第十五話 『不眠』
「ヒルダ」
「はぁっ!?」
居眠りしていたヒルディアは、肩を揺すられ顔を上げた。
「え、あ、せ、師匠!?」
「そこで寝るな」
晩飯の後、話していたはずが、いつの間にかうとうとしていたようだとヒルディアは思い至る。
「も、申し訳ありません、お話の途中で!」
「気にするな。。それより、寝具を敷いたので横になって体を休めろ」
「ご面倒をおかけいたしま、す……わ」
スイガが用意したという寝具の方へ視線を向けたヒルディアは、身を固くする。
「……こ、れは」
「すまんがベッドはない。これで我慢してくれ」
スイガが用意したのは、野宿の際にも利用してきたマットレスと毛布だ。
それはいい。
粗末な寝床だが、ヒルディアも連日の野宿で既に慣れている。
問題はその配置だった。
「ね、ね、寝床が、隣合わせですけど」
「ああ、なにぶん手狭ゆえ、こうしないと敷けんのだ。囲炉裏がなければもう少し離せたのだがな」
密着している寝床を見つめ、ヒルディアは無意識に唾液を飲み下す。
これではほとんど同衾と変わらないではないか。
「明日は日の出とともに起床する。修行を始める前に、近くに泉があるので案内しよう。今後はそこで身を清めるといい」
スイガは囲炉裏で燃えている薪に灰をかぶせて火を消す。
部屋の明かりが消えたことで、簡素な格子で仕切っただけの窓から差し込む星の光が、部屋の中を淡く照らす。
「疲れをとるためにまとまった睡眠は必要不可欠だ。其処許も早々に床に就くように。ではおやすみ」
そう言うとスイガはさっさと寝床へもぐりこむ。
「あ、あの、師匠」
「スヤァ」
「…………寝てる」
スイガの寝つきの良さにヒルディアは驚く。
これまで、彼がまともに睡眠をとっているところを一度も見たことがなかったからだ。
野宿の際でも、獣やならず者の襲撃に備え、少なくともヒルディアが眠った時点では必ず起きていた。
本人によると、夜通し警戒を続けていたとのこと。
寝不足にならないのかと問うと、常に座るか立ったまま半覚醒状態で睡眠をとり、気配がすれば即座に起きて対応できるのだという。
たまに宿に泊まる際には、ヒルディアに気を使ってか、必ず個別に部屋をとってくれた。
ヒルディア自身は知らないことだが、その際にもスイガは、ヒルディアの安全のため彼女の部屋の前に立って夜明けまで見張りをしていた。
つまり、ヒルディアはこれまで、スイガとともに眠ったことがなかった。
そして彼女の価値観では、男女が同室で寝るというのは、そういうことに他ならない。
「うぅ」
落ち着け、とヒルディアは己に言い聞かせる。
師匠に他意はない。
気にせず寝ればいいだけだ。
「……そ、それじゃあ、私もね、寝ましょうかしらぁ」
誰に伝えるでもなくそうつぶやくと、ヒルディアはスイガの方を窺いつつ床に入る。
旅の疲れに加え、倒れるまで走って吐いて素振りしたのだ。
横になった瞬間、気絶するように眠ってもおかしくないはずだ。
それなのに、意識はギンギンに冴えている。
「…………眠れない」
しっかり眠って疲れをとるようスイガから言いつけられたことを、ヒルディアは思い出す。
寝たいのに眠れなかったらどうすればよいのか。
もし起きていたら教えてほしいと思い、横を向く。
しかし、やはりスイガは規則的な寝息を立てている。
その顔をまじまじと見つめる。
よく見ると、かなりまつ毛が長い。
ずっと旅を続けてきたためか肌は日焼けしているものの、その表面はなめらかで毛穴などは目につかない。
長い髪も艶やかで、手入れなどしていないのに、傷んではいないように見える。
もとより、顔の造形が良いのはわかっていたが、見れば見るほど非の打ちどころのない容姿と感じる。
スイガの寝息以外には、時折吹く風に小屋がきしむ以外には物音ひとつしないが、ヒルディアの耳には自分の心臓の鼓動がうるさいほどに聞こえている。
これではますます眠れない。
そう考え、横に向けていた顔を上向きに戻し、目を閉じる。
しかし、視界が閉ざされると、今度は余計な考えが心に浮かぶ。
少し手を伸ばすだけで、彼の体に触れることができる。
そして己は、当初はこの人と結婚するつもりだったのだ。
今、その気になれば、既成事実を作り、元々の望みを果たすこともできるのではないか。
「くぅぅ、なんて不埒なことを考えていますの!」
それは、己の願いを聞いて弟子入りを認めてくれたスイガの気持ちを裏切る行為だ。
あまりのあさましさに、ヒルディアは強い羞恥と自己嫌悪を覚える。
というかそもそも、己の腕力では、スイガにその気がなければ一瞬ではね退けられるだろう。
そしてその瞬間、弟子入りという苦肉の策でどうにか繋いだ絆は、完全に絶たれることとなるのだ。
つまり、今の己には眠る以外の選択肢などない。
だというのに、いつまで経っても悶々として寝付けない。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
ヒルディアは身を起こすと、たまらず独り言ちた。
「……ムラムラしますわ」
寝床を抜け出し、土間に降りると瓶に溜まった水を柄杓ですくって飲む。
少し落ち着くも、体の芯の火照りは収まらない。
このままでは、眠れぬまま朝を迎えることになる。
翌日のことを考慮すると、それだけは避けたかった。
「どうすればいいのかしら……あら?」
ふと、入口の脇に立てかけてあるものが目に留まり、ヒルディアの頭にある考えが浮かぶ。
それは、どう考えても良い案とは思えなかったが、他に良いアイディアは浮かばない。
「……仕方ありませんわね」
ヒルディアは小さくため息を吐くと、それに手を伸ばした。
小屋の扉が閉まる小さな音が響いた直後、スイガは目を開いた。
僅かに頭を傾け隣の寝床を窺うと、ヒルディアの姿がない。
「…………こうなったか」
そうつぶやき、失望のため短く嘆息した。
初日の修行はどうにかやり遂げたものの、床について考えを巡らせるとこれから先の日々が耐えがたいものになると思い至り、己が眠っている隙に逃げたのだろう。
予想していないわけではなかった。
彼自身、なんなら諦めさせるつもりで初日の課題を与えたのだ。
しかし、それをやり遂げた際のヒルディアの集中には目を見張るものがあった。
それに、一時の気の迷いなどではなく本気で強くなりたいのだと感じられただけに、こんな結果となったことが、自分でも意外なほど残念だと感じていた。
「……まあ、仕方あるまい」
身を起こすと、刀を身に着け扉へ向かう。
ここは人里離れた山の中だ。
逃げ出したところで、彼女が頼れるような場所などない。
しかも、先ほども伝えたように、この辺りには盗賊や危険な獣も現れる。
すぐにでも迎えに行った方が良いだろう。
連れ戻してから、今後の彼女の身の振り方についてあらためて話し合おう。
そう考えつつ小屋の扉に手をかけたスイガは、外の気配と物音に気付いて動きを止める。
「……なんだ?」
横開きの扉を小さく開け、隙間から外を窺い、スイガは息を呑んだ。
小屋の前で、ヒルディアが素振りをしていたからだ。
「バカな」
先程、途中気絶までして千回の素振りを終え、体力的には限界を超えていたはずだ。
それが、己に隠れてまで自主的に追加で木刀を振っている。
何故だ、と考え、理由などひとつしかないと思い至る。
「……それほどまでに強くなりたいか」
スイガの背に、ゾクリとした感覚が走り、肌が泡立つ。
この娘の力に対する渇望は、己の想像を超えている。
そして、ひょっとすると、と思う。
彼女は己が考えるよりもずっと、武の高みに至れるのではないか。
「明日からの修練、鍛え方を考えなおさねばなるまい」
そう静かにつぶやくと、スイガは扉を閉め寝床へと戻った。
一方、見られていたとは思いもよらないヒルディアは、素振りをしながらぶつぶつと唱え続けていた。
「……煩悩退散、煩悩退散」
ムラつきの収まらない彼女は、木刀を見て、無心になれるというスイガの教えを思い出したのだ。
その行動が、師の己に対する評価を大きく変えることになったなどとは気付きもしないまま、彼女は本当になにも考えられなくなるまで素振りを続け、夜明け前には寝床へ戻り、半ば気絶するように眠った。




