僕を想うものたちの
いくつもの世界を渡った。永くて遠い時間を、過ごしてきた感覚だった。
――全部僕で、それでいいかもしれない。
最初は混乱したけど、これが全部自分だと受け入れられたら、本当の意味で彼らの隣に並べるかもしれない。
揺れることにも、恐怖におびえることにも疲れてきた。どれが僕で、どれがそうじゃないかなんてもう……
必死に塞ごうとしていた扉の隙間から、どんどん溢れてくる何かに溶けあってしまうのも悪くない。
抵抗にも拒絶にも疲れ果て、ルシウスが自らの境界線を明け渡そう、そう思った時だった。
ぐんっと体を引き上げられる感覚があった。
気が付けば、上下左右何もない真っ白な空間に彼はいた、
「介入するつもりはありませんでした」
りん、と透き通って響いた声色。
小さな体躯、体を覆う旧式の法衣、幾重にも重ねられた冠から垂れたヴェール、隠された顔。
「リクサ」
自らの口から出た呼び方も、その本人がいることも、おかしいとは思わなかった。
ルシウスには、不思議なほどわかった。ここは夢の中。いや、自分の意識の中だ。
「加護を通して見守らせていただいておりました」
小さな一歩が踏み出される、衣擦れの音がした。
現実以上に鮮明な聴覚と視覚。意識もはっきりしている。
先ほどまで、乱雑に往復していた記憶や思考の全てから、切り離されたような感覚だった。
「僕はどうすればいいですか」
雑念が消えている。普段の自分とも違う。だからか、今必要な言葉がすぐに出てきた。
「私の意見を仰ぐ必要はありません。貴方が貴方でありたいのなら強くありなさい。
記憶に呑まれたいというのなら、それも悪くないでしょう。
その先には今とは異なる、新たな貴方があるかもしれません」
「神の化身である貴方なら、どうにかできるはずじゃないですか」
遠慮も建前もない、本音が口から飛び出ていく。
リクサがもう一歩、前へ出る。
ヴェールがひとりでに剥がれ、落ちていく様子は、まるで用意された映像のようであった。
そして、その顔が露わになった。
ルシウスは、見開いた目を離せなくなった。
幼いが、綺麗な顔立ち。
美しい黄金色の眼の片方は、空洞だった。
「神にも、その化身にも、摂理があります。
テミスの化身である私に、出来ることはあまりにも少ない」
「じゃあ、僕はどうしたら。僕は怖い。僕は、僕が怖い」
目を離せないまま、輝かしい瞳に必死に訴えかける。
「得ることもあったのではないでしょうか」
リクサは現実でもここでも変わらない佇まいのまま、剥がれ落ちたヴェールは、いつの間にか再び彼女の顔を覆っていた。
「それでも、嫌だ。僕が僕じゃなくなるなんて、耐えられない」
この場所にきてからルシウスは、自分の輪郭を取り戻した。
けれど、またあの感覚がやってくるだろう。
境界線がなくなって、自分がわからなくなっていくあの恐怖が。
怯えにしゃがみこみ、膝を抱えたルシウスの前で、三度衣擦れの音がした。
「聞こえましたか」
リクサの声がどこかへ投げられる。
顔をあげなくても、そこに誰かいるのかわかった。
輪郭はぼやけている。女性のようにも男性のようにも見える。
どうにか人型を保った、光だった。
「貴女を待っていました」
リクサの呼びかけに対して、人型――風の精霊がこちらを見た。
「貴女が、精霊の在り方に反した結果がこれです。
闇の精霊同様、テミスは貴方がた精霊を裁けません。私はそれを、非常に歯がゆく思います」
一貫して凛然としたリクサに、風の精霊は嘲笑のようなものを飛ばした。
「テミスに取り入った元人間が偉そうに。君たちにとって、この子がそんなに大切なの?」
光の輪郭が人間と同じように、こちらへ歩み出る。
同時に分厚い法衣が眼前で揺れ、視界を覆うように佇んだ。
「ええ、私たちは平等に人を大切に思います。身勝手な精霊が領分を冒して、傷つけていい存在ではない。
ここで起きたことは、秩序の天秤に触れません。裁くことは出来ずとも、貴方を遠ざけることくらいは、私にも出来るでしょう」
当然のように自分を守ったリクサを見て、ルシウスは驚きを隠せずにいた。
「待ってください、リクサ。彼女は僕を傷つけようとしたわけじゃ――」
「承知しております」
止めに入ろうと立ち上がったルシウスへ、リクサは半身を逸らして答えるが、すぐにその視線は風の精霊へ注がれた。
「では、貴女はどうしてここでやってきたのでしょうか。
貴女も彼を大切に思うからこそ、ここで来たのではありませんか?」
風の精霊は嘲るような息を、短く吐き飛ばす。あえて一度、沈黙を選んだようなリクサの次の声は、妙に深く響いた。
「貴女のその執着と依存を、人は時に、愛を呼ぶこともあるのです」
事実を事実として突きつけるような、淡々とした口調。その余韻の中で、風の精霊は大きく一歩退いた。
姿もぼやけていて顔もない。それでもはっきりとした動揺だった。
「愛……?」
彼女は、ぽつりと呟きーー
「愛!!!」
大仰に両手を広げ、吹き出さんばかりの嘲笑と共に、高々と叫んだ。
「本当に人間って、おかしなことばっかりいう。
――あの子も、君も!」
癇癪じみた声で、彼女は続いて叫んだ。
「では、貴方のそれが一体何なのか。ご自身でゆっくりお確かめください」
一方、リクサは冷静なままの彼女が差しだしてきた手を、ルシウスはそっと掴んで立ち上がった。
手を掴んだまま、隣をすれ違うように踏み出してきたリクサの声が、耳朶に柔らかく響いた。
「形を持たないものに形を与えると言うことが、どういうことなのか――
よくよく考え、慎重な決断に至ることを、忠言致します」
ハッと振り返った時には、もうリクサはおらず、その場にはルシウスと風の精霊だけが残された。
未だ、乾いた笑いを途切れ途切れあげていた彼女は、突然脱力すると、その視線をおもむろにこちらを寄せる。
「僕は……」
どうすれば、彼女に応えられるだろう。こんなにも必死に、僕のことを想ってくれている精霊に。
「僕は、貴女のことを覚えてません。僕は……貴女の知っている、ルシウスじゃ……ありません」
ひゅっと息を吸い込んだ音が聞こえてきた。顔はないのに、悲痛な表情が目に浮かんだ。
「言わないで、何も言わないで……!」
聞きたくないと首を振った彼女に、ルシウスは一歩踏み出す。
「聞いてください。僕は、貴女が大切に想ったルシウスじゃないかもしれない。
でも、だから、もう一度……もう一度、仲良くなってくれませんか?」
ゆっくり重ねた歩の先で、彼女へ手を差しだす。
「面倒かもしれませんし、辛いかもしれないけど、貴女のことを僕に教えてください」
刻み込まれた記憶で、彼女のことはもう知っている。
でも僕は、僕として彼女を知っていきたい。
ぼやけた輪郭が、そっと手に落ちてきた。
「君は私の知ってる君だよ。だって前も、こうやって――」
ルシウスは重ねられた手に、そっと生命力を送った。この空間でもそれが出来る、そんな確信を持って。
生命力から、ルシウスの気持ちを知った風の精霊は、今にも泣きだしそうな声で、数度小さく笑った。
「人間ってほんとうに……どうしようもなく、頑固だよね」
その言葉と同時だった。
真っ白な空間が、突如として暗転した。
上下左右の感覚をなくしたルシウスの体は、がくんと下に沈み――風の精霊ごと、あらゆる感覚が遠のいていく。
そこに彼は見た。
自身を覆う目に見えない膜の外側で、いくつもの記憶が、パズルを合わせるように綺麗に整えられていく様を。
最後のひとつが、かちりという音を立てて揃った瞬間、頭と体の奥にも、同じような音が響いた。
そこでルシウスの意識も、闇に落ちた。
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