第八話 『記憶喪失』
前髪の先から血を滴らせながら、ヒルディアは手に握った刀を見下ろし呆然とつぶやく。
「えぇ……なんでぇ?」
左手が無意識に、肩から胸へと垂れた髪に伸びる。
ストレスを受けた時、無意識に毛先をいじる癖だ。
しかし、指先に感じた違和感に視線を移し、またもや驚愕する。
「直毛になってますわぁ!」
己の髪は、鏝で巻いていたはずだ。
裁判以来頭髪を整えられていなかったので崩れかけていたとはいえ、いきなりここまで変わるものか。
それに着衣も、未だかつて身に纏ったことのないような服に変わっている。
今は血に塗れて赤く染まっているが、元は生成りと思しき麻のような素材の丈長のブラウスと、フードの付いた黒い半袖の外套を着て、ゆったりとした黒のトラウザーを焦げ茶の革のブーツにたくし込んでいる。
スイガと出会った際に森で着ていたドレスとはまるで違う、厚手の硬い素材でできた男性的な装いだ。
着心地はお世辞にも良いとは言えないが、妙に体に馴染んでいる気がした。
「ああもう、なにがなんだか――」
「さっきからなにをわめいている」
訝しげな様子でスイガが近付いて来るのに気付いて、ヒルディアは縋るように訊ねる。
「あ、あの、スイガ様、いったいなにがどうなってますの?」
「スイガ様、だと?」
スイガはヒルディアの傍で立ち止まり、眉根を寄せる。
「その呼び方、はじめて出会った頃を思い出すな。おまえこそどうしたのだヒルダ?」
「ひ、ヒルダぁ!?」
ヒルダとは、ヒルディアの略称だ。
いつの間にそんなふうに呼ばれるほど親しくなったというのか。
だが悪い気はしない。
むしろいい、いやすごくいい、とヒルディアは思う。
「はい、ヒルダですわぁ」
「いや、本当にどうした?」
スイガは困惑の表情を浮かべるが、程なくなにかに思いあたると、ヒルディアの顔に手を伸ばす。
「え? あぁあの、スイガ様!?」
「動くな」
ヒルディアが身を固くしていると、スイガは彼女の側頭部に触れる。
途端、ヒルディアはびくりと身を跳ねさせる。
「ああ! いぃい今、全身に衝撃が走りましたわ!」
「そりゃ痛かろう。大きなコブができている」
「え? コブ?」
スイガは手を放すと、一歩下がって小さく息を吐く。
「さっき熊の爪を躱した際、手が頭を掠めてよろけ、樹の幹にこめかみをぶつけていたな。憶えていないか?」
「い、いえ……というか、さっき私がこの熊を斃したとおっしゃっていましたけれど、ご冗談、ですわよね?」
「やはり……記憶を損なったか。しかも、己の呼び方から察するに、影響は短期記憶だけにとどまらないようだな」
「え? そ、そんなことありますの?」
「短期的に記憶を喪失する奴は、戦場ではさほど珍しくもなかった。それよりも、先に確認すべきは記憶以外に障害などないかだ」
不安に表情を曇らせるヒルディアの目の前に、スイガは人差し指を立ててみせる。
「指の動きを目で追え」
そう言ってスイガが左右に動かす指を、ヒルディアは視線で追う。
「……問題なさそうだな。次は指の数を言ってみろ」
スイガが次々立てる指の本数を、ヒルディアは即座に口にしていく。
「三、五、二、三、四」
「とりあえず頭はまともに機能しているようだ。それで、いつまでの記憶を思い出せる?」
「いつ、と言われましても……森で王国の従騎士たちに襲われているところをスイガ様にお助けいただいて、それからどうなったのか、よくわかりませんわ」
「おい本当か? さすがにまいるな」
頭を抱えて俯いたスイガの困り顔を見て、ヒルディアはいたたまれない気持ちになる。
「も、申し訳ありませんわ、師匠……え? せんせい?」
「む?」
スイガは顔を上げる。
「なんだ、もう呼び方を思い出したのか」
「い、いえ、今のは自然と口をつきましたの」
ヒルディアは自分のセリフに驚く。
師匠、とはいったいどういうことなのか。
「だとしても良い兆しだ。どうなることかと思ったが、意外とすぐに記憶は戻るかもしれんな」
「そう、なのでしょうか」
「まあ考えても仕方のないことだ。他には怪我もないようだし、村へ戻るぞ」
「村?」
「ああ。己らは、近くの村からの頼みで、害獣であったその熊を狩ったのだ。といっても、今回、己は手を出していないがな」
そう言って踵を返し歩き出すスイガを、ヒルディアは慌てて呼び止める。
「え、ちょ、待ってくださいまし!」
「ん? どうした」
「わ、私、記憶を失くすほど強く頭を打ったのですわよね?」
「そうだな」
「なら急いで治療した方が良いのではありませんの?」
「ああ、それなら問題ない。出血はないし、後で水を含んだ布で冷やしておけばよかろう」
「そう、なんですの?」
「まあ、脳の中で出血している可能性もあるが、その場合はなにをしてももう手遅れだろうから、いずれにせよ治療は不要だ」
「こっ、怖いですわぁ!」
ヒルディアは情けない表情を浮かべながらも、まったく無意識のうちに血振りをして納刀すると、歩きだしたスイガの後を追う。
とぼとぼとついてくる娘をちらと振り返り、スイガは小さく独り言つ。
「……記憶喪失……つまりさっきは前後不覚に陥っていたのか」
少し前の彼女の立ち回りを思い出し、その表情がわずかに強張る。
「どうりで、いつも以上に獣じみた動きだったわけだ」
目指す村は、山ひとつ越えたところに広がる、扇状地に築かれていた。
村人たちはふたりを待ちかねていたらしく、村の入り口の門を潜ると、ヒルディアらは数人の男たちに囲まれた。
その集団の中から進み出た老人が、ふたりを見て深々と頷く。
他の村人より少しだけ身形が良いことから、ヒルディアは村長らしいと見てとる。
「よくぞお帰りになられました」
「うむ」
村長はスイガに続いてヒルディアにも目を向ける。
「奥方様もご無事でなにより」
「奥方様!?」
驚くのと同時に、ヒルディアの心に安堵と歓喜が湧く。
つまり、約束は果たされていたのだ。
しかし、だとすれば先程までのスイガの言動はなんだったのか。
問い質そうとヒルディアがスイガに顔を向けると、彼は村長に向かって顔を顰めながら溜息を吐く。
「妻ではないと何度も言っているだろう。これは弟子だ」
「弟子!?」
ヒルディアは愕然となる。
いや、呼び方からなんとなく察してはいた。
しかし、結婚を申し込まれたはずが、弟子入りしているとはどういうことなのか。
あまりに意味不明だ。
いったい、記憶を失っている間に何があったというのか。
ひとり動揺するヒルディアをよそに、スイガと村長は会話を続ける。
「ふぉっふぉっ、これは失礼を」
「毎度毎度わざとだろう」
「まあまあ良いではありませんか。それはそうと、こうして戻られたということは……」
「ああ。熊なら仕留めた」
「おお! ありがとうございます! ありがとうございます!」
男たちの間から、歓声があがる。
そのままスイガが村長と話している間、ヒルディアは深呼吸して気を鎮める。
落ち着け。
記憶が戻らぬ以上、今自分で考えたところで、状況を把握することなどできまい。
事情は後で落ち着いたところでスイガに問い質せばわかるはずだ。
そう己に言い聞かせると、意外なほどあっさりと、動揺は治まった。
そんな己自身を、ヒルディアは不思議に思う。
王都にいた頃であれば、こんな意味不明な状況で、簡単に落ち着いたりなどできなかったはずだ。
きっと、パニックを起こしてヒステリックに喚き散らしていただろう。
つまり、心の在り様が、大きく変わっているのかもしれない。
だとしたら、もしかしたら己が思っている以上に、スイガと出会った日から、長い時間が経過している可能性が高い。
ふたたび不安が湧きそうになり、首を振って思考を打ち消す。
考えるな。
今、少しでも状況を理解したいのなら、思考を働かせるより、情報収集に努めるべきだ。
そう思い至り、視線を巡らせ村の様子を観察する。
家々は粗末で小さく、質素な暮らしぶりが窺える。
周りの男たちや、家の戸から顔を覗かせる女子どもは、皆ヒルディアに好奇の目を向けている。
おそらく、血塗れだからだ。
自分が彼らでも、同じように反応するだろうと彼女は思う。
「……水浴びがしたいですわ」
そう意識した途端、血生臭さとぬるぬるとした血の感触に不快感を催す。
一刻も早くこのどろどろの体を洗い流したい。
幸い、村の中心には小川が流れている。
そこで軽くでも行水できないものか。
そんなことを考えていると、村長との話が終ったようでスイガが振り向く。
早速、ヒルディアは今考えていたことを伝える。
「あ、あの師匠、私、川へ行きたいですわ」
「ん? そこまで記憶が戻ったのか?」
「え? なにがですの?」
「元々川には行く予定だったのだ。まだ歩けるな?」
「ええ、大丈夫ですわ……あら?」
そういえば、あれだけ険しい山道を越えたというのに、まったく疲労を感じていない。
しかも、スイガはかなり足早に進んだが、難なくついていくことができた。
本来なら、すぐに遅れたうえ、息が上がってへたり込んでいただろう。
心の在り様ばかりでなく、髪型以外の身体的な変化にも気付き、ヒルディアはあらためて戸惑う。
記憶を失くした期間に、いったい己になにがあったというのか。
「よし! 皆ついてきてくれ!」
村の男たちにそう声をかけたスイガに、ヒルディアは慌てて縋りつく。
「ちょっ! 困りますわ師匠! 他の殿方がいらっしゃっては水浴びなどできません! あ、いえ、せ、師匠なら肌を見られてもいいと言っているわけではなく――」
「なにを言ってる。男手がなければ熊を運べんだろう」
「へ?」
ヒルディアは首を傾げる。
「あの師匠……川にはなにをしに行きますの?」
「なにって――」
なぜそんな当たり前なことを訊くのかとでも言いたげな顔で、スイガは答えた。
「仕留めた熊の解体に決まっているだろう」




