01 床に転がる物体
椅子に腰掛けた璙雲は、紫檀の書案に両肘を乗せると両の指を絡ませ、その上に顎を乗せた。切れ長の目尻を更に鋭くさせると床に転がり震える塵よりも大きな物体を睨みつける。
「ふ、ふふっ。戦神ともあろうお方が鬼に驚き逃げ出すなんて」
笑いを抑えきれていない、くぐもった声は床の物体から聞こえてくる。璙雲は更に両目を細めて、舌を打つ。
「皓月。いい加減、黙れ」
名前を呼び、短く命じても物体——皓月は身体を起こすだけで、口は閉ざさない。不遜にも眞王の前で床に胡座をかく彼の姿は、まるで主人の命令を意に介さない猫のようだ。
「後宮の隅々《すみずみ》まで君の叫びが届いたそうだよ。私もぜひ聴いてみたかったな」
「うるさい」
璙雲の怒りに房室の空気が張り詰める。声の温度が下がり、鋭さを増していることに気づかない者はいないはずだ。それでも、昔馴染みである皓月は恐れず更に軽口を重ねた。思えば、この男はいついかなる場面でも恐怖に慄くことはなく、飄々《ひょうひょう》としていた。波間に漂う海月のようだ、と思ったのは今回で何度目だろうか。
(いや、海月の方がまだましだ。こいつは害がありすぎる)
自らの外見の良さを理解し、相手によって態度を変える様は漂うだけの海月よりも最悪と言える。
「ああ、やはり件の叫び声は君だったのか」
「……違う」
「安心したまえ。叫んだのは君以外の者だと思われているそうだよ。かの武神があのようなす、んふふっ、……素っ頓狂な声を出すとは想像つかないからね」
「……」
「いやぁ、それにしても〝後宮の鬼〟が本当に実在したとは」
一転して、皓月は表情を改めると落ち着いた声音で喋りだす。その途端、軽薄な表情が消え去り、穏やかで聡明な眼差しが浮かんだ。その切り替えの速さが璙雲をいっそう苛立たせる。
(真面目にできるなら最初からそうしろ!)
璙雲は内心で怒りを吐きながらも平静を装って唇を開いた。ここでぶつくさ文句を言っても皓月に通じないどころか、また一からやり直しだ。悲しいことに頭の回転と口のうまさは皓月のほうが一枚上手なので。
「実在したとは限らない。鬼に扮した宮女かもしれん」
「宮女? 宦官ではなくて?」
「背丈は俺の胸ぐらいだ。最初は童宦かと思ったが、声は高く、体つきも、身にまとっている衣裳も女のものだった」
童宦——幼くして、男性器を切除し宦官となった者を指す言葉だ。今現在、後宮にはおよそ二百名が暮らしている。精通前に去勢を施された童宦は、成人後に性を切り取られた宦官と比べて、いつまでも声は女性のように細く、筋肉がつきにくいため女性と見紛うようなふっくらとした体つきをしている。そのため、「童宦が女装していたのでは?」と皓月が問いかけると璙雲は微かに首を傾げた。
「まだ幼児なら見間違えるの無理はないが、背丈は十二、十三の子供ぐらいだった。その年頃なら、さすがに男女の見分けはつく」
勘だが、と璙雲が付け加えると皓月は月華の美貌に笑みを刷く。
「君の勘は当たるからねぇ。けれど、扉が勝手に開いたのだろう?」
璙雲が幽寂宮を訪れた時、無風だったのにもかかわらず扉はまるで意思が宿ったように開いた。扉と柱を繋ぐ蝶番は錆びついていたため、そう簡単に開くはずないのに、だ。
「そして、誰も住んではいなさそうだった」
誰かが訪れていたなら埃が蓄積した床には足跡がはっきりと残っているはずだ。それに、今にも腐り落ちそうな床板に崩れてしまいそうな壁はとうてい人が住めるような所ではない。
璙雲が「生きた人間の悪戯」で片付けたいと願っても、聡い部下はそれを許さない。璙雲が感じた違和感を丁寧にひとつずつ指摘する。
「君は勘が鋭い。子供に背中を触れられるまで、気が付かないとは考えにくい。いくら戦場を離れた身とはいえ、子供ならば絶対に気がつくはずだ——本当にそれは人間かい?」
「鬼などいるわけがない」
璙雲はすぐさま否定した。無意識に声は強張り、璙雲の心の内をあらわにする。
いつもなら喜んでからかうだろう皓月は、双眸を細めて、璙雲の言葉の先を待つ。
「俺が油断していたから気が付かなかっただけだ」
冷静に考えれば、なんとも恥ずかしい告白だが璙雲は気が付かない。周囲に神経を張り巡らせていたつもりだったが、どこか油断があったのだと、早口でまくし立てた。
「扉が開いたようにみえたのは風が押したからだろう」
「無風だと自分で言っていたのを忘れたのかい?」
「いや、風はきっと吹いていた。俺のところまで届かなかったからそう見えただけだ」
「汚れた床に足跡が残っていなかったのは、どう言い訳するつもりかな?」
「言い訳ではない! あれは、その……。子どもの体重が軽すぎたから残っていなかったんだろう。そのせいで足音もしなくて、俺も気付くのが遅れた」
皓月の憐れむ視線が突き刺さるが璙雲は気が付かないふりをする。どれほど辻褄が合わなくても、扉が開いたのは風のせいで、体重の軽い子供が鬼の格好をして、訪れた人々を驚かせていると自分にも言い聞かせるために。
「君は本当に怖がりだよね。そうやって無理に理由つけなくても可笑しい点が多いのは、自分でも分かっているだろう?」
「可笑しくはない。なにも問題はない」
「私は鬼はいると思うよ」
頭痛がするのか眉間を指で揉みながら、皓月は深くため息をはく。
「道士を手配すべきだ。一刻でも早く、鬼を討伐しなくては」
「子供の悪戯だ。放っておけ。今までだって被害はでていない」
「本当に人間の子供なら、ね。君の話を聞いている限り、私は鬼で間違いないと思う」
「……話していても埒が明かん。あれが人間だと証明すれば納得するんだな?」
「人間だという証明があれば、ね」
「いいだろう。あれは鬼ではないことを証明してやる」
璙雲は深い溜息をつき、立ち上がった。皓月がなにやら話しかけてくるが無視して、房室を出ていく。向かうは幽寂宮だ。そこで見た〝鬼〟がれっきとした人間であることを確かめてやろう、と決意して。




