02 朽ち果てた殿舎
夕闇が溶けた竹林を、璙雲が一人寂しく歩いていると薫風が隣を通り抜けた。風と呼ぶには弱々しいが、それでも竹をしならせるのには充分。ざわざわと葉が揺れて、その振動は幹を伝わり、地面をも軽く震わせた。
(……はあ、面倒なことになった)
頭上から降り注ぐ竹の葉を鬱陶しげに払いながら、璙雲は大きなため息をつく。あの時、皓月の無責任な言葉に乗せられ、つい啖呵を切ってしまった自分を思い返し、ひどく後悔していた。
「ほら、鬼は夕暮れにでるそうだ。早く退治してきてくれ」
無事に璙雲を言いくるめることに成功した皓月はほくほく顔で、どこから拝借してきたのか璙雲の愛刀を押しつけてきた。政務を理由に、後日向かうと断っても、「それなら私が進めておくから、最後の仕上げだけ君がすればいい」と言われてしまった。
(鬼など存在わけがない。後宮のような閉ざされた場所だからこそ、くだらない噂が広がるんだ。どうせ、迷い込んだ猫の仕業かなにかだろう)
後宮とは、皇后を頂点とした三千人を超える美女たちが集い、王の寵愛を巡って競い合う場所である。眞王の寵愛を得るべく、また得た寵愛を目移りさせないために彼女達は血で血を洗うような醜い戦いを繰り広げてきた。そのため、後宮にまつわる血なまぐさい話は多岐にわたる。美しい妃が眞王の目に留まらないように顔の皮を剥いだ皇后の話、お気に入りの衣裳に傷をつけたとして妃に四肢を切り落とされた宮女の話、無実の罪を着せられ鞭打ち刑に処された宦官の話——。
いずれも、前王朝が滅びてから千年の間に実際に語り継がれてきた出来事である。
璙雲が即位して早一年。後宮入りした女人の数は両手の指でも足りないが、璙雲が平等に接しているのと、まだ誰も懐妊していないこともあって平穏そのもの。皓月がいう〝後宮の鬼〟が本当にいるとは思えない。
(そのような噂が流れないように、やはり取り壊すべきだろうか?)
璙雲には思い当たる場所が一つあった。後宮の最奥、誰も近づかない場所にひっそりと建つ廃れた殿舎、確か名を〝幽寂宮〟といっただろうか。
前王朝時代に罪を犯した妃を幽閉するためだけに造られたその殿舎は、千年が経とうというのに今だ取り壊されることなく後宮にある。今はもう使われていない過去の遺物だ。何度か取り壊す案がだされたが、いづれも実行には至らず。今もなお、後宮の外れに存在し続けていた。
「ここが幽寂宮、か……」
竹が途切れ、前方が開いたことで群青と橙色が混じり合う空模様が広がっていた。遠い地平線がまるで燃え上がるように染められていて、その中央で古びた佇まいを際立たせているのは件の幽寂宮だ。
石造りの門には無数のひびが入り、蔦が複雑に絡みついている。表面は苔に覆われていて、蝶番が錆びついた門扉は今にも崩れそうなほど朽ちていた。
殿舎としての形はかろうじて残っているが、かつての華やかさを思わせる装飾はほとんど失われている。廃墟と呼んだ方がぴったりだ。
(こんなにも荒れ果てた建物を、なぜ放置しているのか……)
吹き抜ける風に混じって、湿った土や腐敗した木の臭気が漂い、璙雲の鼻孔をついた。あまりの不快な臭いに璙雲は顔を顰めた。
(鬼すら住むのも躊躇しそうな廃墟だな)
皮肉を込めて心の中で呟き、扉に手をかけようとしたその時だった。
——ギィ……。
指先が触れるより先に、門扉がわずかに軋んで開いた。風に押されたわけでもない、不自然な動きだ。璙雲は眉をひそめ、扉の隙間から中を覗き込む。
(気のせいか?)
外構同様、予想するまでもなく中も荒れ果てていた。壁や天井にはひびが走り、穴が空いた箇所からは夕陽が差し込んでいる。そのおかげで目視でも十分進めそうだが、璙雲は用心のため、皓月から愛刀と共に手渡された燭台に灯りをつけた。
右手に刀を、左手に燭台を。皓月が見たら指をさして笑いそうな間抜けな姿だ。この場に皓月がいなくて本当に良かったと心底思いつつ、意を決して扉を肩で押し開ける。
(……やはり、誰もいないな)
足音を極力殺しつつ歩を進めながら璙雲は周囲を見渡した。腐った床には積もりに積もった砂埃が厚く層をなしており、誰もこの場所に足を踏み入れていないことを物語っている。天井から差し込む光は、先ほどよりも闇を帯びており、燭台だけでは足元を照らすだけで奥まで見ることはできない。
そろそろ引き返すべきか、と璙雲が考えた時、どこからか微かに水滴が落ちる音が聞こえた。ぽたり、ぽたりと繰り返されるその音が、不気味な静寂を一層際立たせている。
「誰かいるのか?」
璙雲の眉がわずかに動く。ここ数日、天気は良好。幽寂宮の池は枯渇しており、水音を立てるような生物はいないのは先ほど確認した。そして、夜露が滴るにはまだ早い時間だ。
——ならば、この水滴が落ちる音はどこからするのだろうか?
璙雲は柄を握る手に力を込めた。気の所為だと思いたいが、先ほどの扉の件もあるため、神経を尖らせる。
「……ねえ」
軽く背中を叩かれて、璙雲は背後を振り返り、直後、叫声をあげた。暗がりの中、そこには恨みを宿した目でじっと璙雲を睨む、鬼の姿があった。




