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もう一度妻をおとすレシピ 第6冊  作者: 奄美剣星
読書
54/100

読書/柳田国男『遠野物語』 ノート20161223

【概要】

 漠然と物書きを志していた著者が、誘われて旧友の故郷・岩手県遠野を訪れる。そこで取材していくうちに、小説よりもむしろ、取材ノートが整備されて独り歩きを始め、民俗学というジャンルが確立してしまった。日本の民俗学者は必ず目を通すバイブルだ。



【抜粋】

柳田国男『遠野物語』1/2


 山々の奥には山人住めり。栃内(とちない)村和野(わの)の佐々木嘉兵衛(かへえ)という人は今も七十余にて生存せり。この(おきな)若かりしころ猟をして山奥に入りしに、(はる)かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を(くしけず)りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば(ただち)(つつ)を差し向けて打ち放せしに(たま)に応じて倒れたり。そこに()けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの(しるし)にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを(わが)ねて(ふところ)に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて()えがたく睡眠を(もよお)しければ、しばらく物蔭(ものかげ)に立寄りてまどろみたり。その間夢(ゆめ)(うつつ)との境のようなる時に、これも(たけ)の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち(ねむり)は覚めたり。山男なるべしといえり。

○土淵村大字栃内。

 黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠(かみかく)しにあうことは(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて、若き娘梨(なし)()の下に草履(ぞうり)()ぎ置きたるまま行方(ゆくえ)を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に(あつ)まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び(あと)(とど)めず行き()せたり。その日は風の(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの(ばば)が帰って来そうな日なりという。

○オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷(えぞ)風俗彙聞(いぶん)』に見ゆ。

○羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。

一五

 オクナイサマを祭れば(さいわい)多し。土淵村大字柏崎(かしわざき)の長者阿部氏、村にては田圃(たんぼ)(うち)という。この家にて或る年田植(たうえ)人手(ひとで)()らず、明日(あす)(そら)(あや)しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方(いずち)よりともなく(たけ)(ひく)小僧(こぞう)一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに(まか)せて(はたら)かせて置きしに、午飯時(ひるめしどき)(めし)を食わせんとて(たず)ねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、(しろ)()きよく(はたら)きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を()いたまえと(さそ)いしが、日暮れてまたその(かげ)見えず。家に帰りて見れば、縁側(えんがわ)に小さき(どろ)足跡(あしあと)あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚(かみだな)のところに(とどま)りてありしかば、さてはと思いてその(とびら)を開き見れば、神像の腰より下は田の(どろ)にまみれていませし(よし)

一六

 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて(ささ)ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。

一七

 旧家(きゅうか)にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊(いいで)今淵(いまぶち)勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下(ろうか)にてはたとザシキワラシに行き()い大いに驚きしことあり。これは(まさ)しく男の()なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物(ぬいもの)しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋(へや)にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの(あいだ)(すわ)りて居ればやがてまた(しきり)に鼻を()らす音あり。さては座敷(ざしき)ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿(やど)りたもう家は富貴自在なりということなり。

○ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと『石神(いしがみ)問答』中にも記事あり。

り。

四五

 猿の経立(ふったち)はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂(まつやに)を毛に()り砂をその上につけておる故、毛皮(けがわ)(よろい)のごとく鉄砲の(たま)(とお)らず。

四六

 栃内村の林崎(はやしざき)に住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを(まこと)の鹿なりと思いしか、地竹(じだけ)を手にて()けながら、大なる口をあけ嶺の方より(くだ)り来たれり。胆潰(きもつぶ)れて笛を吹きやめたれば、やがて()れて谷の方へ走り行きたり。

○オキとは鹿笛のことなり。



柳田国男『遠野物語』2/2


五五

 川には川童(かっぱ)多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端(かわばた)(うち)にて、二代まで続けて川童の子を(はら)みたる者あり。生れし子は()(きざ)みて一升樽(いっしょうだる)に入れ、土中に(うず)めたり。その(かたち)きわめて醜怪なるものなりき。女の婿(むこ)の里は新張(にいばり)村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人(ひと)にその始終(しじゅう)を語れり。かの家の者一同ある日畠(はたけ)に行きて夕方に帰らんとするに、女川の(みぎわ)(うずくま)りてにこにこと笑いてあり。次の日は(ひる)の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々(よるよる)(かよ)うという(うわさ)立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附(だちんづけ)に行きたる留守(るす)をのみ(うかが)いたりしが、のちには婿(むこ)()たる(よる)さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐(かい)もなく、婿の母も行きて娘の(かたわら)()たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽(うまふね)に水をたたえその中にて()まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻(みずかき)あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法(にょほう)の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

五六

 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を()みたることあり。(たしか)なる証とてはなけれど、身内(みうち)真赤(まっか)にして口大きく、まことにいやな子なりき。(いま)わしければ()てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。

○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分(おいわけ)なり。

五七

 川の岸の(すな)の上には川童の足跡(あしあと)というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指(おやゆび)は離れて人間の手の(あと)に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。

五九

 (ほか)の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は(つら)(いろ)(あか)きなり。佐々木氏の曾祖母(そうそぼ)(おさな)かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃(くるみ)の木の間より、真赤(まっか)なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

六四

 金沢村(かねさわむら)白望(しろみ)(ふもと)、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる(なにがし)かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬 の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶(てつびん)の湯たぎりて、今まさに茶を()んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然(ぼうぜん)として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国(おぐに)の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて(まこと)とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち()たり長者にならんとて、婿殿(むこどの)を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく(むな)しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。

○上閉伊郡金沢村。

六五

 早池峯(はやちね)御影石(みかげいし)の山なり。この山の小国に()きたる(かわ)に安倍ヶ(あべがじょう)という岩あり。(けわ)しき(がけ)の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任(あべのさだとう)の母住めりと言い伝う。(あめ)()るべき夕方など、岩屋(いわや)(とびら)(とざ)す音聞ゆという。小国、附馬牛(つくもうし)の人々は、安倍ヶ城の(じょう)の音がする、明日(あす)は雨ならんなどいう。

り。

七〇

 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて(いま)す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石(はねいし)たにえという人の家なるは掛軸(かけじく)なり。田圃(たんぼ)のうちにいませるはまた木像なり。飯豊(いいで)の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。

九八

 路の傍に山の神、田の神、(さえ)の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。

一〇三

 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊(そりっこあそ)びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。

一〇六

 海岸の山田にては蜃気楼(しんきろう)年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴(みな)れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。


     ノート20161223

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