精霊と人のあいだ
久しぶりのようにすら感じる景色。
風の精霊との対話を試みたあの草原で、ルシウスはあらゆる色が混ざり合った空を仰いだ。
一度来たことがあるだけなのに、大袈裟かもしれない。
そんなことを思いながら、深く息を吸い込む。
「いつきても爽やかな風だねぇ」
「毎日これだと嫌になりそうだ」
後方からのんびりとした声色。
ルシウスはそっと瞑目する。しかし、耐えきれず振り返った。
「リーベはともかく、なんでシュトルツまでいるんですか!」
「え?」
まるで遠足をしに来たように、あちらこちらへとゆったり歩き回っている彼。
「俺は何かあったとき用の伝書鳩だから、気にしないで~」
「伝達ならリーベの分野じゃないですか……」
エーレを屋敷にひとりにして、まさかついてくるなんて……
別にシュトルツが付いてきたから、不都合なわけではない。
でもなんだかやりにくい。
ルシウスは、そっと地面へと座り込んだ。
本当はひとりで来たかった。でもリーベはついてくるだろう、そう思っていた。
ひとりで彼女と対話するのは、まだ危険すぎる。
ルシウスは風の精霊と対話すべく、ここへやってきた。
三度目のルシウスの物語を慎重に追った結果、ひとつわかったことがあった。
二度目のルシウスは、加護の付与の全容を知らないまま、彼女を遠ざけている。
前回のルシウスは、エーレから概要を、それ以外の詳しいことは、彼女本人から聞いていたようなのだ。
そして、仲間に報せないまま、彼女にいつか名前をつける。そんな約束を交わしていた。
それが、‘’いつか‘’だった理由は。
「エーレさんとリーベはああ言ってたけど」
ルシウスが頭を整理しているにも関わらず、遠慮のないシュトルツの声が飛んできた。
「俺は賛成できないなぁ。世の中から、後天的加護付与の存在は抹消されてるしねぇ」
目を閉じていたルシウスは、そのまま眉を寄せる。
「少し黙っててください。今考えてるんです」
本質を歪ませるということがどういうことなのか。彼女と話さなきゃいけない。
深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。そして立ち上がった。
「Eshar, Elne-faen.. Ves,Melas..nira sora」
――応えて。僕たち、話をしよう。
その霊奏と同時に、足元に陣が展開された。リーベだ。
ルシウスがそちらを見ると、彼は何も言わずに頷くだけだった。
一陣の風が吹き抜ける。そっと目を閉じて、彼女の気配を探した。
しん、と静まり返った草原には、なかなか彼女は顕れなかった。
あのことがあってから、出てきたくないのかもしれない。もう一度呼びかけようと口を開いた時、耳元で小さな音が聞こえた。
ルシウスは思わず、失笑する。
先ほどの風に紛れて、いつの間にか側にきていたのだ。
――僕と話してくれる?――
くるり、と風が近くで回った。
それからルシウスは、彼女が当然のように知っているだろう自分のことを話し始めた。
帝国の皇太子で、年は十六、怖いことは苦手だし、本当は戦うことだって苦手なこと。
食べ物の好き嫌いはなく、お酒も好きなつもりだけど、酒癖が悪いらしく飲ませてもらえないこと。
仲間と出会って、学んだ色んなこと。霊奏を覚えるのには本当に苦労したし、今でもまだ、古代言語の語彙力に自信があるわけではないということ。
それでも魔法も精霊も好きで、もっと話して仲良くなりたいこと。
エーレは精霊に弱みを見せないようにと言っていたけど、自分にはどうやらそういうのは向いていないということ。
そんなことを、ゆっくりゆっくり伝えた。
話すように諷ったのは、初めてだった。
音が多少外れても、彼女には伝わっている。そんな確信もあった。
そこまで話し終えた時、甲高い音が二度、近くからした。
――変な子――
たった一言。ルシウスは苦笑する。
――僕も貴方のことを知りたいです――
風が舞い上がる。空中で留まった風が、ふと思い出したように、勢いよく地面へと降りてきた。
その風模様が、先日、情報の嵐を巻き起こしたことと重なり、一瞬体が硬直した。
降りてきた風はふんわりと、眼前へやってきただけだった。
――怖いのに、私と仲良くなりたいの?――
姿はない。でも目の前にいることがわかる。ルシウスは正面から目を逸らすことなく、僅かに頷いた。
――教えてくれますか? 貴方のこと――
物語の中の彼女は、いつも楽しそうだった。
自由気ままで、心のままに動く。我が儘のように見えて、ちゃんと彼らを想って行動していたようにも思える。
行き過ぎることはたしかにあったけど、ルシウスたちを傷つけるようなことはしなかった。
精霊と人間とでは存在が違いすぎる。簡単に脅威に変わる。
だから精霊は、人間との境界線をはっきりとさせて、それを冒さない。
災厄を生むと、それが巡って精霊を穢すことを知っているからだ。
その例外を人は忌み嫌い恐怖し、遠ざけようとする。
闇の精霊も、彼女のような精霊も。
怖がって遠ざけるばかりじゃ、何もわからない。
風の精霊は沈黙していた。何か悩むように風がゆらゆらと不規則に揺れる。
――私が私のことをわからないから、教えようがないよ――
しおらしいとも思える返答に、思わず微笑んだ。
――僕と同じですね。僕も全然僕のことがわからないんです――
一緒に見つけていきたい。見つけていけるかもしれない。
三度目のルシウスのことが頭に過った。
もし加護を受けるなら、この空間じゃないといけない。でもそうするということは、ひとつ間違えば、彼女を精霊という存在から離脱させてしまう危険性がある。
本質を歪めるということはつまり、集合体であるはずの存在を、人間に近しい存在に替えてしまうということだった。
形のないものに名前を与え、ひとつの個として認めてしまう。
勿論、そうならない方法もある。固定してしまうかどうかは、ルシウス自身にかかっている。
けれど本質を歪ませた先で、更に精霊が堕ちることがあれば――
彼女に与えられた記憶から、知識だけを得たルシウスは首を振った。
たとえ加護付与が成功したとしても、関係性を健全に保ち、彼女の本質を歪めないという自信は、とてもじゃないがなかった。
今でさえ、こうして話している彼女を、世界のどこにでもいる精霊ではなく、個人として認識してしまっているのだ。
むしろこの知識がなかったときは、精霊が人間のような単一的な存在ではなく、集合体であることなんて、ピンときていなかった。
――私と同じで、色んなこと、悩んでるんだね――
耳元で囁かれたような声に、ルシウスはため息をついた。
――あなたが人間みたいだから、もっと悩んでるんですよ――
彼女がもう少し、精霊らしい精霊であったなら、また違ったかもしれない。
思わず出た本音に、風の精霊はけたたましい音が響かせた。
ルシウスは思わず、肩を跳ねさせる。
怒ったのか、笑ったのか区別がつかない。
――本当にそう思ったの? どういうところがそう思ったのか教えて――
その声は、嬉しそうだった。
あれほど、人間なんて、みたいな言い方をしていたのに。
――どこっ、て言われても説明は難しいんですけど、意思疎通がしやすかったり、距離の詰め方……とか?――
――そうなんだ――
突然ご機嫌になった彼女に、ルシウスは首を傾げたい気分だった。
――私ね――
風が旋回する。大気を得て、空高く舞った風の塊は、渦巻きながら地へと降りてきた。
足首にかかる草が、楽しそうに乾いた音を立てる。
彼女は少し離れた場所で、つむじ風のように細く立ち上がっていた。
――人間に生まれられたらよかったのにって思うんだ――
ルシウスは目を見開く。
――だからもし、私が歪んで堕ちたとしても、後悔しないよ。
だってそれは、君の分身になれるってことでしょ?――
彼女の言葉が、甘い囁きに聞こえた。
同時に、とても残酷でおぞましいもののようにも思えた。
ルシウスは首を振る。
違う、違う。そうじゃない。
精霊が本質を失い、堕ちるということは、還るところをなくすということだ。
加護を結んだ人間の感情を引き受け、浄化を受け入れられない存在となって、死すらないまま、亡霊のように在り続けなければいけなくなる。
精霊でも人間でもない。あらゆる負の感情を背負った、歪な存在として。
――だめだ。それじゃダメなんです――
記憶の渦にはない、三度目のルシウスもこの考えに至った結果、‘’いつか‘’だったのかもしれない。
彼女は人間の真似をしすぎた。だからこそ、加護を受け入れることは出来ない。
僕がこの先、僕を保ち続けられる保証も、彼女に寄りかからない自信も、まだない。
正面で渦巻いていた風が、さらりと形をなくしていく。
――そっか。どうしてだめなのか、私にはわかんないや――
激昂すると思われた彼女は、それだけを残して、どこかへ消えてしまった。
空へと彼女を見送った時、ルシウスは張りつめていた体から一度に力が抜け、重力に引かれるまま、地に尻餅をついた。
こんなに近くに感じるのに、わかり合うことは出来ない。わかり合う日はこない。
そんな確信を痛感する。
衝撃のあまり、焦点を失った視界へ、ふとよく知る靴が映った。
「一度戻ろう、立てるか?」
差し出されたリーベの手を掴むが、膝に力が入らない。
「しょうがないなぁ」
すぐ後ろからした声を知った時には、気が付けばシュトルツに背負われていた。
「まぁ、よく頑張ったんじゃない?」
ルシウスは、頷くことができなかった。
彼が刻む一歩ごとに、頭が揺れる。
先ほど立っていた場所が遠のいていくのをぼんやりと見ていた時、すんっと鼻腔に香りが漂った。
その匂いに、彼女が残した最後の言葉が脳裏に過る。
――彼女が激昂しなかったのは、悲しかったからだ。
自分のことに必死で、ただ否定する形になってしまったことを、ルシウスは悔いた。
彼女を呼び止めなかった自分の臆病さに、うんざりするしかなかった。




