第九話 『熊をバラす』
川べりの岩に乗せた熊の屍に、突き刺した剣鉈を走らせながら、ヒルディアは表情を失った顔でつぶやき続ける。
「……どうしてですの……どうしてですの……」
まず、仰向けにした熊の股から頭に向けて一直線に切れ目を入れると、皮膚と脂の間を刃で掻き分け、毛皮を剥がす。
続いて腹を十字に切り開き、食道から順に内臓を取り出す。
それが済んだら肉を切り分け、川の淵に浮かべた籠の中へと放り込んでいく。
自分でも信じられぬことだが、そのすべての行程を、ヒルディアは手が勝手に動くに任せて進めることができた。
なぜ己にこんなことができるのか、まったくわからない。
そもそも、獣の臓物など、目にしただけで卒倒しそうなものだ。
それなのに、未だ温もりの残る腸を引きずりだしても、嫌悪感すら覚えない。
ただ淡々と作業をこなしていく己自身が、ヒルディアには信じられない。
その手慣れた動きに驚いているのは、本人ばかりではない。
ここまで熊を運搬した後、手伝いを命じられた村の若集も、時折ヒルディアに指示されるまま熊を動かす以外には手を出すこともできず、彼女の鮮やかな手付きに見入っている。
「……すげえ」
「短剣一本で、あのバカでかい熊がもうほとんどばらばらだ。なんて手際だよ」
「普通半日がかりの作業だろ。明日まで水ん中に沈めとくのかと思ったが、こりゃ日暮れまでに終わるぞ」
「こんな技術、どうやって身に着けたんだ?」
背後でひそひそと言葉を交わす男たちのセリフが耳に届き、そんなの私が一番知りたいとヒルディアは思う。
熊を退治した後、一度村へ戻ったヒルディアとスイガは、村長と村の男たちを引き連れ、ふたたび熊のもとへと戻った。
その道すがら、ヒルディアは己が狩ったらしい熊が、最近人里へ姿を現すようになり、何人もの村人を死傷させていたということを聞いた。
村の男たちが総出で山狩りに出るも、熊は狩人の多くを返り討ちにし、仕掛けた罠もことごとく壊されたのだという。
そこで村長は、近くの山に居を構えているスイガに助けを求めた。
ということは、つまりスイガは、そしておそらく己も、村に住んでいるわけではないようだとヒルディアは察した。
ただ、それで何故、己がその熊と戦うことになったのかまではわからなかった。
熊の屍は頸動脈を断たれており、血抜きがされているとはいえ、時間が経つほど鮮度は失われるし、血の匂いを嗅ぎつけた獣や虫に食い散らかされるおそれもある。
寒村にとって熊肉は貴重なタンパク原なので、早急に確保し、加工するのが望ましいのだという。
だから、いろいろと聴きたいことがあっても、皆急いでおり、質問ができる雰囲気ではなかった。
現場に到着すると、村の男たちは斬り伏せられた熊の遺体を見て言葉を失い、血塗れのヒルディアに恐れを含んだ視線を向けた。
男たちが総出で熊を担ぎ上げ、沢まで運んで流れの緩くなっている場所で洗い、泥やダニなどの寄生虫を落とすと、スイガはヒルディアに解体を命じた。
村長が男たちに手伝いを命じたが、ヒルディアは手伝ってもらったところでやり方がわからないと言って固辞しようとした。
しかし、とりあえずやるだけやってみろと、スイガから有無を言わさぬ口調で命じられ、渋々試してみたところ、おそろしく馴れた手付きで熊をバラし始めたのだった。
なにがなんだかわからないまま解体作業を進めるヒルディアを、スイガと村長は少し離れた場所で見守りながら話している。
「ほ、本当に熊の肉のすべてをお譲りくださるのですか!?」
小さな目を精一杯見開いて己を見上げる村長に、スイガは首肯してみせる。
「あんな大物の肉、己と弟子だけでは持ち帰れまい。仮に運べたとしても、ほとんど食べきれず腐らせてしまうだけだろうからな」
「ありがとうございます! 僅かな報酬で討伐してくださったばかりか、仕留めた獲物まで譲渡していただけるとは! 熊に作物を荒らされ、男手まで失いましたが、あれだけの肉があれば冬を越すことができるでしょう! なんとお礼を言ったらよいか!」
「気にしないで良い。其処許らにはこれまでいろいろと世話になってきたからな。ただ、干し肉に加工したら、後で少し分けてくれるとありがたい」
「ええ、ええ、もちろんですとも」
「それともうひとつ。胆嚢だけはこちらで引き取りたい」
「はあ、内臓は腸と肝以外捨てるのでまったくかまいませんが」
「助かる」
会話が途切れたところで、身を屈めて熊を捌いていたヒルディアが顔を上げる。
「師匠! だいたい終わりましたわ!」
「ご苦労だった! 村長」
「ええ、では皆の衆! 村までの運搬を頼むぞ! もうひと踏ん張りだ!」
男たちが肉の入った籠を澱みから引き上げ背負う様を眺めながら、村長はスイガに提案する。
「今夜は宴席を設けますゆえ、我が家にお泊りください。熊肉料理を振る舞いますぞ」
「いや、気遣いは無用だ。一度村へ戻って自分たちの荷を回収したら、そのまま小屋へ帰るつもりだ」
「それでは到着される前に陽が沈むでしょう。夜の山は危険ですぞ?」
「問題ない。己も弟子も野宿には慣れている」
「なぜ、それほどお急ぎに?」
「弟子の修行のためだ。熊狩りはいい経験になっただろうが、日課の修練は既に四日も途切れている」
「さようでございますか」
村長は男たちに指示を出しているヒルディアに切なげな目を向ける。
「不憫ですなあ……あのような若い娘が」
スイガも無表情に彼女を見つめながら短く呟いた。
「本人が望んだことだ」
村へ戻ると、ヒルディアたちは慌ただしく荷物をまとめ村を発つこととなった。
ふたりを見送るため、数人の若い衆を伴い村の入り口まで足を運んだ村長が口を開く。
「道中お気をつけて」
「ああ」
「小屋へ戻られましたら、サムエルにはすぐ帰るようお伝えください」
「承知した」
「今回ばかりではなく、お二方には助けられてばかりですな……我々にできることがあればいつでも頼ってきてくだされ」
「気遣い痛み入る。ではな」
スイガが歩き出すと、ヒルディアも後に続こうとするが、村長に呼び止められる。
「ああ奥方様、最後にひとつよろしいでしょうか」
さっき初めて会った相手で、記憶を失っているため人となりがわからないこともあり、ヒルディアは訝りつつ村長に歩み寄る。
「あのぅ私、師匠の妻ではないようなのですけれど」
「ふぉっふぉっ、今はそうでも、将来的にどうなるかはわかりますまい」
「え? それって――」
「あの御仁は人格者ではありますが、どうも女性の心の機微には疎い様子」
戸惑うヒルディアに、村長はサムズアップしながら片目をつぶって見せる。
「ゆえに、押せ押せ、ですぞ」
「押せ押せ……」
「なにをしているヒルダ、日が沈んでしまうぞ」
既に歩き出しているスイガに呼ばれ、ヒルディアは慌てて村長に一礼すると、駆け足で追いつく。
「あの、師匠」
ヒルディアに話しかけられ、スイガは小さく首を動かし、彼女へ視線を向ける。
「どうした?」
「いい人ですわね、あの村長様」
「ん? そうか」
未だ状況はわからないことばかりだが、それでも、己の気持ちに気づいて、応援してくれている人がいるらしいと知り、ヒルディアは心強く思ったのだった。




