第十九話 『戒めと免罪符』
村長からの言伝を伝えると、サムエルは一度小屋へ戻り、僅かな荷物だけ持って帰っていった。
その背を見送りながら、ヒルディアはつぶやく。
「……あんなに感謝されるとは思いませんでしたわ」
熊を討伐した直後、村に寄った際には、記憶を失っていたことで、村人の感情まで推し量るような余裕はなかった。
一方、村人からすれば、熊の返り血に塗れていた己は、近寄り難かったことだろう。
だから、熊を解体する際に指示を出したのを除けば、村長以外とはほとんど言葉を交わさなかった。
だが、もしかしたらあの時も、己に感謝を伝えたいと思っていた者は少なからずいたのかもしれない。
「師匠」
不意に呼ばれ、スイガは傍らのヒルディアに視線を向ける。
「私たち、善いことをしたんですわね」
弟子の言葉に、スイガは僅かな間を開け、つぶやく。
「……善いこと、か。村の連中からすれば、たしかに善い行いだったのだろう」
どこか含みのある言い方に、ヒルディアは首をひねって師を窺う。
「だが、あの熊にしてみれば我らは、なんのなんの関わりもなかったのに己を殺しに来た、悪鬼の如き存在だったはずだ」
「熊の立場?」
スイガの発言の意図がわからず、ヒルディアは困惑する。
「でもあの熊は、村の家畜や村人を襲って殺しましたわ。だから殺されたって自業自得ではありませんの?」
「たしかに、人の立場から見れば、あの熊は害獣以外の何者でもない。だが、熊自身はただ糧を得るため良い猟場を見つけて狩りをしていただけだ。己やおまえや村人が、鹿や兎を狩り魚を釣るのと、なんの違いがある?」
スイガの言い分は、理屈としては筋が通っているが、それは、なんというか、極論ではないかとヒルディアは思う。
そんな弟子の内心を見透かしたように、スイガは続ける。
「何者かに肩入れして剣を振るうということは、味方にとっての善き人となる一方で、敵対者にとっての悪になるということだ」
「えっと……誰かに肩入れしすぎてはいけない、ということですの?」
「そうではない。というか、剣を振るう道を選んだ時点で、確実に誰かに肩入れすることにはなる。誰の利にもならない場合でも、己自身に肩入れするはずだ。だから、誰かに肩入れするのを否定はしない。そこを否定するのなら、そもそも剣など教えない。ただし、剣を振るうことで誰かにとっての善き行いをしたところで、必ず別の誰かにとっての悪にもなるということは憶えておけ。斬った相手がどんな外道だろうと、そいつ自身とそいつの仲間や家族にとって、斬ったおまえは悪だ」
そこまで聞いても、ヒルディアには師の言うことがいまいち腑に落ちない。
敵対者にとっての悪になるからといって、なにが問題だというのか。
「要するに、今後おまえが剣で命を奪ったとして、自分が正義だなどとは考えるなという話だ。害獣だからと殺したあの熊には、腹を空かせて帰りを待つ子がいたかもしれない。キニスとニクスの親のようにな。もしそうだった場合、おまえは人食い熊だけでなく、間接的に何の罪もない命まで奪い、しかもそれを自覚さえしていないということになる」
その指摘に、ヒルディアは意表を突かれる。
狼たちの親を殺したことについては、後悔こそないものの、実は、後ろ暗い気持ちを抱いていた。
自分たちが親を殺さなければ、キニスたちは親や群れの仲間と幸せに暮らしていたかもしれないのだ。
だから、スイガの仮定を聞き、熊を斬ったことが、純粋に善い行いであったとは言えないのかもしれないと納得できた。
「己が正しい、正義だと思い込みながら剣を振るう者は、簡単に道を踏み外す。これは、剣に限った話ではない。かつておまえを追放した連中も、己の行いが正しいと思いながら、権力を行使しておまえを虐げたはずだ」
たしかに、熊にとっての己は、五年前の己にとっての刺客たちと、同じような存在だったのかもしれないとヒルディアは気付く。
そしてたしかに、そんな己に無自覚なまま、自分が善い行いをしたなどと考えるのは、あまりに浅はかだと思い至る。
「でも師匠、それなら私はこれから先どんな心構えで剣を振るえば良いのです?」
暴力装置である剣は、相手との関係性を己の望むものにするための最終手段となるケースがほとんどだ。
そんな状況でいちいち相手の事情など汲んではいられない。
「常に視野を広く持ち、そのうえで、選ぶことだ」
「選ぶ、ですか」
「そうだ。剣を振るうことで悪となり、知らぬところで誰かを不幸にするかもしれない。そう心に留め置いたうえで、なお剣を振るうべきであると選んだなら、たとえ剣士としての宿業に苛まれようと、修羅道には堕ちずにいられるだろう」
「なるほど、わかりましたわ!」
ヒルディアが元気よく応じたことで、スイガは上体を小さく仰け反らせる。
「そ、うか、わかってくれたか……いや、本当に理解したのか?」
「わかりましたわ!」
「う、うん、まあいいか」
返答に反して、実はあまりよくわかっていなさそうだとスイガは察する。
ただ、無理もないとも思う。
ヒルディアにはずっと、体を鍛え技を磨くよう指導してきたため、心構えについて説いたことはあまりなかった。
山奥で修行する分にはそれで問題はなかったし、たまに村から請われて剣を振るう時でも、幸か不幸かヒルディアはなにかを斬ることに対してほとんど躊躇いを見せることはなかった。
だからつい、精神面への指導を疎かにしてしまったのだ。
だが今回、人食い熊をひとりで斃した立ち回りを見て、彼女の剣士としての実力は極まったとスイガは感じた。
となれば、いずれ独り立ちする時のことを考え、心の在り様についても教えていくべきだろう。
他者の命を躊躇いなく奪い、それを善き行いなどと考えるようでは、いずれは大きく道を踏み外すことになりかねない。
そんな彼女の歯止めになればと考えて、スイガは先程の教えを説いたのだった。
長い旅を経て彼は、剣士としての悟りの境地に達しつつあった。
すなわち、剣の求道の果てに、剣は不要という気付きだ。
そしてその答えを弟子に継承することが、己の役目だと彼は考えていた。
とはいえ、言葉で説明しただけで伝えられるものでもない。
剣の極意を伝えるのは、あくまで修行を通してになるだろう。
「……時間ならある」
独り言ちて、スイガは身を翻し、小屋へと歩き出す。
今はわからずとも、時をかけて指導すれば、いずれヒルディアにも己の言葉が届くはずだ。
そう考え、明日からの弟子への指導について考えることにした。
「あ、師匠! 待ってくださいまし!」
ヒルディアは慌ててスイガの後に続き、狼たちもじゃれつくように追ってきた。
スイガの推察通り、ヒルディアに彼の教えは正しく届いていなかった。
それどころか、スイガの意図とは真逆の解釈を彼女はしていた。
つまり、視野を広く持って選びさえすれば、斬ることに躊躇は必要ないという理解だ。
歯止めどころか、スイガの言葉は彼女に、斬るという行為への免罪符を与えたようなものだった。
そして、いずれその果てに、彼女は師とはまったく異なる剣の悟りを得ることになる。
「……帰ってきましたのね」
ヒルディアは師と己の住まう小屋の前で立ち止まる。
数日留守にしただけなのに、記憶を失くして取り戻すという稀有な体験を経たためか、懐かしさのようなものを覚える。
その外観に視線を走らせると、はじめてやって来た時とは大きく変わっていると気付く。
朽ちかけていた板壁はほとんど張り替えられ、藁葺きだった屋根は瓦葺きに変わっている。
瓦は村の陶器職人に焼いてもらい、大工仕事の得意な者に手伝ってもらってリフォームした。
他にも度重なる増改築によって、住み心地はやって来た時より格段に向上している。
「どうした? 入らんのか?」
スイガが振り返って扉を開けると、狼たちが小屋の中へと駆けこんでいった。
師に続いて小屋へ入ったヒルディアは、一瞬、はじめて小屋へ入った時の、殺風景なあばら家の内装を見た気がした。
しかし二度瞬きすると、広くなった屋内には家具が不足なく配置され、拡張された炊事場や新たに設けられた風呂場の扉も確認できた。
その瞬間、熊との死闘によって損なわれた記憶が、完全に戻ったとヒルディアは自覚した。
「ぼんやりしているな。さすがに歩き通しで疲れたか?」
スイガに問われ、ヒルディアは小さく首を振る。
「いいえ。ようやく家に着いたと、感慨に浸っていましたの」
「ん、そうか」
そう長く家を空けたわけでもないが、今回はいろいろあった。
だからヒルディアが物思いにふけるのも、わからないではないとスイガは思う。
「じきに日が沈む。今日は早めに休み、明日からまた鍛錬だ」
「ええ、師匠、わかりましたわ」
夕餉を作るため炊事場へと向かうスイガの背を見つめ、完璧だ、とヒルディアは思う。
当初勘違いした婚姻関係でこそないが、今己は、己のことだけを見てくれる人と充実した日々を過ごしている。
この家だって、侯爵家の屋敷とは比べるべくもないが、ふたりで暮らす分には、何の不自由もない。
さらに、愛犬ならぬ愛狼を飼い、ご近所とも良好な関係を築けている。
まさしく、かつて己が理想として思い描いた、愛に満ちた暮らしそのものだ。
今回、記憶を失いかけたことは、そんな己の満たされた現況に気付く良いきっかけとなった。
そう考えれば、あの熊にも感謝したいとヒルディアは考える。
「……こんな日々が、ずっと続いていけばいいですわね」
しかし、そう願ったヒルディアの日常は、ふたりの帰宅からわずか三日後に途切れることとなる。
そして師弟は、デールラントという国を揺るがす動乱の渦へと巻き込まれていくのだった。
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