第十一話 『五年前』
ここで物語はふたたび五年前へと遡る。
傷の手当てを終えたヒルディアとスイガは、最寄りの宿場町に着くと宿をとった。
馬を厩舎に預け、一階の酒場で食事をとる。
到着した時には日が沈みかけていたこともあって、店内は薄暗く他に客の姿はない。
店主も、ふたりに食事を提供すると厨房へ引っ込んだ。
テーブルに置かれた豆のスープを前に、ヒルディアは顔を顰め、匙の動きを止めていた。
少しだけ口に運んでみたが、今まで食べたどんな料理よりまずかった。
浮かんだ豆に味はなく、噛むと崩れて粉のようになって口内にまとわりつき、不快な食感がいつまでも残る。
汁もわずかな塩気があるばかりで味けなく、完全な液状の中に粘液質のダマが混ざり、どろどろのそれが舌に触れると、気色の悪さに鳥肌が立った。
これが庶民の一般的な食事なのであれば、己は自分で思っていた以上に恵まれた環境にいたのだとヒルディアは痛感した。
貴族にとって食事は娯楽でもあったが、庶民には単に生きるための手段でしかないのかもしれない。
「食欲が湧かないか」
「え?」
テーブルを挟んで座るスイガのつぶやきに、ヒルディアはスープに落とした視線を上げる。
「あのような目に遭ったのだ。無理もないな」
「あー、えっと……」
どうやら殺されかけたショックで食欲を失っていると勘違いされているようだとヒルディアは察する。
単にまずいからだと伝えようとするも、思いとどまる。
この人とともに生きていくと決めた以上、庶民の食事にも慣れなければならない。
ヒルディアは器を持ち上げると、匙を使ってスープを口の中へ一気に掻き込んだ。
「んぐ!」
おもわず吐き出しそうになるのを、咄嗟に口を閉じて耐える。
頬を膨らませてすべて口内に収めたスープの豆を涙目になりながら嚙み砕くと、数回に分けて飲み下した。
その様子を呆気にとられた顔で見つめるスイガに、ヒルディアは口の端から汁を零しながらも、青褪めた顔に無理やり笑みを浮かべてみせる。
「た……うっぷ……たいへん、美味しゅうございました」
「そ、そうか」
明らかに無理をしている様子のヒルディアに、スイガは感心する。
気丈な娘だ。
己に心配をかけまいとしているのか。
なればこそ、少しでも早く安心して暮らせるようにしてやりたいと彼は思う。
「其処許、ヒルディアといったな」
「ヒルダとお呼びくださいまし」
「む?」
早く親密になるためにも、愛称で呼んでほしいと考え、ヒルディアは提案する。
「わかった。ではヒルダ、先のことについて話しておこうと思う」
「はい」
ヒルディアは居ずまいを正す。
これからふたりでどのように生きていくのか、展望を語るというのなら、聞き逃すわけにはいかない。
「宿の主人によると、都合の良いことに、明日はこの宿場に市が立つそうだ。そこで保存食などの物資を仕入れ、すぐに街を発って東へ向かう。其処許の生存が王子とやらに露見すれば、ふたたび刺客を差し向けられる可能性が高いからな」
「そう、ですわね」
「服も変えよう。そのドレスは目立ちすぎる」
今、ヒルディアはスイガのマントを羽織っている。
彼女の纏うドレスは、高級品すぎて人目を引くため、追っ手に手掛かりを残すと危惧された。
「市で庶民向けの服を買う。髪も短くした方が良いな。その長い赤毛は人目を引く」
「承知いたしました」
以前の己であれば、自慢の髪を切るのには抵抗を覚えただろうとヒルディアは思う。
しかし、どこまでも見た目に気を使わなければならない社交界とは違い、これからはむしろ目立たず生きていかねばならないのだから、短くした方が良いというのは当然だと納得できた。
それに、スイガが己の安全を考えて提案してくれたのが嬉しかった。
「そうして王都からできるだけ離れる。追っ手が放たれたとして、距離をとるほど見つけ難くなるはずだ。馬での長旅は、慣れぬ身には過酷かもしれん」
「大丈夫、頑張りますわ!」
「十分に移動したら、ほとぼりが冷めるまで、人里から離れた場所に潜伏する。その間、生活は質素で不自由なものとなるだろう。貴族の娘には辛いだろうが」
「耐えてみせますわ!」
むしろ、ともに苦境を乗り越えていくことで、ふたりの絆は強くなっていくのではないか。
そう考えれば、望むところだとヒルディアは思う。
「安全になったと確信できたら、其処許が身を寄せる先を探そう」
「わかりまし――ん?」
同意しかけるも、何の話かとヒルディアは首を傾げる。
「どこかの家の養女となるか、嫁ぎ先を見つけるか……持参金とやらが要るのであれば、前者が妥当か。其処許は見栄えが良く貴族としてのマナーや品格も身に着けている。地方の貴族家か資産家の商人あたりなら、家に迎えてもよいという者は――」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいまし!!」
ヒルディアに言葉を遮られ、今度はスイガが首をひねる。
「……どうした?」
「ど、どうしたって……え? あれ?」
ヒルディアはしばし言葉に迷ってから、問う。
「私、どこかの家に引き取られますの?」
「うむ。其処許にひとりで生きる術がない以上、それがもっとも妥当な選択だろう」
「その後、スイガ様はどうされますの?」
「己か? そうだな……また放浪の旅に戻るか」
「へぇぇ? な、なんでぇ?」
結婚するのではなかったのか。
いや、まさか、私はなにか勘違いをしていたのか、とヒルディアは思い至る。
「あの……責任を持ってくださるんですわよね? 私の人生に」
「ああ、だから、其処許が安心して暮らせる環境を用意する」
「それが、どこかの信頼できる人間に預けるってこと、ですの?」
「そうだ」
やはり、己は思い違いをしていた。
たしかにスイガは、自分を嫁にするなどとは一言も口にしてはいない。
とんでもない思い込みに気付いて顔から火が出そうだが、今は恥ずかしがっている場合ではない。
己は家族にも友人にも婚約者にも裏切られたのだ。
赤の他人など信用できるはずもない。
唯一信じられるのは、命の恩人で、今も、何の得もないのに己の未来について考えてくれているスイガだけだ。
「あ、あの私、どこかの家に迎えられるよりも、スイガ様と一緒にいたいですわ。放浪するというのなら、連れて行っていただけません?」
「それは無理だ」
即答されるが、なおも食い下がる。
「どうして、なんで無理なんですの?」
「己には、戦うことしか取り柄がない。旅のさ中に糧を得るためには、傭兵や護衛など荒事で扶持を得るしかないだろう。其処許が同行すれば、必ず危険な目に遭わせるはずだ」
やはりスイガは己の身を案じてくれている。
それを嬉しいと思いながらも、このままでは遠からず彼と離れることとなると知って、ひどく狼狽する。
ようやく自分を愛してくれそうな人と出会えたのに、また捨てられるなんて、今度こそ耐えられない。
だからヒルディアは必死に思考を巡らせる。
幸い、スイガはあくまで己のためを思って提案してくれている。
ならば、己の未来のため、彼が納得する方法で一緒にいられるような提案ができれば、受け入れられるはずだ。
「……スイガ様」
「なんだ?」
「わ、私…………つ、つっ、強く、なりたいんですの」
「強く?」
「はい。もう誰にも虐げられないよう、どんな理不尽や暴力にも負けない強さがほしいのです!」
ヒルディアはテーブルを挟んでスイガの方へ身を乗り出し、胸に手を当て懸命に訴える。
「あなた様は王家直属の騎士団員四人を、装備の差もものともせず圧倒するほどの剣士! そ、そんなあなた様に鍛えていただけば、私でも強くなれるのではありませんか!?」
「……つまり、己に弟子入りしたいと?」
「あ、はい!」
「……なるほど」
それなら、己と一緒にいたいというのも理解できると、スイガは納得する。
「たしかに、己であれば其処許の望みを叶えることもできるだろう。というより、己以外にその願いを叶えられる者などいまい」
と言いつつ、スイガはヒルディアに鋭い視線を向ける。
「だが、強くなってどうする? 傭兵にでもなるつもりか? まさかな」
「先のことなどわかりませんわ。私はただ、納得したいだけなののです」
「納得?」
「いざ何かあたっとき、無力なままで何もできずに終わるのだけは嫌なのです。自分が強ければ、たとえ非業の最期を遂げようと、人事は尽くしたと、納得できるでしょう?」
王都で味わった理不尽や、森で振るわれた暴力を経て、そんな考えに至ったという彼女の主張は、スイガの腑に落ちた。
彼自身、かつて捨てた故郷で過ごした日々や、長い放浪の旅を通して、力無きなまま権力や暴力に人生や命を奪われた人々の無念に幾度も触れてきた。
運よく生き延びたヒルディアは、その経験から自分なりの学びを得たのだろうと彼は察した。
彼女が口から出まかせを言っているなどとは、思いもよらない。
「……よかろう」
「え?」
「弟子入りを許可する。一旦、其処許の身の振り方については、保留としよう」
「ありがとうございます!」
ヒルディアは満面の笑みを浮かべ、内心で胸を撫で下ろす。
これでしばらくの間、スイガと離れずに済む。
そして、師と弟子といっても男と女だ。
ふたりでともに修練に励む中で、情も育まれるはずだ。
そうしていずれは、己の勘違いを現実のものにしてみせると彼女は心に決める。
希望の未来を思い描き表情を緩ませるヒルディアだったが、スイガによって課される修練が想像を絶するほど過酷なものになるとは、この時はまだ考えもしていなかった。




