03 鬼面の少女
額からは大きな角が伸び、大きく開いた口からは幾本もの牙が覗いている。目元は吊り上がり、眉間や目尻には深い皺が渓谷のように刻まれた鬼の面は妬み、怒り、悲しみ——人間が持つ負の感情を全て煮詰めて形取ったような形をしていた。
作り物と分かっていても背筋がぞっとする恐ろしさがある。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、璙雲は鬼の面を付けた少女を観察した。
身長は璙雲の胸ほど。肉付きの薄い身体は桃色の曲裾深衣に包まれており、黒地の縁飾には金糸で雲唐草紋様が描かれている。袖から覗く手には花鳥文様の鏡が握られていて、その鏡は璙雲の姿を映し取っていた。
衣裳も装飾類も今では着用している者もいない、古い型だ。眞国では珍しい銀色の髪を頭上で高く結い上げて、質素だが品のある簪をさしている。髻も衣裳同様に古く、璙雲は(役者か?)と予想を立てた。
「そこで大人しくしていて」
混乱する璙雲を一瞥すると少女は体の向きを何かへと向けた。
金縛りが解けたことで璙雲は無意識に数歩下がって何かと少女から距離をとる。いつでも抜刀できるように柄を握るのは忘れない。
「ごめんなさい。手荒な真似をしてしまって」
少女の謝罪に何かはくぐもった声で「あっ、う」と言葉を発した。語りかけたいことがあるのか何度も声を放とうとするが、ふやけ、腐敗しつつある喉では音を作ることは難しいらしい。
次第に何かは苛立ちをぶつけるかのように自らの喉を掻き毟り始めた。
「やめて。これ以上、あなたが傷つく必要はないわ」
少女の制止に何かはまたくぐもった声を放つ。爪のない指が喉を抉ると血ではない、茶色に濁った体液が傷口から溢れ出て、周囲に漂う異臭が更に強くなった。
思わず、璙雲は袖で口元を覆うが、それでも異臭は完璧に防ぐことはできない。
そんな中、少女は迷うことなく何かに近づくと自傷を繰り返す腕に手を添える。
「私に話したいことがあるの?」
自傷をやめた何かは少女を見つめて頷いた。
「なら、これを視て」
少女は一歩下がると鏡を持ち上げた。
鏡を覗いた何かは固まった。鏡の中には整った顔立ちの美しい女が映っていた。緑色に腐敗し、ふやけて剥がれかけた皮膚も、濡れ鼠のようなみずぼらしい姿もそこにはない。流れる黒髪は艶めいており、肌は真珠のように輝いている。——かつての自分だ。
けれど、伏せたまつ毛に隠れた瞳は憂いを帯びて、自分を見つめていた。
「……私?」
困惑に彩られた声は少女が持つ鏡から聞こえる。何かは恐る恐る血の気を失った頬を触れた。すると、鏡の中の自分も同じように頬に指先を這わせた。次に欠けた鼻を撫でると、鏡の中の自分も同じ行動をとる。
「ええ、あなたの生前の姿を、記憶を、この鏡は映し出すの」
少女は優しい声で答えた。
「さあ、なにがあったのか聞かせて。浄土に渡るには、あなたをこの世に縛り付ける未練を断ち切る必要があるから」
何かは、鏡に映る自分の姿をじっと見つめ、ゆっくりと唇を開いた。
「……生きていた頃、私は美しいとよく褒められたわ」
何か——涼雨は小さな邑に生を受けた。平凡な両親から珠のような子供が生まれた、と涼雨の評判は生まれてすぐに邑はおろか近隣まで届いた。成長するたびに美しさに磨きがかかり、気品を備えた涼雨は、いずれ眞王の側室へと期待されるようになった。
しかし、ある日、涼雨は運命に出会った。
「優しい男だったの。邑へ来ていた行商人。私はすぐ彼を好きになった」
その男の名は弥白。木製の背負い箱を担いで山を越えてこの邑へと訪れた彼は、見た目はごく普通の青年だったが、心根は誰よりも真っ直ぐだった。出会いの印にと涼雨が気紛れで道端で摘んだ花を差し出せば、照れたように微笑みながら花を受け取った。花だけではない。涼雨が挨拶をする度に、すれ違う度に、弥白は心の奥底から嬉しそうに笑った。
その笑顔に触れるたび、気付いたら涼雨は弥白に惹かれていった。
彼と過ごすひとときは、涼雨にとって生まれて初めて得た自由だった。窮屈な生活や厳しい芸事を一時的に忘れ、ただの一人の少女として過ごせる時間。触れ合ううちに、涼雨は彼と添い遂げたいと強く願うようになった。
けれど、
「両親は許してくれなかった。邑長も、邑人達も全員。あの人達は私を後宮に入れたいから」
後宮に娘を送れば、褒賞が与えられる。その褒賞がどれだけ邑の生活を潤すかを、彼らは知っていた。貧しい邑にとって涼雨は希望であり、救いそのものだった。だからこそ、いつか眞王に見初められるため栄養ある食べ物を与えて、肌に優しい衣裳を着せて、芸事を教え込んだ大切な娘がどこの馬の骨とも知れぬ男と添い遂げるなど、認めることはできない。
「私達は逃げようと思った。彼も私を好きでいてくれた。遠い土地で二人で一緒に暮らそうって」
密かに約束を交わし、涼雨は邑外れの湖の辺りで弥白を待った。夜が更ける中、湖面は月明かりを反射し、銀色に輝いていたのをよく覚えている。鳥獣の声が闇を震わすたびに、涼雨は身を縮めながらも、彼が来てくれると信じて待ち続けた。
だが——。
「弥白は来てくれなかった。だから、私……」
ある日、両親が涼雨を迎えに来た。彼らは冷たい笑みを浮かべながら、弥白が「お前より大金を選んだ」と告げた。
「湖に身を投げたわ。あの人と一緒にいられないなら、生きる意味はないから」
涼雨は顔を覆う。涙の代わりに濁った液体が指の間から流れ落ちて、床に染みを作る。
「私はずっと待っていたのに」
涼雨の慟哭に、少女は「そうだったの」と柔らかい声で答えた。鬼面で表情は隠されているはずなのに、不思議と微笑んでいるような気がした。
「あなたが信じていたことが真実なのかどうか、確かめてみない?」
「……確かめる?」
「ええ、この鏡はこの世の理を映してくれるの」
涼雨は戸惑いながらも、静かに頷いた。少女は鏡に手を添え、その表面をゆっくり撫でた。すると、鏡が淡い光を放ち始める。
「さあ、鏡を見て」
鏡の中に、ゆらゆらと影が浮かび上がる。
「……弥白?」
影が青年と形を成したのを見て、涼雨は困惑の声で名前を呼んだ。
鏡の中には、二十代と思われる青年が木々が鬱蒼と生い茂る森の中を、乱れた足取りで進んでいた。いつもなら柔和な印象を与える目尻は、今は限界まで見開かれ、その表情から彼が何かに追われていることが分かった。よく見ると、日に焼けた肌はところどころ傷だらけで、流れた血が袍を染めている。
涼雨はその姿に驚き、思わず叫んだ。弥白の名前を呼びながら、鏡にしがみついた。
「なんで! なんで、弥白が!!」
場面が変わる。弥白の背後を松明を手にした十数人の男が追っていた。
その男達の顔をよく知る涼雨は目を見張った。
「……どういうこと?」
弥白を追うのは邑で一緒に生活を営んできた男達だ。中には自分に求婚してきた男の姿もあり、涼雨は困惑する。
また、場面が変わる。後ろ手に縛られた弥白が男達に引きずられて邑長の前に突き出されていた。その顔は殴られたのか青紫色に腫れていて、袍は血で赤く染まっている。ひゅうひゅうとか細い呼吸を繰り返していた。
「なんで」
邑長が冷めた目で弥白を見おろして、なにかを告げた。それを合図に複数人の男が棒を手に弥白を取り囲んだ。
振り上げられた棒は弥白に向かって——。




