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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
5章

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夏の息吹と膝上の外交官

 


 彼は数秒そうした後、おもむろに頷く。一瞬は意図を汲みかねたルシウスだったが、おそらくそれは許可なのだろうと推測して、ゆっくり歩を前に進ませた。



「気を遣わなくていい」 声が問題なく届く距離で、リーベはそっと足元を見た。


「この子は人に慣れている」



 猫のために出来るだけそっと近づてみる。彼のいう通り逃げる様子はなかった。

 一人分開けてくれたベンチを見る。次に彼、最後に猫へと視線を落としてから、ルシウスは問うた。



「リーベには?」



 顔をあげた彼は、一度目を瞬かせ、すぐに苦笑する。



「すまない。貴方が私に気を遣う理由も、その道理もない」


「そうですね」



 同じように小さな笑いを乗せて、ルシウスは腰を下ろした。

 すぐに足元で、にゃおんと可愛らしい鳴き声が響く。



「可愛いですね」



 近くで見れば、思った以上に綺麗な猫だった。体格は大きくないが、鼻も口元も桃色で、健康そうに見える。



「まだ幼い。といっても、猫にとっては立派な成人だろうが、推定二、三歳だろうか」


「この毛色は初めて見ました」



 白に黒と橙の斑を持つ毛。ふさふさしていた。触ってみたい。



「それほど珍しくはないんだが、この組み合わせの猫のほとんどが、雌として生まれるらしい」


「へー。そんなのあるんですね」


「この子が雌でよかったと、私は思うが」



 リーベは懐からパンを取り出し、千切って与え始めた。手からは食べないのか、足元に落としている。彼は続けた。



「雄は希少性が高く、見つけ次第捕らえて貴族に売りさばく者もいるからな」


「え」



 動物は好きでも、それほど詳しくなかったルシウスは、足元の猫とリーベを交互に見た。



「まぁ、猫にとって人間に飼育される方が幸せなのか、こうして自由気ままに生きる方が幸せなのか。私には想像できないことだ」



 その語調には嘲りが滲んでいた。


 夕陽が遠くで焼けている。先ほどまでの青色はすでになく、紺に掠れた空と紫、桃が僅かな境界線の中で溶け合っていた。


 今のリーベの周りを覆う何かは、エルフの里のあの小川の前で、彼が見せたものとよく似ていた。

 似ているだけだった。同じではない。


 今という時間を置き去りにして、過去を追憶の底に沈んでいる者にしか纏えない、そんなもののように思えた。


 リーベだけではなく、シュトルツにもそういったものを感じたことはある。でもあれとも種類は違う。



「青色」



 口からついて出た言葉。自分の声が、少女の声に聞こえた。

 忘れるはずがない、ルシウスが精一杯想いを込めて名付けた、ルチアの声だった。


 彼女のように実際色が見えているわけではないし、どんな青色なのかもわからない。

 ただリーベを見て、そう思ったのだ。



 彼がおもむろにこちらを見た。夕陽を受けて、金色のように輝く髪。光を避けた瞳は、琥珀を失い、暗く沈む茶色だった。


 珍しいことではないのに、一瞬違う人物を見ているような錯覚に陥る。

 ルシウスの端的な呟きに対しての返答はなく、代わりに



「わざわざ迎えに来させてすまない」とだけ、彼は言った。


「リーベのことが心配でしたし、あの後も少し色々あって」


「ああ、古文書のことならエーレから聞いている」


「――え?」



 机に向かって、我関せずといった風の男の背を思い出す。

 彼は、リーベの居場所をしっかり知っていたのだ。



「エーレって、本当に……」



 思わず、手で片目を覆ってうんざりした息を吐きだした。



「何がしたいんですか、あの人は……」



 伝達は通じる。歩いてもすぐそこだ。だというのに、知らぬふりをして僕に探させるなんて。言葉が足りないとかではなく、確信犯じゃないか。



「貴方に、私の機嫌でも取らせようと思ったのかもしれないな」



 申し訳ない。リーベは目を伏せ、顎を落とした。



「機嫌って、エーレじゃあるまいし」


「しかし、私自身の問題でクランの均衡を崩すのは、褒められたものではない」


「リーベはちょっと自分に厳しすぎですよ。エーレなんて、毎日のように不機嫌を撒き散らしてるじゃないですか」



 その機嫌を取るのはシュトルツの役目で、むしろシュトルツのおかげで、この均衡は保たれていると言っても過言ではなかった。



 ひとり憤慨を覚えたルシウスに、リーベは答えなかった。


 ぐるにゃん、と声に足元を見ると、猫はにゃおおんと強く鳴く。

 無言で隣からパンが差し出されたことに、ルシウスはそちらを一瞥だけして受け取り、先ほど彼がしていたように、小さく千切って猫の前へ置いた。



「おそらく飼い猫だろうから、少しにしておいた方がいい」


「首輪は見当たりませんけど」



 手のひらの大きさは半分に減ったころ、ルシウスはパンをリーベに返した。



「もしくは、あらゆるところで強請るのが上手な子かもしれないな」



 彼の苦笑を最後に、再び沈黙が訪れた。その中、リーベがそっと猫へと手を伸ばす。しかし、猫はそれを避けるように体を翻すと、ルシウスの靴の匂いを嗅ぎ始めた。



 猫がいてくれて助かった。ルシウスは知られないよう、そっと息を吐きだす。

 いつもはリーベが自分を気遣ってくれるが、今回ばかりは違っている。


 どうも彼は‘’自分の問題‘’を話したくないようだし、エーレやシュトルツの話題も避けた方がいい気がする。今、この場では、猫だけが緩衝材だった。


 ルシウスのその気持ちを察したのか、猫はこちらを見て、にゃあと鳴いた。そして、歯が見えるほど大きく口を開けたあと、音もなくこちらの膝へ跳んでくる。



 驚きに、思わず声をあげた時、「珍しい」とリーベが小さく微笑んだ気配がした。



「やっぱりこの子、飼われてるのかも……」



 膝に乗った慣れない感覚に、ルシウスは戸惑った。

 飼い猫でも警戒心の強い子は多いと聞くのに。



「世渡りが上手いのだろう」


「僕も、この子を見習わないといけませんね」



 じっとこちらを見上げてくる猫を見て小さく笑うと、隣から二度だけ笑いが聞こえた。



「人間が動物に与えているようで、与えられていることは存外大きいのかもしれないな」



 リーベは眉を下げて、猫を優しく見つめていた。

 珍しく感情を表に出した彼に、ルシウスは一度、口を閉じた。


 吹き抜ける風が、汗ばんだ肌に張り付く。夏の息吹は宵の口の中で、まだ吐き出されない熱のようにこもっていた。


 そっと膝上の毛を撫でてみると、想像以上に柔らかかった。猫が嫌がる様子もない。



「そのまま」



 隣からの声と共に、彼の手が膝元へ伸びてくる。猫へと翳された手からは、注意しないと感じ取れないほど微細な生命力が流れていった。

 土の魔法だ。おそらく結界。



「リーベって、猫が好きなんですか?」



 魔鉱石ではない結界魔法の持続時間は短い。それでも、この子の身を案じて張ってあげるくらいなのだ。


 そっと手を引いた彼は、逡巡するような小さな間を置いて、「どうだろうか」と呟く。



「動物は等しく、人間の庇護下にいるべきだと思うこともあれば……しかし、人間が思っている以上に彼らは逞しい」



 彼は、一度は引いた手を遠慮げにこちらへと伸ばすも、猫はまたしも避けるように、ルシウスの膝から降りてしまった。



「関心を示さないのが最適解である。そう思う私もいる」



 珍しい。口の中で呟きは、先ほどの彼の声と重なった。


 彼は最適解をはじき出すと、迷いなくそれを貫くのだろう。そう思っていた。けれど、今まさに彼が口にしたことと、やっていることは大きく矛盾しているのだ。



「つまり、好きってことなんですね」



 彼は一度、目を瞬かせ、観念したように猫へと視線を落とすと、息を吐きだした。



「その認識も間違ってはいない。ただ――」



 言葉の先を聞くよりも早く、膝が強く蹴られた。

 猫は、何かから逃げるようにして去っていく。突然の猫の行動と皮膚に爪が食い込んだ痛みに、ルシウスは顔を顰めて、膝へ手をあてた。



「お前は本当に無粋やつだな」



 身動きひとつしないリーベの苛立ちの声が、どこかへ投げられた。



「ちゃんと気配も生命力も抑えたはずなんだけど」



 背後からした声に、一拍も二拍も遅れて振り返ると、一度足を止めたシュトルツが肩を竦めたところだった。


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