第8話 底の善性×神の死角
「マシューバーブン様、道草を食いすぎでございます」
従者が先導しつつ、呆れたように苦言を口にする。
「はっはっは、すまんすまん。つい、ひたむきな若人に当てられてしまった」
最初は一言二言の助言のつもりだったが、気が付けば一時間も訓練に付き合っていた。
「まったく、ここへ来た目的をお忘れですか?」
従者は咎めるように鋭い目つきで、歩きながら後ろを振り返る。
そんな従者から視線をそらしたマシューバーブンは、明後日の方向を見つめながら懐かしむように過去を振り返る。
「しかし、思い出すな。お主がここに在籍していた時、私を見つけると目の色を変えて教えを乞うてきた。時代は変われど、勤勉な者たちが学んでおるのだな」
「うッ!?」
自分の過去に触れられ、従者が目を見開く。
「……それは、ズルいと思います」
「はっはっは! お主も歳を取れば、おのずとズルくなろう。今は成長途中、前だけを向いて精進いたせ」
従者の肩を叩き、快活に笑うマシューバーブン。従者は無駄を悟ったのか、それ以上は何も言わずに魔術協会の正面扉の前に立った。
コの字型の中央に設けられた両開きの大きな扉。切り出した石材で作られた重厚な扉には、魔術式がびっしりと刻み込まれていた。
そして奇妙な点として、ドアハンドルがない。
従者は円形の魔術式に手を置くと、魔力を流し込む。
登録されている従者の魔力に反応を示した扉は、淡い白光を放った後、地響きを鳴らしながらひとりでに開いていく。
まず、嗅覚が働いた。
甘い。
花の香りとは違う、蜜のような芳醇な甘い香りが隙間から香ってくる。
次の瞬間、全貌が目に映った。
奥に聳え立つ壮麗な大階段。品の良い調度品の数々。磨かれた石床。金製のシャンデリア。階段の踊り場という一番目が付く壁には、国旗が飾られている。
半球状の大広間は、まるで宮廷のようだった。
「これは、マシューバーブン様。ようこそ、いらっしゃいました」
中央に設置された受付に座っていた魔術師が、マシューバーブンに気付き笑みを浮かべて声をかけてきた。
「うむ。鬼の件、私が一任された。まだ目覚めていない旨も聞いておる」
「承知いたしました。では、先に済まされるということでよろしいでしょうか?」
「うむ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
深々と頭を下げる受付と別れ、二人は大階段とは別方向へ進む。
大広間の端、長い廊下の行き止まりに飾られた巨大な絵画――世界を金色に照らす太陽。
この絵画こそが、地下へと続く階段の入り口。
二人は、絵画を越える。
たった一歩。だが、絵画の先は雰囲気が一変した。
薄暗く、淀んだ空気が這いずる石造りの空間。どこからか絶えず水滴の落ちる音が聞こえ、湿った香りとカビ臭い匂いが鼻孔を刺激する。
異質であり、不穏。
しかし二人は、さらなる深淵へと降っていく。
足音と自身の鼓動だけしか聞こえない薄闇の中、やがて息が白くなるほど空気が冷えた時、小さな部屋にたどり着いた。
「これはこれは、マシューバーブン様」
階段付近に置かれた椅子に腰かけていた老人が、満面の笑みを浮かべて二人を出迎える。
「何か変わりはないか?」
「いえいえ、何もございません」
老人は、部屋の中央に置かれた台座に目を向けた。
魔術式が刻み込まれた台座の上には魔石が設置されており、刻み込まれた魔術式が淡い光を放っていた。
魔石を一瞥したマシューバーブンは、従者に向き直る。
「行ってくる」
「お気を付けて行ってらっしゃいませ」
従者に見送られたマシューバーブンは、三面の壁に設けられた扉の内、真ん中に設置された扉の前に立つ。
秘匿特定隔離牢獄――“不日知不”。
東方聖騎士団の拠点内にある牢獄とは異なり、ここは神に仇名すモノを秘密裏に幽閉しておく場所。魔術師しか入れぬ魔術協会の中でも、この場所はさらに限られた者しか存在を知らぬ場所である。
マシューバーブンは扉を開き、地の底へと降り立つ。
地の底あるのは、牢獄と小さな礼拝堂。
黄金に輝く太陽の像の前、無数の黒い染みの中心で上半身裸になったマシューバーブンは跪く。
「神よ」
おもむろに、重々しい口調で呟く。
直後、右手に持った九尾の猫鞭を思い切りに背中に打ち込む。
鋭い破裂音が、物静かな牢獄に響く。
闇に溶け込む血の匂い。
「私は今日も、罪を犯します」
一言ごとに鞭を振るわれる鞭。
皮膚が裂け、血が飛び散っても鞭は止まらない。
全身に駆け巡る痛みは、痺れと熱さとなって余韻を残す。
そのすべてを受け止めることに意味があった。
奥歯を噛み締め、また鞭を振るう。
塞がった傷や塞がりかけた傷、そして新たに刻まれる赤い傷。無数にある背中の蚯蚓腫れは、彼にとっての信仰心そのものだった。
「どうか、罪深き私をお許しください。そしてどうか、教国をお救い下さい」
厳かに行われる神への祈りは、地面に血溜まりが出来る頃に終わりを告げた。
ふいに立ち上がったマシューバーブンは、隣接されている牢獄へ赴く。
教国の下。神の死角に立つマシューバーブンは、なぜか笑っていた。




