02 正体不明の何か
膝まで覆う黒光鎧に身を包んだ璙雲は、沈んだ心を奮い立たせるように、静かに目を閉じた。深く息を吸い込み吐き出せば、清涼な空気に混じり、かすかに錆びた鉄の匂いと竹林の青々とした香りが鼻腔をくすぐった。肺の奥まで満たすその香りは、重く沈んでいた心を、ほんの少しだけだが軽くしてくれる。
しかし、それは一瞬の慰めにしか過ぎない。戦いに挑む前の恐怖と緊張は、どれほど多くの修羅場を潜り抜けた身であっても、慣れることはない。足は震え、じっとりとした汗が肌に浮かぶ。
「……鬼なんていない。あれは人間だ。人間なら、切り捨てることができる」
まるで自分に言い聞かせるように、璙雲は小さく呟いた。
覚悟を決めた璙雲は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。黒曜石の瞳が闘志に揺れ、目の前の廃墟を鋭く睨みつける。その眼差しの先には、昨日と同様に朽ち果てた扉がある。風に吹かれ、かすかに軋む音を立てて動く様子は、どこか生き物のような不気味さを漂わせていた。
(絶対にあれが人間だと証明してやる)
心に覚悟を刻み込み、璙雲は廃墟の扉を押し開けた。一歩、また一歩と、慎重な足取りで内部へと踏み込む。警戒の視線は四方八方に向けられ、天井にも床下にも意識を張り巡らせる。誰が近づいても即座に対応できるよう、剣の柄を握る手に力を込めた。
内部は、昨日訪れたときとまったく変わらない荒廃ぶりだった。否、璙雲の警戒もあってか昨日以上に異様な雰囲気が色濃く漂っているようにすら感じられた。天井の隅々にまで張り巡らされた蜘蛛の巣、柱や壁の塗装は剥がれ落ち、所々に生えた苔が微かな陽光を反射させて鈍く光っている。
——視界に入る光景は、昨日見た光景と寸分違わない。何も変わらないまま、時だけが停止しているかのような異様な空間のはずなのに、なぜか違和感を覚えた。
「……?」
昨日、自らがつけた足跡を辿りながら回廊を進んでいた璙雲は、ある地点で足を止めた。足跡が途中で途切れているのだ。それも残っているのは自分の足跡のみで、背中に触れた子供の足跡はどこにも見当たらない。まるで初めから存在しなかったかのように、痕跡すら残されていない。
(やはり、体重が軽すぎて跡が残らなかったのか?)
そう考えた瞬間、廊下の奥から木材が軋む微かな音が聞こえてきた。神経が一瞬で尖り、璙雲は反射的に剣を抜き、構える。剣の切っ先をわずかに持ち上げながら、璙雲は暗がりを睨みつけた。
その奥から、やがて人の形をした影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。ぎこちない足取りだ。足を負傷しているのだろうか。
その影は、灯りの届かぬ闇の中から徐々に姿を現しながら、一定の間隔でギシギシと足音を響かせていた。歩みは遅く、不規則。まるで誰かに操られているか、あるいは自我を失った彷徨者のようだ。
璙雲は慎重に距離を保ちながら、剣を構えたまま問いかけた。
「誰だ? 名を名乗れ」
声は穏やかだが、その裏には張り詰めた緊張が滲んでいた。相手が子供である可能性も捨てきれず、完全に敵と判断するには早すぎる。
しかし、内心では別の疑念が渦巻いている。皓月が指摘した通り、この異様な状況で現れたものが人間とは到底思えない。どれほど自分に言い聞かせても、本能は何か別の存在であると警告していた。
「昨日の子供か?」
璙雲の問いかけに、人影は答えない。距離が縮まるにつれ、鼻をつく異臭が一気に強まり、広がった。肉が腐敗した臭いと青草の匂いが混ざり合ったような、不快極まりない臭いだ。璙雲の喉奥が本能的に嘔吐感を訴えた。
「……これ以上、くだらない悪戯を重ねるようなら、斬り捨てられても文句は言えないぞ」
璙雲の声に応えるように、人影が腕を伸ばした。その指は白くふやけ、爪は所々剥がれて肉が露出していた。さらに、その体は熟れすぎた茄子のように異様にふくれていた。
(これは悪戯ではない。……人間ですらない)
目の前の存在が、人であって人でないものであると理解したその瞬間、璙雲は即座に身体を低く構え、反射的に剣を振るった。銀の刃が闇を裂き、影を薙ぎ払う。
しかし、手応えはない。霞を切ったような感触だけが掌に残った。再び斬撃を放とうと構えた瞬間、
「やめて」
涼やかな声が耳元で囁いた。冷たく、静かな、だがどこか悲しみを帯びた声だ。その声が聞こえた瞬間、璙雲の身体は強張り、金縛りに遭ったかのように動かなくなった。全身に力が入らず、呼吸さえも浅くなる。
(仲間がいるのか?!)
振り向こうとするが、無駄だった。どうにか眼球だけを必死に動かし、声の主を探る。
璙雲のすぐ横には、鬼面をつけた女が立っていた。声はまだ幼く、背も低い。体付きから見て、女というより少女と呼ぶべきだろう。
「あの人は私のお客様。あなたが手を出すことは許さない」
冷たい声が鬼面の奥から響いた。その声にはわずかな悲しみと、怒りに似た感情が混ざっているようだった。




