第16話
目覚めると時計は6時を指していた。少し早く起きてしまったかしら。
魔王……エリックはすうすうと静かな寝息を立てている。こうして見ると、本当にただの年下の男の子にしか見えないんだけど。
「……かわいい、かも」
言ってから思わず口をふさいだ。何言ってるんだろう、私。そもそも急に彼を抱き締めたり、ちょっと行動がおかしくなってる。
「ん……」
エリックが身動ぎした。しまった、聞かれたかな……。
「あ、お、おはよう」
「ん……変な奴だな」
彼が目を擦る。良かった、気付いてない。
「ま、まだ寝てていいと思う。6時過ぎたばかりだし」
「……もうそんな時間か」
大きく伸びをすると、エリックはおもむろに着替え始めた。無駄な肉のない褐色の肌が、朝日に照らされて光る。
「え、ちょ、ちょっと?」
「……今更恥ずかしがることもないだろう。心配するな、お前が着替える時はいつも通り外に出てやる」
「そ、そうだけど……」
やっぱりどう接したらいいか困ってしまう。別に恋人になったとか、そういうわけでもないのに。
……恋人、か。
私はちゃんとした恋をしたことがない。子供の頃に出会った「あの人」に感じていたのは、恋愛感情というよりは大人への憧れだろう。
トンプソン先生……クリス・トンプソン宰相に対して持っていたのは畏れと尊敬が入り交じった感情で、これも多分恋じゃない。
異性と接することがほとんどなかったこともあって、私は22の今まで生娘のままだ。
だから、今私が抱えている気持ちが何なのかは、自分でもよく分からない。
これが恋というものなのだろうか?それとも、ただの同情?……頭が混乱する。
そもそも、エリックは私をどう思っているのだろう。昨晩、やっと私を「小娘」ではなく、名前で呼んでくれるようになったけど。
もし彼が私を「女」と見ているのなら、私はどうすればいいのだろうか。受け入れるべきなのかどうか、それすらも分からない。
……考えるのは、今はやめよう。考え出すと、頭がまとまらなくなる。
「終わったぞ」
私もローブを手に取る。
「うん。じゃあ、少しだけ待ってて」
「了解だ……と言いたいが」
エリックが窓を見た。振り向くと、黒い影が窓の縁の所に見える。……あれって。
「舐めるなっっ!!」
窓をバンと開けると、黒猫は「にゃあ」と鳴いて狭い窓枠を駆けて行った。
「シェイド君?」
「……判断がつかんな。ただ猫にしては随分こちらの様子を見ていたが」
顔を真っ赤にしながらエリックが言う。
「まさか、覗き?」
「ジャックも言っていたが、あいつは手癖が悪い。お前も気を付けろ。部屋の外で待っている」
「あなたも、覗かないでね」
「……馬鹿が」
ふん、と鼻息を鳴らすと彼は静かに出ていった。
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「あれはお前じゃないだろうな」
朝食の席で、エリックがシェイド君に言う。彼の頬には手形がハッキリと残っていた。
「何の話にゃ?」
「とぼけるな。小娘の……プルミエールの着替えを覗こうとしてただろう?猫に化けて」
「ん?してないにゃそんなの。だって……」
デボラさんがハムを乗せたパンを齧り、盛大な溜め息をついた。
「こいつ、私の着替えを覗いてやがったんだよ。すぐに気付いて平手打ちかましてやったさ」
ギロッとデボラさんがシェイド君を睨んだ。彼は身をモジモジさせている。
「怖いにゃお姉さん……でもそれがいいにゃ」
「先生、どんな教育してんだい?覗き魔だけじゃなく被虐趣味まであるのかい」
「返す言葉もないな。女癖以外は優秀なんだが」
エリックがデボラさんを見た。
「デボラ、シェイドが来た時間は?」
「確か、6時過ぎだねえ」
ちょうど猫が通った時間だ。
「ボクを疑うなら筋違いにゃ。それに、エリックがいるのに手は出せないにゃ。こいつ怖いにゃ、容赦ないにゃ」
「……それもそうか。じゃあ、あれはただの猫……ん」
「そういえば」
エリザベートとランパードさんが、まだ起きてない。「そのうち起きるだろ」とジャックさんは言ってたけど。
「おはようございまぁす」
欠伸をしながらエリザベートがやってきた。後ろからついてきているランパードさんは、どこか疲れた様子だ。
「あれはお前か」
「ん?あれって?」
「猫だ。俺たちの部屋を覗いていた」
「……ああ、あれ」
ランパードさんが前に出た。
「すまねえな、『草』からの連絡があってな」
「『草』?」
「そうだ。アヴァロン大司教だが、明け方前にモリブスを発ったらしい」
ニヤリ、とジャックさんが笑う。
「やはりな」
「昨晩話していた、アリス・ローエングリン教授の策ってヤツか?」
「そうだ。俺も詳しくは知らない。だが、あいつの行き先がテルモンだということを考えると、薄々見当は付く。
大方、テルモンの反皇帝勢力に動きがあったんだろう。イーリスとテルモンは一応同盟国だ。ユングヴィの原理主義派も多い。
アヴァロンは、表向きは教団員の保護でテルモンに向かったと考えるべきだろう」
「まさか……ローエングリン教授が煽動でもしてんのか?」
「直接手を下すような女じゃない。ただ、『何かおかしなこと』を引き起こした可能性は高いな。例えば、反皇帝勢力の首魁、カール・シュトロートマンの演説が街中で流れたり、とか」
「んなことができるのか」
ジャックさんが私を見た。
「お前なら分かるだろう?」
「……まさか」
「そうだ。『追憶』は大地の精霊が『過去に見たもの』を水晶などに映し出す。とすれば、『今見ているもの』を何かに映し出すこともできると思わないか?」
……可能だ。というか、それなら私にもできなくはない。ただ、やる意味がないと思っていた。
もし、遠くの場所に映し出せることができたら……それは確かに有益だろう。アリス教授なら、この程度は簡単にやってのける。
「理解できたようだな」
「でも、それって……教授が反皇帝勢力と手を組んでる、ってことですよね?どうしてそんなことを」
「それは本人から聞いた方がいいだろうな。一つ言えるのは、あいつにはあいつなりの事情があるってことだ」
ジャックさんがミルクを飲んだ。事情?一体何だと言うのだろう。
デボラさんが訝しげに口を開く。
「とにかく、しばらくアヴァロンは戻ってこない。そう考えるべきってことだね?
ただ、行ったっきり戻ってこないってこともあり得るんじゃないのかい」
「プルミエールの『追憶』が仕上がって、ネリドとエストラーダの消失にアヴァロンが関わっていると分かれば、それだけでもかなり効く。
もちろんアヴァロンを捕縛できれば最上だが。エリックとプルミエールの存在は邪魔極まりないはずだから、何かしら手は打ってくるはずだ」
「それって、アヴァロン以外の誰かが来る可能性があるってことかい」
「後で来るジョイスは俺の協力者だ。ラミレス家は敵としても、連中では派手に軍隊を動かすことはできない。無頼衆を使おうにも、俺相手に喧嘩を売るほどの度胸もないだろう。
だからこそ、アヴァロンはクドラクを使おうとしたわけだ。できることなら大事にならずに、こいつらを殺したかったからな。
それができるのは、アヴァロン本人以外だとかなり限られる。アヴァロンのグロンドなら、存在そのものを消し去れるからな」
デボラさんが「なるほどねぇ」と干し肉を焼いたやつを口に運んだ。ジャックさんが私たちを見る。
「時間的な猶予はこれでできた。後はお前ら次第だ」
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「にしても、何であの猫は私たちの部屋にいたんだろう」
お皿を洗いながらエリザベートに言う。彼女は布巾でお皿を拭きながら私を見た。
「部屋が分からなかったからじゃない?猫の目って、そんなに良くないから」
「そんなものかなあ」
それにしては、じっと見られていたような気がする。シェイド君なら、まあ分かるのだけど。
「考えすぎだよぉ。ていうか、何でこんなに疲れるんだろうね」
床を箒で掃きながら、デボラさんが辺りを見た。
「これ、昨日も思ったけど……この家自体のマナ濃度が高いね。魔術書から発せられるものだけかと思ってたけど、そこかしこにマナの発生源がある。前はこうじゃなかったけどねえ」
「なるほど、家事自体が修行の一環なわけですか」
そう、朝食を食べ終わると「シェイドだけでは片付かん」ということで私たちも家事の手伝いをさせられていた。エリックとランパードさんは薪割りをしているはずだ。
人遣いが荒いなあと思ったけど、やはりそれなりに意味があることみたいだ。
「寝室はマナが濃くなかったから、まだ良かったですけど」
「そう言えばそうだねえ。さすがにそこまで先生も鬼じゃな……」
「甘いな」
急にジャックさんが車椅子で現れた。口元には意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「ひあっ!!ビックリしたぁ」
「甘いとはどういうことです?」
「昨日は初日だったからな。これからこの家のマナ濃度を徐々に上げていくぞ。寝ている間も修行というわけだ。まずはマナの総量と体力を増やす。
近いことを昔エリックにもやったが、それよりも負荷は掛けさせてもらう。当然『夜の運動』なぞやっている暇も余裕もないぞ」
「『夜の運動』?」
ギクッ、とエリザベートの動きが固まった。
「まあお前らは安心だ。エリックのヘタレはよく知っているからな。そろそろジョイスが来るから、手早く終わらせておけ」
「は、はいっ」
ジャックさんが去ると、エリザベートが大きな息をついた。
「消音魔法掛けてて気付くとか……」
「何やってたのよ、あなた」
「プルミエール、気付かないのかい……そいつら、『番』だよ」
「『番』?」
「要は夫婦ってことさ。違うかい?」
「は???」
思わず大声が出た。
え?エリザベートって結婚してたの??そりゃ私より少し歳上だけど、見た目はこんな子供なのに。
エリザベートは「ははは……」と苦笑している。
「厳密には『番』予定なんですけどねぇ。まだ正式には婚約の儀を行ってないから」
「トリスの風習は知らないけど、こんな早いうちから結婚するとはねぇ。まあ、好色多淫でエルフは有名だから、若くてヤッてても驚かないけどさ」
「むう、失礼な。ロックモールやベルバザスの娼婦と一緒にしないでくれますかねぇ。私はビクター一筋で10年ですよ?」
「……え、そんなのずっと一緒に勉強してきて初耳なんだけど」
「休暇とかの際に、ね。ま、別に隠しておくことでもなかったんだけど」
さすがにちょっと驚いた。言われてみれば、2人の距離感とか納得するものがあるけど。
「……そ、そうなんだ……というか、あの黒猫、もしあなたたちが、その……してるとこに来たらどうしたんだろ」
「え」
エリザベートの表情が固まる。
「ご、ごめん。変なこと言っちゃったかな」
「いや、違くて。『草』の猫、三毛猫なんだけど」
部屋に重苦しい沈黙が流れた。……私たちの知らない誰かが、偵察に来ている?それともただの猫?
不安を抱えているうちに、呼び鈴が鳴った。
用語紹介
「番」
トリス森王国特有の結婚形態。トリスは一夫多妻(ないしは多夫多妻)制であり、結婚は「番」契約に基づく。
男性が女性の元に通う「通い婚」であり、女性同士の同意があれば他に妻を持つことが許される。
ただし女性も他の男性と「番」になることが可能であり、基本的にイニシアチブは女性側にある。つまり、一夫多妻制ではあるが女性優位社会である。
エルフは他国(ないしは他種族)から好色と揶揄されることが多いが、これは強ち間違いでもない。
娼婦(男娼)にトリス出身者が多いのは困窮によるものではなく、敢えて好んで選ぶ者が少なくない。
これはエルフという種族の生殖能力が低く、試行回数を増やさないと種として存続し得ないからである。「番」制度の背景にも、こうした事情がある。
なお、男性、あるいは女性同士でも「番」にはなれる。可能性は大幅に下がるが、魔法を使えば同性間の生殖も可能である。
「番」契約を結べるのは16歳からだが、一般的にこの年齢では性行為は不可能であるため適齢期は30歳以上(多くは35歳前後)である。
この観点からすると、政治的な事情があるにせよエリザベートとランパードの事例はかなりトリスにおいても珍しいと言える(しかも特定の相手のみとなると極めて珍しい)。




