02 約束
「私も隣に座ってもいい?」
足音が遠ざかり、二人きりとなった臥室で、花蓉は小首を傾げた。前よりも輝きを増した銀糸がふわりと揺れ、飾られている歩揺がしゃらんと音をたてる。
璙雲は頷くと、端によって花蓉が座りやすいようにしてくれた。
「あなたが目を覚ましたら色々とお話ししたいと……。ううん、しないといけないと思ったの」
落ち着かないのか花蓉は袖口を指先で弄びながら唇を開く。
「まずは、ありがとう。私を連れ出してくれて」
「感謝されるようなことは俺は何もしていない。……正直、どうやって脱出したのか覚えていなくてな」
「お父さまが、助けてくださったの」
「……狂帝か」
迷った末に璙雲はその名を口にして、直後、失敗したと思った。
その証拠に、花蓉は感情を抑えるように眉間に皺を寄せて、まつ毛を伏せた。
「違う。その人は、私のお父さまではない」
「……聞いてもいいか? 話たくなければ、無理にとは言わない」
感情をまだ整理しきれていないのだろう。詰まりながらも花蓉は自分の出生を話してくれた。狂帝が息子の妻に手を出し、その結果、自分が生まれたこと。母親は心を病み、自害したこと。表向きには眞王の娘として公主の地位を与えられていたが、父親は不明であり、皇太子である父が〝娘〟として愛してくれたこと。幽寂宮に閉じ込められた時、父が他の親族から身を挺して守ってくれたが、人蟲の儀は一人しか生き残れない。父は花蓉を生かすべく、死を選んだ。
けれど、花蓉は拒絶した。独りは嫌だと父の魂をあの鏡に封じ込めた——。
ゆっくりと、たどたどしく、心を整理するように花蓉は言葉を重ねる。
「幽寂宮から私達を逃がしてくれたわ」
花蓉は胸に手を当てた。とくとく、と心臓が早鐘を打っている。
「私は、幽寂宮が閉じれば生きられないはずなのに、こうして生きている。お父さまが命を与えてくださったから……。なにも、私は恩返しできていないのに……」
じわり、と目尻に涙が溜まる。泣き顔をみられないように花蓉は俯いた。
「そうか。ならば、悪いことをしたな」
えっ、と花蓉は顔を持ち上げた。この話から、なぜ璙雲が「悪いことをした」と称したのかわからない。
璙雲は花蓉の頬を濡らす涙を拭き取ると優しく笑った。
「父君の名は?」
「……剣鵬」
「彼は、剣鵬どのが花蓉の父君だったのか」
「知っているの?」
「ああ。前に声が聞こえたと言ったのを覚えているか?」
「あなたが幽鬼の声が聞こえたって騒いでいた時のこと?」
「……その時のことは忘れてくれ」
「それは無理。私、記憶力はいいほうなの」
「あの時は、後宮に住む鬼だと勘違いしてしまったんだ。けど、幽寂宮の崩壊の際に聞いた声と同じだった。きっと、俺が君に害をなすと思って警告しに来たんだろう」
「お父さまが……」
「大切な娘さんの目の前で傷つけてしまった。怒るのも無理はない」
「父は、たぶんだけど気にしてはいないわ。最期、笑っていたもの」
「最期?」
璙雲は不思議に思って聞き返した。自分が視えないだけで、今もこの空間にいると思っていた。花蓉の言い方だと、もうこの世にはいないと言っているように聞こえる。
「私が持っていた鏡は、お父さまが下さったの。元々は私のお母さまが持っていたものだって。……人蟲の儀で、あの鏡はたくさんの血を吸って、たくさんの人の死を写したわ」
内臓が腐る不快な臭いが充満する空間で花蓉は父の亡骸を抱きしめて、時間が過ぎ去るのを待っていた。どれだけ泣いても腹は空腹を覚えず、眠たくもならない。ぼんやりと、自分が幽鬼になったことを悟った時、血の池に落ちていた鏡が光っていることに気がついた。
そこに映っていたのは父だった。生前の、優しくて明るい父が鏡の中で笑っていた。
「鏡にお父さまの魂を閉じ込めたと気づいても、解放するなんてできなかった。ずっと、一緒にいたかった。……それで、気がついたら父は人形のようになってしまったの。ずっと、無表情で、喋らなかった。動く時は私に危機が及んだ時だけ」
「そうだったのか……」
璙雲はなにやら考え込む。
眉間にしわを寄せ、遠くを見るような目で黙り込んだ彼の姿に、花蓉はどこか居心地の悪さを覚えた。視線を手元や床へとうろうろとさまよわせる。
玉盈からは、すでに璙雲が幽寂宮で何が起きたのかを知っていると聞かされていた。だが、歴史書に記されていた文字とは違い、体験した本人の口から語られる言葉の重みは違う。
「祠堂を建てるか」
不快な気持ちにさせてしまった、かと心配していると静かな声が頭上から降ってくる。
「……祠堂?」
花蓉はおそるおそる問い返す。その言葉が意味することが分からず、不安を覚えた。
「昔の言葉でなんというのが正しいのだろうか……。霊廟? 先祖の霊を祀るための廟だ。剣鵬どの、他にあの地で不慮の死を遂げた者の魂を鎮め、癒すための場所と言えばわかるか?」
くるりと花蓉は目を大きくさせる。
「なんで」
「俺にできることはこれぐらいだ」
「あなたは、どうしてそんな優しいの?」
「優しいなんて初めていわれた」
はは、と璙雲は笑い——直後、右の肋骨を抑えた。笑ったせいで罅が入った骨がきしみ、痛みが走る。
少し背中を丸めて、痛みが過ぎ去るのを待っていると花蓉は恐る恐るといった様子で璙雲の背中を撫でてくれる。
「横になる?」
「いや、いい。戦場にいた頃はこんな怪我、日常茶飯事だった」
「……今の世も、戦争は起こるの?」
「あー、まあ、そうだな」
璙雲は頬を掻く。どうしてか、花蓉と話す際は緊張して、失言を繰り返してしまう。戦場、と聞いて花蓉がまた目を伏せたのを見て、かける言葉を考える。
「……私、してみたいことがあるの」
「俺に叶えれることならなんでも協力する」
続きを促すと、花蓉は長く息を吐く。膝に乗せられた拳を強く握り「協力は大丈夫」と璙雲の顔色を伺った。
「旅に出ようと思うの」
「……皓月から聞いた」
「不貞腐れないで。私が旅に出ようと思ったのは、世界を見たいって意味じゃないわ」
「それは嘘だ」
むっ、と璙雲は唇を尖らせる。
「いろんなものを見たがっていた」
「ええ、見たいわ。あなたが持ってきたお土産はどれも面白かったもの。……私が旅にでたいのは、この国に私の罪がどこまで影を落としているか、見届けたいの」
「君に罪はない」
「あるわ。みんなを犠牲にして、生き延びたもの。彼らの分まで、私は生きるって決めたわ」
「でも……!」
璙雲が言いかけたその時、花蓉はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「あなたの気持ちは嬉しいし、〝世界を見よう〟という約束はいつか果たすつもりよ。でも、それは私が旅にでたい理由とは違うの」
「危険だ。せめて、もう少し待っていてくれ。次の眞王を決めて、俺も付き添うから」
「璙雲。あなたには、まだこの国で果たすべき役割がある」
璙雲は目を伏せた。何も言えなかった。
「私は旅を終え、あなたの元に必ず帰ってくるわ。その時が来たなら一緒に世界を見に行きましょう」
静かな決意に、璙雲は押し黙る。頬を撫でる花蓉の手を握ることしかできなかった。




