第十七話 『歓びへと至る』
ヒルディアは師の先を歩きながら、幼い頃のことを思い返していた。
まだ健在だった母から、就寝前に物語を語り聴かせてもらうのが、彼女はなにより好きだった。
母も誰かから聴いて話を仕入れていたのか、それとも自ら考えたのか、今となってはわからないが、新しい物語を聴かせてもらう時には、本当に心躍ったものだ。
とはいえ、物語のレパートリーには限りがあるので、新しい物語を母が聴かせてくれるまでの間は、既に聴いた話を、ふたたび聴きたいと何度もねだった。
そのたびに母はリクエストに応えてくれたのだが、あまりに何度も同じ話を聴いたため、そのうちお気に入りの物語は一字一句漏らさず憶えてしまったほどだ。
母の語り口が巧妙だったがゆえか、同じ物語だろうと幾度聴いても楽しめた。
それでも、最初に聴いた時ほど鮮烈な感動は、二度目以降は味わえなくなる。
だから、同じ感動を味わうために、記憶を消去してまた聴きたい、などと考えたものだった。
そして今の状態は、そんなあの頃の願いが叶ったようなものだとヒルディアは思う。
この五年間、ヒルディアは、まるで楽園にでもいるようだと感じていた。
どれだけスイガに厳しい修練を課されても、それは、すべて己を想ってのことだと彼女は理解していた。
王都に居た頃も、ヒルディアに尽くす使用人や貴族家の子弟たちは数え切れぬほどいた。
だが彼らは皆、侯爵令嬢という肩書だけを見て、義務や打算から奉仕していたのであり、己個人のことなど誰一人気にかけていなかったと彼女は知っていた。
対してスイガは、いつだってヒルディア自身を気にかけ、なんの見返りもないのに彼のすべての時間を己の成長のために費やしてくれたのだと、ヒルディアは常に感じ取っていた。
だから、文字通り死にかけるほど過酷な修行さえも苦にもならぬほどの歓びを感じてきた。
それに、修行以外の生活においても、スイガはヒルディアが快適に過ごせるよう気を配ってくれた。
あばら家は彼自ら補強や増改築を加え、最初にやって来た時に比べて格段に過ごしやすくなった。
また、栄養価が高くて美味い食事を安定して供給するため、家畜を飼育することで卵や乳や肉を得て、畑で野菜を収穫するようにもなった。
そうして提供される料理も、ヒルディアの好みに合わせて作られ、レシピも増えていった。
そんな満たされた生活が、師に対する依存心をさらに強めた。
幸福な結婚というかつて望んだ未来とはまるで違ってしまったが、今の生活は、想像をはるかに超えて、ただ愛されたかったヒルディアの理想を叶えるものであった。
そんなスイガの期待に応えるため、ヒルディアは死に物狂いで己を鍛えた。
当初は、限界が見えたところで師弟関係を解消するという約束で弟子入りを認めてもらったため、絶対に強さの探求を止めるわけにはいかなかった。
それが今では、修行で強くなることが、スイガとの絆の証明になると思うようになっていた。
ゆえに今回、師を強引に説き伏せてまで、単独での熊退治を志願したのだ。
その結果、熊の攻撃を躱しそこね、頭を打ち記憶を失った。
熊と戦った時のことはほとんど思い出せないが、かなり危うい目に遭ったのは間違いあるまい。
だがそのおかげで、もう一度スイガとの出会いから今に至るまでの日々を、はじめて経験したような新鮮な気持ちで思い出すことができた。
記憶が戻り続けている今も、歓びの笑みを抑えることができない。
そんなニヤケ面を見られたくなくて、ヒルディアはずっとスイガの先を歩いているのだった。
日の出直後の出発から、修行もかねて道なき道を進路に選んだことで、ふたりは大人の男が二日半かけて進む距離をほぼ一日で踏破した。
周囲の景色が見慣れたものとなり、ヒルディアは自分たちの小屋に近付いているのを実感する。
久しぶりに、師匠と出会って間もない頃の心細さを味わったことで、今の日常がより貴重で尊ぶべきものだと再確認できた。
だから、そんな日常の象徴であるふたりの家に早く戻りたいと思っていたところ、前方から自分たち目掛けものすごい速さで近付いて来る気配を察知し、ヒルディアは足を止めた。
「どうした?」
後ろを歩いている分、気付くのが遅れたらしいスイガに尋ねられ、ヒルディアは短く応じる。
「なにか来ますわ」
その直後、獣の吠え声がヒルディアの耳に届いた。
狼の鳴き声だ。
今回討伐した人食い熊は別格だったとして、これまでヒルディアが相手にしてきた害獣の中で、もっとも手強かったのが狼だ。
狒々や猪より攻撃の殺傷力が高く、豹とは違い群れで連携をとりながら襲ってくる。
群れの規模によっては、スイガとふたりでも手こずるかもしれない。
そう意識するまでもなく、ヒルディアは抜刀するべく柄に手をかけ腰を落として構えた。
ひと呼吸する間にも、茂みの向こうから獣の影がふたつ飛び出してくる。
大きい。
同時に攻め掛かられれば為す術もなく急所を食いちぎられかねない。
抜き打ちで一頭の首を刎ね、返す刀でもう一頭を斬り伏せる。
刀の鯉口を切った瞬間、背後のスイガが慌てたように声を発した。
「よせヒルダ!」
制止され、抜刀しかけた姿勢でヒルディアの動きが止まる。
そこへ、白と灰色の獣に飛びかかられ、後ろへひっくり返った。
自分の背丈ほどもある獣に圧し掛かられ、ヒルディアは抜け出そうと藻掻く。
すると、二頭の獣の顔が左右から迫り、開いた口に並んだ牙の大きさにたじろぐ。
「くっ! ヴっ!? な!?」
不意に、両の頬を舐め上げられ、ヒルディアは戸惑う。
「はっ!? ちょっ! 待っ――」
二枚の舌で続けて何度も舐められ、左右に顔を振って避けようとするも、押さえ込まれているためなすがままとなる。
「あっ! や、止め! んん、むぅぁああああ!」
顔面を唾液でべちょべちょにされ、たまらず悲鳴をあげた。
「こらっ! 離れないか!」
見かねたスイガが一喝すると、二頭の狼は、きゅーん、と情けない声を漏らしながらヒルディアの上から退いた。
「うぅ、ひどい目に遭いましたわ」
そう言いつつ身を起こしたヒルディアに、スイガが手拭いを渡す。
「ありがとうございます、師匠」
「ヒルダ、この二頭は――」
「わかっています。顔を舐められている間に思い出しましたわ」
よだれまみれの顔を拭い終え、正面を向いたヒルディアの目に、己の様子を窺いながら行儀よく座っている二頭の姿が映る。
それぞれ灰と白の毛色の狼たちに視線を送りながらその名を呼ぶ。
「キニス、ニクス」
途端、二頭は大きく吠えてから、弾かれたようにヒルディアに飛びかかり、ふたたび顔を舐めまわす。
「あっ! ちがっ! 来いって、意味じゃ! あ、むあぁああ!」
激しい抱擁とベロキスを、辛うじて倒れずに受けながら、ヒルディアは二頭との出会いを思い返す。
ヒルディアが修行を始めてから三年半程が経った頃、遠方の村から頼まれ、たびたび家畜を襲いに来るという狼の群れの駆除に、師弟は出向いた。
既にヒルディアは害獣駆除を幾度も経験していたが、その日はそれまでとは勝手が違った。
その八頭の群れは、縄張りに踏み入ったふたりを囲い、激しい波状攻撃を仕掛けてきた。
人を大きく超えた運動性能と緻密な連携に対し、背中合わせに両手の二刀を振るうスイガがすべて斬り伏せるまで、ヒルディアはほぼ防戦一方で動けなかった。
もしひとりであったなら、為すすべもなく狩り殺されていたはずだ。
「……妙だな」
致命傷を受けながらも向かってきた最後の一頭を仕留めたスイガは、屍となった狼を見下ろしながら疑念を口にした。
「勝ち目がないのは途中でわかったはずだ。普通はそこで諦め逃げるものだが、こいつらは死ぬまで向かってきた。野生の獣にはあるまじき行動だ」
そう言って首を傾げた。
一方、息ひとつ乱していないスイガに対してヒルディアは、片膝を着いた姿勢のまま動けずにいた。
疲労もあったが、それ以上に、かつてないほどに追い詰められ、身が竦んでいた。
己の乱れた呼吸の合間に、弱々しい声を聞いた気がして、刀の鞘を杖代わりに身を支え、どうにか立ち上がった。
呼吸を整えながら声の方へと歩き、茂みをかき分けた彼女は、地面に目を向け思わず声を漏らした。




