05 困惑する二人
ぱちり、と璙雲は瞬きを一つこぼした。目の前に広がっていたのは、先ほどまでの廃墟でも、鬼の面をつけた少女でもない。見慣れた臥室に置かれた鏡台だ。
よく磨き上げられた鏡に映る自分は、驚きと困惑が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
「……一体、なにが?」
呆然と呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。緊張からか喉の奥が乾き、身じろぎするたびに汗が染み込んだ衣服が肌に張り付いて、不快で仕方ない。
丁度いい、と璙雲は皮帯を解き、防具を脱いだ。適当に手に取った手巾で汗を拭いながら、考える。
(夢ではない。あれは、確かに実際に起こった出来事だった)
幽寂宮に出るという〝後宮の鬼〟の噂の真相を確かめるべく、赴いた。
昨日と同様に荒れ果てた殿舎に現れた人ならざるモノと鬼の面をつけた少女。少女が持つ鏡を向けられた瞬間、璙雲の体は金縛りに会い、指一本も動かすことができなかった。次に鏡が人ならざるモノを移せば、鏡には佳人が悲しげに写り、佳人が愛したという男が複数人から暴行を受けている場面が流れた。
そして、最後に鏡は璙雲を写した。
瞬きをした次の瞬間、自分は幽寂宮から遠い自室へと移動していた。
「……彼女はいったい何者なんだ」
公服に着替え終えた璙雲が首を傾げたその瞬間、鏡面に微かに波紋が広がった。——ような気がした。
***
静寂を割るように涼やかな音が手元から聞こえて少女――花蓉は視線を落とした。両手に抱えた鏡が罅割れて、光を失い黒く濁っているのが見えて、眉尻を落とした。
「……まだ。もう少し、もう少しだけ私と一緒にいて」
花蓉は手で鏡面をひと撫でする。
すると罅はみるみるうちに塞がり、濁りは消え失せた。
鏡が元通りになり、安堵の吐息をこぼした花蓉はそっと抱きしめる。持ち手はなく、楕円形の鏡面を囲うようの蔦が絡み、花々が咲き誇っているこの鏡は今は亡き父が与えてくれた宝物だ。
命より大切なこの鏡が濁り、罅割れる度に花蓉の心も同じく傷を負う。
花蓉は鏡を見つめながら、ふと先程現れた青年の姿を思い浮かべた。父と同じ年齢ほどの青年は逞しい身体を黒い鎧に包み、どこか勇猛さを感じさせる見た目をしていた。
だが、その印象とは裏腹に、彼は花蓉や亡者を目にするたびに、怯えたような目をしていた。剣を持つ手すらわずかに震えていたことを、花蓉は見逃さなかった。
「一体誰だったのかしら」
花蓉はぽつりと呟いた。幽寂宮は現世と常世の狭間にある。二つの世界を結ぶ中間地点だ。訪れることができるのは死者のみ。生者がここに足を踏み入れることは本来、絶対にありえない。
「黄昏時にきたから?」
太陽が地平へと沈み、周囲が薄暗くなってくる時間帯を黄昏時と呼ぶ。または逢魔時と呼ぶこともある。太古よりこの世とあの世を繋ぐ時間の境目と伝えられていた。
あの青年が幽寂宮に現れたのは、昨日も今日も、まさにその時刻だった。昼と夜の境界が曖昧になる時、もしかすると何かの偶然でこの場所への道が開かれて、迷い込んでしまったのかもしれない。
「もう来なければいいのだけれど」
ため息をつくと花蓉は鬼の面を外した。その際、髪をまとめていた紐が一緒に解けてしまったらしく、銀色の長い髪がふわりと肩へ流れ落ちた。柔らかな光を纏った銀糸のような髪が視界を覆い、少し鬱陶しく感じる。花蓉は指先でその髪を握りつぶしながら、小さく心の中で呟いた。
(まだ慣れないわ)
光を纏う銀糸は美しいとは思うが、視界に入るたびにかつての鴉の濡れ羽のように艶やかな黒髪を思い出してしまう。どれだけ憂いても過去は変えられないのに、時間の無駄だとわかっているのに、心はいつも逆らうように幸せだった日々を探し続けるのだった。




