01 目覚め
静寂を打ち消すような慌ただしい足音が聞こえて、璙雲は瞼を持ち上げた。まず先に視界に飛び込んできたのは見慣れぬ天井だ。臥室よりも天井は低く、塗料も何も塗られていない剥き出しの木の板に(ここはどこだろう)と考える。
なぜ、自分が見知らぬ室で寝かされているのか想像がつかなくて、体を起こそうとそた。
「——っぐ」
胸の奥底を支配する痛みに気づき、うめき声をあげる。視線を落とせば、胸や肩には幾重にも包帯が巻かれていた。腕や足には湿布が貼られている。鏡がないため、確認できないが頭や頬も包帯や湿布と思わしき物体で覆われていた。
(なんで怪我だらけなんだ?)
首を捻っていると皓月が室に入ってきた。慌ただしい足音は彼だったようだ。いつもは悠々とした態度を崩さない彼は、璙雲の姿を確認するとその場でへたり込む。
「璙雲、よかった。目が覚めたんだね……」
「俺はいったい」
「鏡が急に光ったと思ったら君達が降ってきたんだ。全身傷だらけで、意識もないから死んだかと思ったよ」
「……鏡が光る? 降ってきた? どういうことだ?」
訝しみながら璙雲は問いを投げる。自分の姿は満身創痍という言葉がぴったりだ。しかし、なぜこうなったのか覚えていない。
「覚えていないのか? 幽寂宮での出来事は?」
「幽寂宮……」
璙雲は両目をすぼめて考える。皓月が口にした〝幽寂宮〟という殿舎は後宮の奥深くに存在する、今は使われていない廃墟だ。鬼が住み、罪を犯した人間を引き摺り込み、はらわたを貪り食うと言われている。
(そうだ。俺は鬼を討伐しに幽寂宮へ行き、そこで——)
薔薇のような艶やかな瞳を持つ少女に出会った。
「——花蓉ッ!!」
臥台から飛び降りた璙雲を、皓月は肩を掴んで止めた。
「落ち着くんだ! 骨がいくつか折れている。安静にしていろ」
「そんなわけにはいかない! 花蓉を探さなければ……!」
「花蓉様はご無事だ。今は武昭儀様のところにいらっしゃる」
「そうか、無事……花蓉様!?」
信じられない、と璙雲は皓月を見た。あれだけ、鬼だ、幽鬼だと騒いでいたのに様付けをして敬う姿は異質に見える。
いや、敬うどころか頬を桃色に染めて、目尻を緩めるその姿はそれ以上の感情を持っていそうだ。月神の美貌がこんなにも緩む様を見るのははじめてだった。
「……お前、花蓉のことを毛嫌いしていただろう」
「ああ、あの時の私は無知だった。花蓉様が抱えていた孤独に気付けず、幽鬼と酷い言葉を浴びせてしまった」
皓月はまつ毛を伏せた。その瞳には涙の膜が浮かび、揺らめいている。いつもの人を操る時に浮かべる表情ではないことを察して璙雲は冷や汗が背中を伝うのを感じた。嫌な予感がする。
「花蓉を刺したのは忘れたのか。髪を掴んで、乱暴を働いていたの俺はこの目でしかと見ていたぞ」
「……あの時の私はどうかしていた。花蓉様はお許しくださったが、まだ幼い可憐な少女を傷つけるだなんて、許されるものではない」
「花蓉が許したのならいいのでは。俺は絶対に許さないが」
「だから私はこの先、一生を彼女に捧げようと思う」
「いやいや、待て。待ってくれ。お前、宮官と付き合っていただろう。尚服の堅物局長官だ。花蓉よりも彼女に一生を捧げてやれよ!」
これはまずい展開になった。無類の女好きである皓月が花蓉を気に入ってしまった。ほんわかな見た目とは裏腹に忠誠心が高い皓月は有言実行をする男だ。一生を捧げると誓ったのならその言葉通り、花蓉のために命すら捧げるだろう。
そんな未来を回避するべく、璙雲は身体を蝕む痛みも忘れて大袈裟な手振りで皓月の恋仲である宮官の存在を口にした。現在、皓月は二十二歳。そろそろ身を固めてもいい年齢だ。その相手に花蓉ではなく、宮官を! と璙雲がどれほど進めても皓月は柔らかな笑顔で首を左右に振る。
「彼女とはお別れしたよ。私はこの先、あのお方のために仕えると決めたその時に。あ、だから禁軍は止めるからよろしく」
しかも、さらりと禁軍を辞めるとまでいいだして璙雲は頭痛を覚えた。
「待て。本当に待ってくれ。なぜ、そんな話になる」
「花蓉様、外の世界を見たいと言ったんだ。護衛は必要だろう? 私なら人を手のひらで転がすのも得意だし、剣技や体技も申し分ない。荷物持ちにもなるし、疲れて動けなくなった花蓉様を抱き上げて移動することも可能だ」
恍惚とした表情で皓月は夢物語を語る。そんなふざけた理由で禁軍を退職するだなんて許されないが、本人はもう辞める気満々だ。璙雲がなにを言っても本人が語る「花蓉との素敵な世界旅行」を実行するつもりなのは明らかで、頭痛がさらに酷くなる。
「待て待て。なんでお前が花蓉の護衛を務める? 俺がやるからお前は今まで通り禁軍に勤めて、この国を護ってくれ」
「君は眞王だ。退位でもするつもりかい?」
うっ、と言葉に詰まる。花蓉の言う世界とはどの範囲を指すのかはわからない。遠征程度なら問題ないが、数ヶ月も国を空けることはできない。
「いつかは、とは考えている。王族なら俺以外にもいる。彼らの適正を見極めて、眞王として申し分ないか確認してから俺が護衛を務めるつもりだ」
「いやいや、君はよくやっているよ。書類仕事だって、最近は上手にこなせるようになったじゃないか。後宮には美しい花が多くいるのだから、花蓉様お一人のために君が眞王を退位する理由はない。そうだろう?」
「元々、王座に興味はない。それに花蓉と〝一緒に世界を見に行く〟ことを約束したからな。ここに残るよりも花蓉と共に世界を見に行ったほうが楽しそうだ」
「それが叶うのは何年後だい? それまで、花蓉様をまた閉じ込めるつもりかい?」
——また閉じ込めるつもりかい。
その言葉に、璙雲は額を押さえた。花蓉を閉じ込めるつもりはない。本人が承諾してくれるのなら、妃として後宮で自由気ままに過ごしてもらうつもりだ。それか、信頼のおける家に養女として迎え入れさせて、そこで暮らしてもらうことも考えた。
けれど、その方法はどれも皓月が言う通り、彼女にまた不自由を強いるということだ。
「君の考えは分かっている。花蓉様をそれ相応の地位がある家に養子にとらせるつもりだろう?」
皓月は口角を持ち上げる。
「そうすれば、後宮に妃として迎え入れても後ろ盾がある分、安全に過ごすことができる。市井よりも簡単に会いに行けるしね。確かに幽寂宮よりも大勢の人間に囲まれて、美しい物に触れ合う機会が増えるだろう」
けれど、と皓月は笑みを消すとまつ毛を伏せた。
「それは、彼女を狭い箱庭に閉じ込めると同等の行為だと私は思う。世界を見たいと願う彼女を、いつ叶うかわからない年月を閉じ込めておくだなんて……。心優しい花蓉様のことだ。〝いい〟と言って、また一人で耐え忍ぶ道を選ぶだろう。それを理解した上で、それを提案すると?」
「……それは」
璙雲が奥歯を食いしばった時、扉が開く音とともに小さな衣擦れの音が耳朶を優しく撫でた。二人が振り返ると、武昭儀——玉盈を引き連れた花蓉が立っていた。
その姿を見て、璙雲は目を見張った。
花蓉が着ているのは、いつもの古めかしい衣裳ではなかったからだ。絹の上衣は慎ましやかな淡桜色で真っ白な桜が咲き誇り、胸上まで引き上げられ、幾重にもひだを作る裙は上品な淡藤紅色だ。裙が落ちないように締められた帯は深みのある真紅色で紅玉の宝珠が連なる白色の帯紐で締められている。ふわりと風をはらみ膨らむ肩巾は可憐な桃色。豊かな銀髪は雲型の高髻に結われていて、金簪や歩揺、生花がふんだんに飾られていた。
可憐な面にはうっすらと化粧が施されており、普段の幽玄な美しさはなりをひそめて、今は生き生きとして輝いていた。
配色に違いはあるが、これは確かに璙雲が自ら選んだ絹布で作られている。
「勝手な憶測で話さないでちょうだい」
棘がありながらも花蓉の声は、驚くほど穏やかだった。その顔は呆れたような微笑みが浮かんでいる。
「……怪我、大丈夫そうね」
花蓉は璙雲の姿を一望し、安堵の吐息を吐いた。
「三日間、目を覚さないから心配していたわ」
「あ、ああ、今さっき、目が覚めたんだ」
照れくさそうに後頭部を掻きながら、璙雲は答えた。すると沈黙を保っていた玉盈がすっと視線を細めて、なにやら合図を送ってくる。
(無理をいうな!)
衣裳と化粧を褒めそやせ、と視線で訴えられて璙雲は恥ずかしさのあまり、視線を床に落とした。
「ねえ、座ったらどう? まだ、本調子ではないのでしょう」
すっと臥台を指さされて、璙雲は素直に従った。視線はまだ床に固定されている。皓月のように素直に「似合っている」と伝えたいのに、言葉は喉奥に張り付いてでてこない。
気のせいか脂汗もでてきた。さり気なく袖で拭うとくすくすと笑声が聞こえた。少し視線をあげてその笑い声の出どころを探れば、皓月が口もとを隠して笑っていた。その隣では玉盈が呆れたような眼差しを送ってくる。
居た堪れなくなり、璙雲は咳払いをして、気分を無理矢理塗り替えると花蓉を見つめた。
「怪我はどうだ」
「あなたが庇ってくれたから大丈夫よ」
「そうか、それは良かった」
会話が続かない。璙雲は焦った。幽寂宮に通い詰めていた時は弾んでいた会話も、今は苦痛を感じる。
その空気を花蓉も悟っているのかどこか居心地が悪そうにしていた。
しばらくして、花蓉は背後を振り返り、皓月と玉盈を見た。
「ごめんなさい。彼と話したいから、二人は席を外してくれる?」
「はい。もちろんですわ。わたくしたちは客庁にいますので、終わったら声をおかけください」
ゆるく膝を折った玉盈は笑顔を浮かべると、居座ろうとする皓月の背中を鷲掴み、問答無用で引きずって退室した。




