。
隣にやってきたシュトルツは、大きく笑うと、猫が逃げた方を見た。
「動物は、人の何倍も敏感だからねぇ」
「というか、シュトルツ。動物に嫌われすぎじゃないですか?」
「んー、なんか怖がられるんだよね。俺、何もしてないのに」
もしかしたら動物には、彼が捕食者に映るのかもしれない。本能的なものだろう。
ルシウスは一人納得して、逆隣を目だけで一瞥する。
彼の登場に文句を言ったリーベはすでに口を閉じ、ベンチを余分に開ける配慮も、選ぶ様子はなかった。
妙な静寂が訪れた。
陽は建物の向こう側へ姿を消し、その名残だけが街を照らしていた。辺りに人の姿は、もうない。
自分を挟んで沈黙した両者に、ルシウスは何かを言おうと口を開く。頼りだった猫を思わず探してしまい、いくつかの言葉が、喉と口内を上下した。
「ア――」 焦りの末、ようやく言葉になりかけたのは、今避けるべき一番の名前だった。 「アメリさん!」と、慌てて言い換える。
薄暮に沈む公園に、その声だけが輪郭を持って響いた。
「――アメリさんって、どんな人だったんですか?」
大商会の娘、シュトルツの元恋人だと言う人。彼に申し訳ないという感情よりも、この微妙な雰囲気をどうにかしたい方が、上だった。
そろりと左側を見ると、シュトルツは口元を引きつらせていた。
「彼女か」 答えた声は逆側だった。
「アメリ・ヴァレッタは知っての通り、大商会の一人娘で商才があり、魔法にも長けていた。
この男には勿体ないほど優秀、勇敢な女性で、一時はエーレより彼女を選びかけたくらいには、魅力的なようだ」
勢いで聞いてしまったが、その説明にふと彼が描いた肖像画と、街で一目見かけた彼女の姿が浮かんだ。
「しかし」 リーベの声は、終わらなかっていなかった。
「あの時、私がこの男の泣き言に、どれほど付き合わされたか。稀に見る女々しさに、うんざりしたことを記憶している。エーレもエーレだ」
淀みなく、淡々と思いの丈を並べていくリーベの言葉に、やはり話題の選択を間違った焦りを抱いたルシウスだったが、終わる様子のないそれが、ただの文句であることを悟った時、何故か安堵が浮き上がってきた。
もう一度、右隣を目だけで見上げる。
シュトルツは反対側へと目を逸らして、おかしそうに口元を緩めていた。
「――であるからにして、私もエーレ同様、普段は何を言うは避けてはいるが、それも信頼の名を借りた怠慢であるだろう」
文句はいつしか自己分析に変わっていて、ルシウスは思わず小さな笑いをあげた。
「リーベ、鬱憤溜まりすぎてませんか? 普段から、そうやって言っちゃえばいいのに」
語調は普段とさして変わりはなかったが、彼の精一杯の怒りの向け方なのだろう。
最終的にはシュトルツやエーレだけではなく、客観的に見た自分の至らなさすら並べ出した彼。漏れ出た笑いは、なかなか止まらなかった。
僕も人のこと言えないだろうけど、リーベは変に生真面目で……
目を瞬かせた彼は、失笑を膝元に落とした。
「正論を武器にするの、やめてくれなーい? それ、地味にきついんだよねぇ」
途端、シュトルツがこちらを押しのけるように、ベンチへ腰を下ろしてきた。
一度は挟まれかけたルシウスに、リーベが素早く一人分の空間を開けながらも、即座に反駁する。
「重々理解している。だからこそ普段は控えている。それに私がいくら言ったとて、お前は受け取らない」
「いや、それは誤解だよ。他人ならいくらだって線は引けるけど、仲間内は別じゃん? リーベに正論突きつけられるとほら、もう心が砕けるくらいに――」
「よく言う、どの口が……。一度くらい、そうなってほしいものだ」
互いに顔を合わせることはない。それでも途切れることない言葉の応酬に、ルシウスは三度笑いを上げた。
「やっぱり、これが一番落ち着きますね」
軽やかに飛んでいく声を、全てを叩き落としていくだけの会話。
数日聞いていなかったそれらは、心地よかった。
顔と体の力が同時に緩んだ時、リーベと目が合った。その視線が奥を捉え、一度眉を寄せると、呆れたような息を吐きだした。
彼は立ちあがり、一度公園を見渡すと、こちらへと向き直った。
「結局、貴方に機嫌を取らせてしまった。不出来な大人で申し訳ない」
その後、目だけがシュトルツを一瞥した。それも一瞬で、彼はすぐに踵を返した。
「今回は私が悪い。すまなかった」
数歩離れたところからの背越しの謝罪に、シュトルツは振り返ることはせず応える。
「なんとも思ってないよ。俺もちょーっと調子乗った自覚はあるから」
遠ざかっていく足音に合わせて、やがて宵が訪れた。音が静寂へと吸い込まれていく中に、ルシウスは明かりを探して、空を見上げた。
「うちうちへの配慮って、難しくて困るよねぇ」
どこか疲弊が滲んだ掠れた声は、空へと向けられた。
「シュトルツの辞書に、配慮なんて言葉あったんですか?」
少し右に腰を滑らせながら問う。
目だけでこちらを見た彼は、小さく口を歪めながら苦笑する。
軽やかな声の反駁を期待していたルシウスは、すぐに訂正した。
「冗談ですよ」
「知ってるよ」
信頼という名を借りた怠慢。ふと、リーベの言葉が思い返された。
間違ってないのかもしれないけど、僕にはそうは思えない。
だって彼らは今も、こうやってちゃんと関係性を保つ努力をして、その結果シュトルツが珍しく、疲れを隠さずにいる。
自分には想像できないほど、長く隣にいる彼ら。リーベのいう怠慢は、それぞれの配慮の形のように思えた。
濃紺の空に、星々の瞬きはまだ早い。
「僕たちもそろそろ――」
先に立ちあがってすぐ、いや、とルシウスは思い直した。
――僕だけ先に戻っていよう。
言いなおそうとした時、暗闇に忘れていた声が浮かび上がった。
にゃおん。後方を振り返ると、どうしたの? とでも言いたげに首を傾げた猫が、こちらを見上げている。
「いつの間に……」
腰を下ろして手を伸ばす。猫は手を交わして、膝へ顔を擦り寄せてきた。
「結界の効果、もう切れかけてますね」
ひとりごちると、猫に気を遣ったのか、シュトルツがゆっくり立ち上がった。
猫は一瞬だけ警戒を示したものの、逃げる様子はない。
「結界? ああ」 落ちてきた小さな笑いに、ルシウスは彼を見た。
「必要ないよ。知ってる限り、その子は今まで一度も、撥ねられたりしたことはないからね」
その視線は、何かを訴えるように猫を見つめていた。
ルシウスは顔をこすりつけてくる猫を撫でながらも、頭の中でリーベを思い浮かべていた。
「俺らも戻ろうか」
「あ、はい」
先に踵を返したシュトルツの背と猫を見比べて、後ろ髪を引かれる気持ちで、彼に倣う。
振り返ると、猫が小さな体を翻したところだった。
闇夜に、三色はあっという間に溶けていった。
一度足を止めたルシウスは、見えなくなった小さな姿を探しながら、判然としない気持ちを抱えていた。
公園にきて、最初に見たリーベの姿が蘇る。その記憶の中の彼の回りには、青色が浮かんでいた。
彼は、何を守ろうとしていたのだろうか。
何故か、表情の見えないアイリスが過った。




