01 夢か現か
(あの子は皓月の言う通り、本物の鬼だったのかもしれない。化け物を斬ったはずなのに手ごたえがなかった。あの娘が鏡を向けてから化け物は喋れるようになっていたし……)
璙雲は腕を組み、回廊を突き進む。官吏が慌てて頭を下げるのも気付かず、思い返すのは一昨日と昨日の出来事だ。仕事の合間や就寝前にじっくり考えてみても、幽寂宮で起こった出来事はどうにも夢とは思えない。
——あなたが幽寂宮にきたのは救われたいと思ったから。愛しい男と添い遂げたいと願ったから。私はその願いを叶えるためにここにいるの。
——ここはあの世とこの世の狭間、生者が訪れていい場所ではないわ。
少女は確かに人ならざるモノにそう言った。彼女の言葉が本当ならば、あの少女は生者ではなく、死者であり、同じ死者たちの願いを叶えるために幽寂宮に存在しているということになる。
それを考えるたび、未知への恐怖からか背筋が冷たくなるような感覚を覚えた。
(もし仮に。仮にだ。本当に幽鬼の類がいるのなら、なぜ誰も幽寂宮のことを話題にしない。〝後宮の鬼〟というおぼろげな噂でしか聞いたことがないぞ)
無意識に眉間に皺を作りながら当てもなく庭園を歩き回っていると、「きゃっ!」という小さな悲鳴が耳に届いた。璙雲は足を止め、反射的に声の方向を探る。自分のすぐ足元の、生垣の陰で重なり合う二つの影を見つけて、盛大に顔を歪ませた。
「なあ、皓月よ。お前は野良犬か? 野良猫か?」
生垣の陰で女に覆い被さる悪友の姿に悪態をつく。女官の衣裳が乱れていないことに内心ほっとしながら、璙雲は皓月の隣にしゃがみ込み、目線を合わせた。
「人間さ。私の身体を隅々《すみずみ》まで知っているくせに獣と間違うだなんてひどいな」
そう言いつつも、皓月は女の裙から覗くふくらはぎを撫でるのをやめようとしない。その手は徐々に膝から太ももへと上っていく。
「その言い方はやめろ。お前と違って俺に男色の趣味はない」
「君こそやめてくれ。私は美しい花だけを愛しているのだから、そういう噂をたてられると面倒なことになるんだよ。つい先日も名も知らぬ武官から手紙を渡されたばかりだというのに、また勘違いした者が押しかけてくるじゃないか」
皓月の手が女の帯に添えられるのを見て、璙雲の視線が鋭くなる。これ以上はさすがに黙って見守ることもできず、睨みつけると、視線だけで意図を察した皓月は渋々と手を離した。
「さすがに庭園ではやめろ。お前もだ」
璙雲は組み敷かれる女官に一瞥を投げる。眞王である璙雲の登場に、今にも気を失いそうなほど顔色を悪くしていた女は引き攣らせたような悲鳴をあげた。
(この帯の色と飾り……確か尚服のものだったはず)
妃嬪と宦官以外の後宮に従事する者を宮官と呼ぶ。宮官は六尚(尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功)に分けられており、各尚の指揮をとる長官は手続きをすれば後宮を出入りすることが可能だ。彼女達は帯の色と飾りによって、所属と位がぱっと見て分かるようになっている。
皓月が宮官に熱を上げているのは知っていたが、まさか堅物と名高い尚服局長官だと思わなかった。そして、先日の鬼討伐に関連するのはこの女に違いないと気づき、思わず舌打ちが漏れた。
「おいおい、君は恐ろしい顔をしてるんだからそう睨まないでやってくれ。眉間に皺を作って、舌打ちだなんて、か弱い女人は恐怖で倒れてしまうよ」
「か弱いだって?」
はっ、と璙雲は鼻で笑う。
「誰が来てもおかしくない場所でおっぱじめようとする人間のどこがか弱いんだ。図太いの間違いだろう」
「はいはい。図太くてけっこう。なんか苛立っているみたいだけど、私達に八つ当たりをしないでくれないか?」
「八つ当たってなどいない」
反論したかったが、止めた。皓月に言われなくても、自分の言動が八つ当たりに近いことは十分わかっていた。
璙雲は居丈高な態度で腕を組むと、いまだに固まっている尚服局長官を見下ろした。
「おい、今すぐ去ればこの件は不問にしてやる」
璙雲の言葉に尚服局長官は首がもげるかと言うほど力強く頷くと、皓月を思いっきり突き飛ばして、乱れた衣裳もそのままに慌ただしく駆け出していった。突き飛ばされた拍子に尻を打ったのか、皓月は尻を撫でながら恨みがましい目で璙雲を見上げる。
「昔っから君って間が悪いよね。気づかないふりしてくれたら良かったのに」
深いため息を吐いた皓月は襟を正し、立ち上がると改まった声で問いかける。
「それで? なんでそんなに不機嫌なんだい?」
「……幽寂宮のことを考えていた」
てっきり皓月が腹を抱えて大笑いするかと思っていたが、彼は意外にも真面目な顔で後宮の方角を見やった。
「鬼はいたかい?」
「わからない。まだ、判断できていない」
「判断、ね」
皓月は少し考え込むようにして、再び璙雲に目を向けた。
「ねえ、君は幽寂宮とはどういうものだと思う?」
「あれは千年前の遺物だ。なぜ、残しておく必要があるのか、今まで取り壊されなかったのか、それは分からない。不必要なものなら早急に取り壊してしまえばいいと思っている」
「私も同意見さ。君が幽寂宮に赴いている間、それとなく調べてみたんだ。君も知っている通り、時代が移ろうたびにあの殿舎を取り壊そうという案が出たが、全て白紙となった」
皓月は広げた両手をひらひらと動かした。
「取り壊そうと言った提案者や許可を出した者は無事。だが、実際に取り壊そうとした人間は皆、死んだそうだよ。偶然か否か、ね」
「そこまで来たら偶然ではないだろ」
「そうだね。いつからか、あの殿舎は取り壊さないのが暗黙の了解となり、ずっと残されたままだ。それを気味悪がって〝後宮の鬼〟という噂が流れた、と私は考えていたんだけれど」
皓月はちらりと璙雲を見た。その表情には、わずかな懸念が浮かんでいる。
「もう一度詳しく調べたほうがいいね」




