第十三話 『素振り』
こともなげに言われ、もしかしたら己が想像するよりも、千回の素振りというのは大変でもないのかもしれないとヒルディアは思う。
「どうした? 早くしないと日が暮れるぞ? まあ夜になろうと数をこなすまでは続けてもらうが」
急かされ、とりあえず見よう見真似で振ってみる。
頭上に振り上げて前方に振り下ろすと、木刀の重さに振り回されて腕が止まらず、体がよろめき、切っ先が地面を叩く。
「背筋を伸ばせ。それと木刀は、肘は伸ばして手で柄を絞るような感覚で止めてみろ」
助言通りにしてみると、一度目のように体勢を崩さすに済んだ。
「足と腕の動きがばらばらだ。同時に動かすよう意識しろ。それと、振った回数は声に出して数えること」
「さ、ん」
「聞こえん。声が小さい」
「よ、四!」
繰り返される指摘によって少しずつ動きが矯正されていくが、十回も振ったところで腕が重くなってくる。
数を重ねるほど、想像よりもキツい運動だと実感する。
辛いのは腕ばかりではない。
息が乱れ、呼吸が追いつかない。
気が遠くなりそうだ。
百回ならともかく、これを千回というのは不可能ではないか。
「苦しそうだな。だがそう感じているうちは、まだ限界ではない」
スイガの言葉の意味が、ヒルディアには理解できない。
「限界を超えると、雑念は消える。苦しみはもちろん、余計な思考もなくなり、ただ刀を振るだけの存在となる。まずはそこを目指すことだ」
そう言うと、スイガはヒルディアに背を向ける。
「食料を調達してくる。その間も続けよ」
スイガが立ち去り気配が消えると、休みたいという考えがヒルディアの頭に浮かぶ。
どうにか百回を超えたが、このまま続ければ腕が外れてしまいそうだ。
今なら、多少怠けてもバレないだろう。
そう思いつつ、素振りのペースは落ちもしない。
こんな初日から怠けたりするようでは先が見えている。
そしてスイガは、己の限界が見えたところで師弟関係を解消すると言った。
それだけは、絶対に御免だ。
もう二度と、信頼していた人に見限られたくない。
しかも、スイガとの師弟関係は、王都での破滅とは異なり、己が頑張りさえすれば破綻を免れるのだ。
「……二百、十六……二百、十、七……」
それでも、慣れない運動に体は悲鳴を上げる。
三百を超えたあたりから全身に悪寒を覚えはじめ、肺が耐えがたいほどに傷みだす。
気持ちが悪い。
倒れてしまいたい。
「……さんびゃく、にじゅう……さんびゃく、にじゅういぶっ!」
喉奥からせりあがるものがあり、一瞬動きが止まる。
「げぇ!」
胃の中のものを、地面にぶちまける。
運動のし過ぎで嘔吐した経験などないヒルディアはひどく動揺する。
が、素振りは止めない。
どこかでスイガが見ているかもしれない。
止まればすべて失う。
そんな強迫観念が、ヒルディアの体を限界を超えて動かした。
しばらくして、スイガが戻ってくる。
右手には二羽の山鳥を足をつかんで持ち、左手の籠の中には山菜が詰め込まれている。
「……ろっ、ぴゃく、なな、じゅ……ろっ、ぴゃく、なな、じゅ、いち……」
素振りを続けているヒルディアに気付いて、スイガは軽く驚く。
顔色を見て、いつ倒れてもおかしくないとわかったが、それでも愚直に続けている。
どうやら覚悟は本物だったようだと、認めないわけにはいかない。
しかし、それでも彼女の体はとうに限界を超えている。
「……ろっ、ぴゃく、なな、じゅ、に……ろっ、ぴゃく、なな、じゅ、さ……?」
正面を見つめるヒルディアの視界にスイガの姿が入った瞬間、張りつめていた気持ちがわずかに緩む。
途端、目の前がみる間に白く霞み、意識が急速に遠退く。
己が立っているのかさえわからなくなったところで、ヒルディアの手から木刀が滑り落ち、体が傾いた。
しかし、地面に倒れる前に、スイガが受け止める。
「……さすがにこの高地で初日から素振り千は厳しかったか」
と言いつつ、それでも手心を加えようとは思わない。
彼自身、少年時代には命懸けの修行を経験していた。
だから、ただの素振りで力尽きるようでは、話にならないと考えている。
ヒルディアの体を地面に横たえ、一度小屋へ戻る。
板の間に食材を置くと、水場に置いてある瓶に歩み寄り、桶に水を汲む。
以前小屋に住んでいた時に、雨水が雨樋を伝って瓶に溜まる仕掛けを作っておいたのだ。
ふたたび外へ出ると、気絶しているヒルディアの顔に桶の水をぶちまけた。
「うっ! わっ! えっ!? どっ、な、なん、ですの!?」
覚醒したヒルディアは、状況がわからず混乱し視線をさ迷わせるが、己を見下ろすスイガに気付くと、状況を察して青褪める。
やり遂げると決めたのに、途中で気を失ったようだ。
それはつまり失敗したということで、そんな己は、彼に見限られる。
「あ……わ、たくし……」
「六百七十三だ」
「……え?」
「まだ途中だ。それとも諦めるか?」
「い、いえ! いいえ続けますわ!」
慌てて立ち上がろうとしたヒルディアは足をもつれさせかけるも、スイガに腕をとられて支えられる。
「あ、ありがとう、ございます」
「ああ。それと、再開する前に水を飲んでおけ」
そう言ってスイガは竹製の水筒を手渡す。
水を一気に煽り、ヒルディアはむせ返るが、おかげで少し気持ちが落ち着いた。
スイガに水筒を返すと、素振りを再開する。
「六百、七十四……六百、七十五!」
僅かな間とはいえ体を休められたからか、それとも水分補給したためか、土気色だった彼女の顔色には微かに血の気が戻っている。
あと三百回強ならやり遂げるかもしれない。
そう判断したスイガは、おもむろに刀を抜くと、ヒルディアに並んで素振りを始める。
己の素振りとはまるで違う、空気を切り裂く鋭い音を耳にしてヒルディアの背筋が伸びる。
振られる刀を横目で窺えば、視認できないほどに素早く、まるで見えない物体に当てているかのようにピタリと止まる。
スイガの振る剣を見るのは、森での一件以来だ。
ああ、これだ、とヒルディアは思う。
刺客に嬲られ無惨な最期を迎えると確信し、無自覚に助けを求めた己を救ってくれた、あの時の剣だ。
そう意識した途端、疲労による辛さも、肺の痛みも、嘘のように引いていった。
そして、胸の中になにか熱いものがこみ上げ、酷使されて悲鳴を上げていた筋肉に力が漲る。
「七百二十二! 七百二十三!」
やがて雑念が消え、どうすればこの人のように剣を振れるのかという意識だけが残った。
ただ刀を振るだけの存在になるというスイガの言葉の意味が、少しはわかったような気がすると、ヒルディアは心の片隅で思った。
「九百九十八! 九百九十九! 千! 千い――」
そのまま素振りを続けようとするヒルディアの木刀を、スイガの手がつかんで止めた。
「ち! あれ!?」
「終わりだ、ヒルダ。今ので千回越えだ」
「……あ……終わり、ですの?」
刀を振ることに夢中で、回数をまったく意識していなかった。
あれだけ辛かったのが嘘のように、心は高揚している。
その理由が、疲労の限界を超えたことで、脳内麻薬が分泌されているからだとは、ヒルディアには知る由もない。
「よく頑張った」
褒められた途端、膝から力が抜け、その場に頽れそうになる。
咄嗟にスイガが受け止めると、ヒルディアは腕の中で弱々しく笑う
「……へ、へへ……えへへ……や、やり遂げましたわ」
「そうだな」
スイガにしてみれば、この程度の素振りなど息ひとつ乱さず終えられる。
それでも、匙より重いものを持ったこともなさそうなこの娘にとっては、最初の大きな壁を超えたことになるのだろうと思うのだった。




