子供は何も聞きたくない
「シュー兄!」
扉が、唐突に開け放れた。空を飛んでいるのではないかと思うほど、身軽に飛び込んできたのは、ルカだった。
明るい色のワンピースの裾が、空気を和らげるように、ふわりと揺れる。
問題の当人は、一見性別の判別がつかない天真爛漫さを纏い、にっこりと微笑んできた。
彼は部屋をさっと見渡す。今しがた名前を呼んだ男がいないのは明白なのに、跳ねるように部屋の隅から隅までうろうろすると、
「シュー兄は?」 最後には三人の間に立って、エーレへ向き直った。
「見ての通りいねぇよ」
「どこ?」
「知るか。レギオンにはいない」
「なんで?」
「なんでがなんでだよ。相談しにきたんじゃねぇのか」
ルカとの端的な会話の先で、苛立ちを含んだエーレの声が飛んだ。
「僕はシュー兄に会いにきたのにー」
嫌々と言わんばかりに首を振った彼に、エーレはじっとりとした視線を向けた。
「シュトルツなら、あと数日忙しい。捕まえるならその後にしてくれ」
「え~、でもそっかぁ。忙しいなら仕方ないね!」
もう用は済んだとばかりに、くるっと踵を返した彼。
――え? それだけ?
思わずルシウスが声をあげそうになった時、アランがルカの腕を掴んだ。
「ルカ!」
一度は立ち止まった彼は、軽やかに向き直る。
掴まれたのとは逆側の手で、大きく後ろへと体重をかけながら、アランの手を引っ張った。
「アラン! 面白そうな依頼見つけたんだ! ちょっと来てよ!」
子供が親にねだっているような振舞いだった。
どうやら彼は、本当に今回の件に関わるつもりがないのだろう。
僕は何も聞いてないし、何も知らない。そう言っている風にも見えた。
重ねた制止にも聞く耳を持たず、駄々を捏ね始めたルカに、アランはこちらを一瞥した後、心底困り果てたように立ちあがる。
「エーレさん、ルシウスさん。お手数をおかけしました。私たちは一旦、ここで失礼します」
それ以上に困惑していたルシウスは、会釈することしか出来ず、エーレも止めることはしなかった。
上機嫌のルカに引きずられていく彼の背は、この部屋に入ってきた時の半分ほどに、存在感が薄れていた。
そのまま彼らが扉を開け、去っていく様子をぼんやり見ていることしか出来なかったルシウスに隣で、今まで沈黙を守っていたエーレが、不意に立ち上がる。
「おい、ルカ」
不機嫌そうな低い声が、名前を呼ぶ。引きとめる声ではなかった。
「なに~?」
一方、呼ばれたこと自体が嬉しいとでもいうような、可愛らしい微笑みを称えて、ルカは振り返る。
「お前」 エーレが一瞬沈黙を挟む。霞色の大きな瞳が、パチリと瞬いた。
「いつまで子供の振りを続けるつもりだ。
これからもそうやって、逃げ続けられると思うなよ」
静かに響いたはずの声は、耳が痛くなるような強さを帯びていた。ほんの少し瞳を揺らしたルカは、すぐに大きく首を傾げて、短く唸ると、
「エーレ兄の言ってること、難しくてよくわかんないや!」
くるりと背を向けた彼は数瞬後、扉の隙間から顔だけ出すと、幼い笑顔で、跳ねた声を響かせた。
「シュー兄に、また遊ぼって言っておいて!」
扉が静かに閉じられた。嫌な空気もろとも閉じこめていったそれに、ルシウスはそっとエーレを見た。
彼は扉をじっと見据え、眉を寄せたままだった。
体からは自然と力が抜けていったルシウスは、椅子に背を預けて、静かに息を吐きだす。
妙な静寂に包まれた部屋に、それだけの吐息が、少しだけ音を立てて溶けていった。
ルカ。いや、リオセル・エルグラート。
自分より三つか四つも幼い少年。
彼の胸の内には、家のあらゆることが渦巻いているに違いない。
「エーレ」
ルシウスは今しがた、彼にエーレが向けた言葉を思い返す。
「ちょっと厳しすぎませんか?」
事情を知ったからこそ、痛々しく見えたルカの様子に、そんな言葉が口からついて出た。
するとエーレは、信じられないことでも聞いたような目で、こちらを見据えてくる。
「は?」
「え、いやだって――」
思った以上に威圧的な反応に慄くと、エーレはため息をついて首を振った。
「たしかに。出過ぎた言葉だったかもな」
「ルカさんはまだ幼いわけですし……すぐにどうにか出来なくても、仕方ないと思います」
宥めるように続けると、「あのなぁ」と彼は心底面倒くさそうにして、ベッドに腰かけ、足を組んだ。
「歳なんて言い訳にならねぇんだよ。幼いからって、考えを放棄していいわけじゃない。
――市政の一端を担うのが、貴族だ」
その視線は、扉に向けられた。
「あいつも、その一人だろ」
当然のことを当然として言っている。その口調は、ルシウスの胸を強く刺した。
ルカではない、自分に言われているように感じた。
本来皇族として、市政の一端に留まらず、国を担う立場であるべきはずの自分。
「でも、ルカさんにもルカさんの事情があると思います」
気が付けば、ルカを擁護する言葉を口にしていた。
貴族令息が、レギオンに身を置こうとするほどの経緯があったのだ。
貴族だからって誰もが、強くあれるわけじゃない。
そう思ってすぐにルシウスは、それが自分自身を擁護する言葉であることに気が付いた。
視界には黒の靴が映っていた。
彼の言っていることは正論で、それ以上何も言えなかった。
数秒の沈黙の中で、ルシウスの気持ちは床に沈む。彼がそんな意味で言ったつもりでないことは知っているのに、否定された気分に陥っていた。
そっと目をあげると、彼はどこか困ったような表情をして、手を払った。
「ああ、そういう意味じゃねぇよ。俺の言い方が悪かった。勘違いすんな」
「勘違い?」
目を瞬かせたルシウスに、彼は唸るような声で続けた。
「別にあれは、あいつを責めるつもりで言ったんじゃねぇよ」
お前もな、と付け足し、一拍が置かれる。
「こちらとしては、ルカに動いてもらいたい。でも今のあいつを見る限り、そうじゃなかっただろ。だから――」
彼は、一度は逸らした視線をこちらへくれた。どこか意味深なものを帯びていた。
「あの時、お前にしたことと同じことをしただけだ」
あの時……?
ルシウスは、数秒天井とエーレの間に視線を行き来させる。
もう一度、彼がルカに向けた言葉を思い返し、更に記憶の中を辿った先で、ついにたどり着いた。
「ああ! あの船の中での!」
あの時もエーレは僕に、ああいった言葉を向けてきたはずだ。
逃げたかったらどこまでも逃げればいい、と。
煽られた自覚はあった。それに乗ったのは自分だった……けれど。
この男は……
腹立たしさと羞恥のない交ぜになった感情を、そのまま強い視線で送りつけるも、彼はそれを受け取るどころか、流すような苦笑と共に軽く首を振るだけだった。
「最終的に決めるのはあいつだ。俺に出来ることはこれくらいしかねぇだろ」
どこか諦めを含んだような口調だった。ルシウスは先ほどこの部屋であった一連の様子を思い返す。
あの時も、今も――
彼は人の選択に、口を出そうとしない。
大人が道を示してくれた方が、もっと簡単に解決できるんじゃないかと思うことは多い。
きっと今のルカだって、そうなはずだ。
自分の経験上こうだったから、こうすべきだ。これなら間違いはない。そんな風に。
「エーレ、その煽る癖、やめた方がいいんじゃないですか?」
ルシウスは本音を隠して、代わりにそう言った。
「癖なわけねぇだろ。これで動く可能性があるやつにしか使わねぇよ」
誰にでも喧嘩売る輩じゃあるまいし。
彼はごちるように言っては、不本意そうに脚を組み替えた。
いつしかルシウスの胸のわだかまりは、掴めない距離に遠のいていた。
部屋の中に閉じ込められていた、嫌な空気はもうない。それでも彼は、その空気を探していた。




