第1話
コポコポコポ…………
実験室のケトルが音を立てている。私は急須にお茶の葉を入れた。
「プルミエール、ちょっといいかしら?」
「あー、すみません!すぐお茶を……」
「そうじゃなくって。お菓子がないのよ、テルモン産のマロングラッセ」
向こうからアリス・ローエングリン教授の困惑した声が聞こえた。ケトルの火を氷結魔法で消し、彼女がいる書斎へと向かう。
「え?そこの戸棚にあったはずじゃ」
「ないのよそれが。せっかく楽しみにしてたのに……」
「私は食べてないですよ?」
「分かってるわよ。あなたはそんなことしないもの。ここに今日来た可能性があるのは……」
「……エリザベートですね。あの娘、本当に食い意地が張ってるから……」
アリス教授は笑いながら肩をすくめた。
「あら、決めつけはよくないわよ?そういうときのためのあなたの魔法じゃないの」
「ああ……それもそうですけど。でも、まだまだ改良が必要で」
「だからこそよ。学会発表前の予行演習と思って、見せてごらんなさいな」
私は口を尖らせた。私の同僚、エリザベート・マルガリータは天真爛漫だけど少し常識を欠いたところがある。トリス王家の出らしいけど、もう少しなんとかならないかしら。
まあ、とりあえずの確認……ということでいいか。
「教授が最後にマロングラッセを確認したのは?」
「そうねぇ、2時間ぐらい前かしら。氷結魔法を緩めに戸棚にかけておいたのよね。
そして講義のために席を外したから……貴女が来たのは?」
「30分前ですね。じゃあ、その間ってことですか」
私は水晶玉を取り出し、そこにマナを通していく。小さく、地の精霊に働き掛ける詠唱を始めた。
「深き地の中より生まれ出る者
悠久の時を生き続ける者
汝に感謝と我が願いを伝えん
今より2刻、それより1刻半の間に汝が見たものを映せ……」
ぼわっと水晶玉の表面が歪む。そこには、上から見た書斎が映し出されていた。
「うん、私が出ていく所が見えるわね。『再生』、早められる?」
「はい。まだ『倍速』程度ですけど」
「本当は5倍速ぐらいまで行ってほしいのだけどね。そこはこれからの課題かしら」
「再生」を始めて20分ほどすると、窓から何かが入ってきた。
「……これは」
「猫、ねぇ。それも黒猫。最近研究棟に住み着いたって子かしら」
それは顔をあげると、スンスンと鼻を鳴らす様子を見せた。まるで犬みたいだ。
そして、一直線に戸棚に向かうと……器用に戸棚を開けてマロングラッセを咥えると、そのまま窓から去ってしまった。
「……まさか猫だなんて。というか、こんな器用な猫っているものなんですか?」
「あらら、『偽猫』かもしれないわよ?最近、愛玩用に飼っている人多いらしいし。
あれなら子供ぐらいの知能があるから、不思議じゃないわ」
「偽猫なら尻尾は2本のはずですが、あの猫は……」
「1本だけだったわね。ここの魔道士が手を加えたのかもしれないわ」
アリス教授はクスクス笑っている。確かに、ここオルランドゥ魔術都市には変な魔術士がたくさんいる。
偽猫に普通の猫の真似をさせる人がいてもおかしくはない、か。
「まあ仕方ないから、お茶の時間にしましょう?
お湯、もう一度沸かし直しておいてね」
私は苦笑しながら厨房に戻る。研究の合間に飲むトリスの緑茶は格別なのだった。
#
「にしても、大分こなれてきたわね。今までにない魔法であるのは確かだわ」
ズズッ、とアリス教授がお茶を啜った。私はマロングラッセの代わりに、エリザベートの故郷の土産「セベー」を齧る。少ししょっぱいけど、トリス茶にはそれがよく合う。
「ありがとうございます。でも、まだまだ課題は山積です。『再生速度』はまだ上げなきゃいけないですし、それに……」
「もっと昔のことを精霊を通して映し出すのは、マナが全然足りてない。引いてはマナの効果がまだ非効率であるという証明……でしょ?」
私は小さく頷いた。
「ええ。さすがですね。精霊魔法なら教授の右に出る人はいませんけど」
「あらあら、私には貴女の発想はなかったわ。精霊の『視覚』を再現することで、その場所で何があったかを映し出す。
あなたの『追憶』は、唯一無二のものよ。もっと自信を持ちなさいな。
それに、『思い出させる』んでしょう?10年前に、何があったか」
「……はい」
「貴女の記憶は、誰かによって消されている。それを取り戻すことは、私にすら無理だったわ。
どうして貴女の記憶が消されたのかは分からない。何か、貴女が知ってはいけない真実を隠すためかもしれない。
でも、貴女の『真実を知りたい』と思う気持ちは止められないわ。だから、私は貴女に精霊魔法を教えることにしたの。そして、それはもうすぐ実を結ぶわ」
教授が私に微笑みかけた。
「プルミエール・レミュー。貴女の魔法は、きっと多くの人を救うでしょう。学会が終わったら、各国から召し抱えの文が届くはず。そのために、もう少し頑張らなくちゃね」
「はい!それも、教授のおかげです」
「やあねぇ、御世辞を言っても何も出ないわよ?
……ところで、もし文が来たらどこに行くつもり?」
「え?……それは、多分……アングヴィラじゃないかと。私、あそこで育ちましたし」
窓から風が吹き込んできた。教授は少し険しい顔になって、開いたままだった窓を閉める。
「……あそこはやめときなさい」
「えっ……何でですか?」
私は困惑した。完全にアングヴィラに戻るつもりでいたからだ。
私の生まれは大陸北東部のテルモン皇国だけど、叔父夫婦の死の後は南西のアングヴィラ王国で育った。
記憶を失ったままの私を、たまたまテルモンを訪問していたクリス・トンプソン宰相が拾ったのだ。
そして、私は彼の庇護の元育てられた。オルランドゥ魔術学院に入れたのも、彼の口利きがあってのことだ。
私に父の記憶はほとんどない。だけど、トンプソン宰相は……私にとっては、親も同然だ。
だからこそ、アングヴィラに戻らないという選択肢はなかった。私の「追憶」で、彼の恩に報いる。そのつもりだった。
だから、教授の言ったことを私は理解できなかった。困惑したままの私に、教授は首を振る。
「いいからやめておきなさい。貴女のためよ」
私は思わずテーブルを叩いた。ガチャンとグラスが揺れ、溢れた緑茶がテーブルクロスを濡らす。
「どうしてなんですかっっ!!!」
教授は無言のまま、天井を見上げた。
「いつかは伝えないといけないけど、私にはまだ確信がない。もう少し、待ってちょうだい。
学会が終わり、今は秘している貴女の魔法が世に知られるようになったら……きっと理由を教えられると思う」
「……一体何を」
「真実を知ることは、時に残酷なのよ。……仕官の件なら、もしモリブスから話が来たら通してあげる。古い友人がいるの」
教授は溢れたお茶を布巾で拭き取った。
「お茶、淹れ直すわね」
教授があんな頭ごなしに言うなんて初めてだ。……でも、その時の私には、彼女の言うことが全く分からなかった。
#
お茶の後の微妙な空気は、1人の闖入者によって破られた。
「教授!プルミエールさんっ!お茶にしましょ!」
「……エリザベート、もう済ませたわよ?」
「えっ……私抜きで?ひどいっ」
「遅刻する貴女が悪いのよ。ここでの論文執筆は、3の刻からと決まってなかった?」
エリザベートは時計を見る。針は4と半刻を指していた。
「ありゃあ……確かに。大遅刻ですねぇ」
「まあ貴女の論文は詰めの段階だし、もう来なくても大丈夫かもしれないけど」
ばつが悪そうに、エリザベートは頭をかく。
「うう……すみません。あ、プルミエール。そっちはどう?」
「うん、まあまあ順調」
「そっかそっか。どんな魔法なのか、楽しみだよぉ。プルミエールだったら、さぞすごいんだろうなぁ」
「あなただって。でも、同じ研究室でも学会まで研究内容は秘密なのよね」
ウフフ、と教授が笑った。
「まあ、新しい魔術ってのはそれだけの価値があるからね。昔からの慣例、ってとこかしら。
実際、事前に漏れた結果盗用されて大問題になったこともあるから」
「でも教授は知ってるんですよね、プルミエールの研究」
「ええ、でも教えないわよ」
「むー、残念。ところで、ぜんっぜん話は変わるんですけど。『魔王』、出たらしいですよ」
「『魔王』?……ズマのハンプトン大魔候、ではなくて?」
エリザベートが声を潜める。
「違いますよ。モリブスに、自称魔王が出たそうなんです」
「自称?意味ないじゃない、それ」
「ええ。でも、ご存じの通りエルフの情報網ってそこそこ正確なんですよ。で、そいつって魔力の質が異常に高かったらしいんです」
「……悪さは?」
「今のところ。ただ、オルランドゥ方面に向かったとかなんとか」
アリス教授が黙った。
「……こっちに?」
「ええ。だから注意した方がいいって、さっき連絡が。見付けたら即警察にと」
「悪いことをしてないのに、警察を呼ぶの?」
やれやれ、とエリザベートが首を振った。
「だからこそよ。魔王の正体は分からない。けど、高い魔力を持った魔族なんて、それだけで危険でしょ?
何かしでかす前に捕まえておかないとダメじゃん。あなたの叔父さんたちだって、魔族に殺されたわけでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「何が切っ掛けで魔族の『獣性』が解き放たれるかなんて、分からないでしょ?だからこれは仕方ないのよ。まして自称魔王なんて、ロクな奴じゃないだろうし」
確かにそうだろう。概して魔族には、悪人が多いとされている。
だから各国で人権は制限されている。多民族国家で比較的寛容な、ロワールやモリブスですら、だ。
「……あまり遅くまでやらない方がいいわね、2人とも。
特にプルミエールは魔法を使わせちゃったし、もう上がっていいわ」
「え、いいんですか?」
「学会、来週でしょ?論文も大事だけど、実技が上手く行かなかったら意味はないわ。
今日は早めに帰って、体力を回復させときなさい」
「あっ、ありがとうございます!」
教授はヒラヒラと手を振った。
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私の家は、オルランドゥ魔術学院から歩いて10分ぐらいの所にある。
家からはオルランドゥ大湖が近い。マナに溢れたあの湖畔を歩くと、それだけで力が湧いてくる気がする。
ゆっくりと歩いていると、ぐう、とお腹が鳴るのを感じた。
夕食時には少し早いけど……ま、いっか。最近お酒も飲んでなかったし、少しぐらいはいいだろう。
「へい、らっしゃい。ってプルミエールじゃん」
「おひさです、カトリさん」
湖の側に立つレストラン……というかカフェに入ると、カウンターの向こうからピョコンと長い耳が立つのが見えた。
「うん、久し振りだねえ。学会が近いって聞いたから、しばらく来ないもんだとばかり思ってたよ」
「今日は早く帰れたんです。だから、学会前の気晴らしってことで」
「いいねえ。今日はいいのが揚がってるんだ、ちゃちゃっと捌いてやんよ」
白い歯を見せて、ウサギの亜人……カトリさんが笑った。旦那さんのウカクさんは、厨房みたいだ。
「いいですね!何ですか?」
「オルディック海老だよ。今、旦那が海老の煮込みスープを作ってるけど、あたしは活け造りだね。これはあたしからのおごりってことでいいかい?」
「あっ、わ、悪いですよ」
「いいからいいから。学会が上手く行ってあんたが仕官したら、その時に出世払いさ」
奥からウカクさんが現れ、奥の席にいる客に料理を出しに行った。
後ろ姿しか見えないけど……随分小さいな。亜人かホビットかしら。テーブルには皿が結構積まれている。
「ありがとうございますっ。で、お酒ですけど」
にぃ、とカトリさんが笑った。
「ちゃんとあるよぉ。アングヴィラ産の葡萄酒の白、『コルナック』」
「わぁすごい!でも、高いんでしょ?」
「まあね。でも、これもおごっちゃう」
「え?」
カトリさんがチラリと奥の客を見て、私に耳打ちした。
「それがさ、あの客が『前払い』って言ってドカンと払ったのよね。受け取れないって言ったんだけど、聞かなくって」
「え、いくらぐらい?」
「それが100万ギラ!2週間分の売上だよ?まあ、それに見合うぐらい良く食べるんだけどさ……」
100万ギラ??魔術学院を首席で卒業した仕官者の初任給2ヶ月分並みじゃない……
「何者なんですか?」
カトリさんは肩をすくめた。
「さあ。というか、子供なんだよねぇ。本人は28だとか言ってたけど。
気味が悪いけど、お金は確かに持ってたからそれ以上は聞かないことにしといた。何より、魔族っぽいのよねぇ」
ゾクリ、と身体に震えが走った。まさか……
「『魔王』?」
「なーに突拍子もないこと言ってんのさ。相手は子供よ?確かに怪しいも怪しいけど、魔王はないわよ」
奥の席の男……いや少年は、ウカクさんと何やら話している。こっちの会話には気付いてないようで、ほっとした。
「そう……ならいいんですけど」
「とりあえず、これ付け出しね。ちょっと待ってて、葡萄酒の栓抜くから」
チーズをトリス名産の調味料「ソミ」に漬けたものを出すと、カトリさんがコルク抜きを探し始めた。
私は奥の席の少年をもう一度見る。……そんなに魔力は感じない。
魔王は異常に魔力が高いってエリザベートが言ってたから、やっぱり気のせいかな。
トクトクと葡萄酒がグラスに注がれる。口にすると、キリッとした刺激が喉を通り抜けた。その奥には、芳醇な香りと甘味。
「美味しいっ!!」
「でしょ。どんどん飲んでね」
しばらくすると、お酒と料理の美味しさで、奥の席の少年のことはすっかり忘れてしまったのだった。
#
「じゃあカトリさん、また~」
「プルミエール、足元には気を付けてねえ」
「らいじょうぶれすよぉ。家までは3分もないですしぃ」
うーん、自分で喋っていて呂律が怪しい。2本開けたのはやり過ぎだったかな……
ふらふらと、家に向かって歩く。上級学生には1人1軒の家が貸し与えられる。研究に専念してほしい、という魔術学院の意向であるらしい。
小さいけど、そこそこ快適で嫌いではない。あと少しでここともお別れと思うと、ちょっと残念だけど。
…………ザッ
背後から音が聞こえた。……何だろう。振り向くけど、誰もいない。
また歩き始める。家が見えてきた。
…………ザッ、ザッ
今度は気のせいじゃない。ハッキリと、足音が聞こえる。
嫌な予感がして振り向いた。そこには……
「動くな」
黒装束の男が2人。そしてそのうちの1人は、私の背中に剣を突き付けている。
「…………え」
「叫ぶな。叫んだり声を出したら殺す。大人しく我々についてこい」
「……何者、なの」
酔いが一気に抜けていくのが分かった。まずい。これは、まずい。
でも、魔法を使っても……詠唱している間に刺されるだろう。もちろん、私に武術の心得なんて、ない。
黒装束の男は、底冷えのする声で告げた。
「お前に言うことはない。ただ、ついてくればいい」
「……何を、しようと、いうの」
歯がガチガチと震える。目からは涙が溢れてきた。
そんな。こんな所で、私は……殺されるの??
男は何も言わず、剣をさらに突き付ける。プツ、と制服のローブが貫かれる音がした。
「お前が知る必要もない。今殺されたいか?」
足に力が入らない。絶望で、私はその場に座り込みそうになった。
その刹那だ。
…………ザンッッッ
「……あっ」
何か、光るものが私の目の前に走った。黒装束の男の首が大きくかしげ……そしてボドリと落ちた。
鮮血が、噴水のように上がる。
「え」
もう一人の男が口にした瞬間、彼の首も地面に落ちた。
首をなくした身体だけが、2体目の前に立っている。
これは、悪夢?酔いが見せた、悪夢なの?
しかし、降り注ぐ紅い雨は……これが現実であることを示していた。
恐怖が全身を駆け抜ける。
「……キッ、キャア……むぐっ」
叫ぼうとした私の口を、誰かが塞いだ。
「黙れ。逃げるぞ」
「んぐうっっっ!!?」
「黙れ、と言っている」
口を塞ぐ主の顔が見えた。月光に照らされた、その顔は……
浅黒い肌に尖った耳。そして、まだ幼さを残した顔。
まさか、あの店にいた彼は…………
次の瞬間、私の意識は、消えた。
#
それが、私……プルミエール・レミューと、「魔王」エリック・ベナビデスの出会いだった。