04 輪廻に還る
振り上げられた棒は弥白に向かって容赦なく振り下ろされた。鈍い音が闇夜に響くたびに、弥白のうめき声と鮮血が乾いた大地を赤く濡らす。涼雨はその惨状から目を背けようとしたが、鏡に映るその光景から目を逸らすことができなかった。視線を切れば、彼が消えてしまいそうで。声を上げれば、届かない想いが崩れ落ちてしまいそうで。鏡に縋り付くことしかできなかった。
「————弥白ッ!!」
絶叫にも似た涼雨の叫びが反響する。けれど、鏡の中の現実は止まることを知らず、鈍い音を響かせた。
「彼は、あなたの元へ向かおうとしていたわ。約束を果たそうとして、……捕まってしまった」
やがて、弥白の呼吸が途絶えた。殴打音も聞こえなくなった。
先程とは打って変わって、静寂に包まれた空間の中、涼雨はうずくまり、肩を抱き寄せて涙を流した。
少女は涼雨の背中を優しく撫でながら、ゆっくりと語りかけた。
「彼はあなたを裏切ってなどいない。むしろ、ずっと、あなたのことを想っていた」
「わ、わたし、弥白は、わたしを……!」
「恨んでもいないわ」
涼雨は苦しげに首を振る。あふれる後悔が涙となって頬を濡らした。
少女は弥白が自分を恨んでいないと口にしたが、涼雨は信じることができなかった。だって、涼雨は両親がついた嘘を信じてしまった。弥白が自分との未来を捨てて、大金を選んだと本心から信じたのだ。
「私は、……私は、彼を信じられなかったのに……? 恨まれて、当然のことをしたわ」
「招魂の術はこの世に未練があり、縛られている魂だけ呼び出すことができるの。浄土へ渡った魂や転生の輪に入った魂を呼び出すことはできないわ」
「……え」
「彼の魂を呼べる——つまり、彼はまだこの世に存在る、ということ」
涼雨は目を見開いた。
「……じゃあ、弥白は」
「彼はあなたを想って、ずっとここに留まり続けてる。あなたを待ってるのよ」
その言葉に、涼雨は膝をつき、鏡の前で嗚咽を漏らした。
「……いまさら、どんな顔して会えばいいの」
「普通に会えばいいだけ。いつものように他愛のない話をして、笑って、抱きしめて。あなたが望んだ未来を、彼ともう一度歩みたいと心で思い描くの」
少女はそっと鏡を持ち上げた。そこには涼雨の姿も、弥白の姿も写ってはいない真っ白な世界が広がっている。
「あなたが幽寂宮にきたのは救われたいと思ったから。愛しい男と添い遂げたいと願ったから。——私はその願いを叶えるためにここにいるの」
鏡がゆっくりと淡く輝き始めた。光は柔らかく、涼雨の頬を慰めるかのように優しく包み込む。
「さあ、彼の元へ行きましょう」
「……無理よ。どこへ行けばいいのか分からない」
「あなたは目を閉じて、彼のことを考えるだけでいいわ。あとは鏡が導いてくれるから」
言われるまま涼雨は静かに瞼を閉じた。
その瞬間、身体の内側を焦がす様々な感情が溶けるように薄れ、心の奥底に温かな光が灯るのを感じた。忘れていたはずの弥白の笑顔、彼との幸せな日々の記憶が次々と浮かび上がる。
「彼のことを思い出して。彼がそばにいたときの温もり、声、そして目に映る優しさを」
少女の声は静かでありながら、涼雨の心に深く響く。涼雨はただその言葉に従い、心の中で弥白を強く思い描いた。
すると、不意に鏡の中に淡い影が現れる。
最初は輪郭も曖昧だったそれは少しずつ輪郭を帯び、やがてはっきりとした姿へと変わっていった。
「……弥白?」
涼雨の震える声に、鏡の中の彼が微笑んで答える。
「涼雨、ここにいたんだね」
その言葉に、涼雨の瞳から涙が溢れ出した。彼の声はかつてのままの優しさに満ちていた。
「私……」
「君に会えてよかった。ずっと待っていたんだ」
弥白の手が鏡の向こうから差し伸べられる。涼雨は躊躇しながらも、震える手を伸ばし、鏡に触れた。
すると、鏡が水面のように揺れ、彼女の手をその中へと導いた。
「二人で行こう。この世でも、あの世でも、君とずっと一緒に」
涼雨は彼の手をしっかりと握りしめ、頷いた。
次の瞬間、眩い光が幽寂宮全体を包み込む。しばらくして急速に光は弱まり、最後は粒子となって消え去った。
「次は幸せに。二人仲良く、いつまでも」
涼雨がいた場所を見つめながら少女は膝をつく。鏡を膝の上に置くと両の指を絡ませて静かに祈った。
「……さて、次はあなたの番」
祈りを終えた少女は立ち上がると再び鏡を、呆然と立ち尽くす璙雲に向けた。
「ここはあの世とこの世の狭間、あなたのような生者が訪れていい場所ではないわ。さあ、おかえりなさい」
鏡に映るのは果たして何なのか——璙雲はごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと鏡を見つめた。




