06 父からの愛
花蓉にとっての幸福は、父の娘になれたことだ。出生はどうであれ、父から溢れんばかりの愛情を注がれた自覚はある。高熱にうなされた夜、どれだけ多忙でも父は花蓉の枕元に駆けつけてくれた。山に行きたいと口にすれば、遠く険しい道も惜しまず連れて行ってくれた。市場に行ってみたいと願えば、庶民に紛れるよう変装を施し、普通の親子のように笑いあって過ごした。季節ごとの菓子を一緒に味わい、小さな出来事に声を上げて笑った。
そんな思い出のひとつひとつを大切になぞりながら、花蓉は冷たい胸元に頬を寄せた。
もし、願いが叶うのならば、この冷たい身体ではなく、また暖かな体温を感じることができるのだろうか。心音を聞けて、喋ることができるのだろうか——。
(……悪いことをしたわ。私の判断不足でお友達を傷つけてしまった)
過去に縋るつもりはなかった。未練もないと、そう思っていた。それなのに花蓉の心を後悔が支配する。
二度と来るなと言いつつ、璙雲が来るのは楽しみだった。彼は怖がりのくせに幽寂宮にたびたび訪れては甘い菓子や珍しい装飾品を持ってきて、花蓉を楽しませようとした。世界を見に行こう、と提案してくれた時、すぐにでもその手を取りたいほど嬉しかった。
璙雲の言動に心動かされていく自分を自覚した時、冷たく突き放すべきだったのだ。彼の心を鏡に封じ込めてしまえばよかった。そうすれば、璙雲は花蓉に対する興味を失い、眞王として、今まで通りの生活を送っていただろう。結果的に彼の親友を傷つけることはなかった。
「——」
ふと、何かの音が耳に届いた。大きな音だ。幽寂宮が崩れていく音だろうか、と花蓉はぼんやりと考える。
「——ッ!」
誰かが、名前を呼ぶ声がした。花蓉は面を上げると声のする方向を見た。
「……なんで」
土煙の向こうから走り寄ってくる璙雲の姿を見つけて、花蓉が両目を丸くさせた。飛ばした先はここからだいぶ距離があるはずだ。急いで来たのか、汗を大量にかきながら、肩で息をしている。衣裳はおろか、手や顔には無数の擦り傷があり、汚れていた。崩れていく幽寂宮の中を来たのは一目瞭然だった。
「なんで、来たの?」
袖口で涙を拭くと気丈にも花蓉は眉を吊り上げる。崩壊に巻き込まれないように飛ばしたはずなのに、なぜここにいるのだろうか。
「ここは危険だ。早く避難するぞ」
真っ直ぐに伸ばされた手を、花蓉は黙って見つめた。
幽寂宮はもうじき崩れ落ちる。璙雲の言うとおり、今逃げなければ瓦礫に押し潰されてしまう。いや、それよりも空間自体が捻じ曲がっているため、逃げても意味はないのかもしれない。
璙雲だけは助かって欲しい。鏡が粉々になったため、別の地点に飛ばすことは難しい。どうすれば璙雲を救えるのか、と花蓉が悩んでいると背中に誰か、大きな手が添えられた。
「……なんで」
とんっ、と背中を押された花蓉が振り返ると、剣鵬が虚ろな目でこちらを見下ろしていた。
戻るために花蓉が踵を返そうとすると剣鵬は腕を持ち上げ、指先を伸ばす。その指が指し示す先に、璙雲がいた。
「誰かいるのか?」
駆け寄ってきた璙雲が花蓉を守るように抱きしめながら、虚空を睨みつける。警戒を解かないのは、さきほど親友が目の前で吹っ飛ばされたからだ。
花蓉はその腕から逃れようと身を捻りながら「あなたには関係ない」とぶっきらぼうに答えた。
「離して。私はここに残るから」
「死ぬのは許さない。今すぐ、俺の室に飛ぶんだ!」
「あなたの許可なんて必要ない。それに無理。……鏡は壊れてしまったもの」
「なら走っていく。掴まれ」
急に持ち上げられ、花蓉は小さな悲鳴をあげた。不安定な体を固定するため、璙雲の首に腕を回す。
「や、やめてって言っているでしょう! あなただけ逃げればいいじゃないっ!」
横抱きでは暴れるからと璙雲は花蓉を肩に担ぎ上げ、両足を固定した。花蓉はもがいて抵抗を試みるが、体格差のせいで自由になるのは叶わない。
「暴れるな! 落ちるぞ!」
「結構よ! 私は助かりたいだなんて頼んでもいないわッ」
「断る。お前が生きたいと言わないなら、俺が生きさせる!」
「……意味がわからない」
その時、幽寂宮全体が大きく揺れた。瓦や柱が崩れ落ち、庭園の木々も軋むように倒れていく。
璙雲は花蓉を抱えたまま走り出した。
***
「花蓉! 捕まっていろ!」
璙雲の怒鳴り声が響いた刹那、上空から轟音とともに巨大な支柱が崩れ落ちた。土煙が舞い上がり、視界が一瞬真っ白になる。激しい振動が地面を揺らし、足元がぐらりと傾いた。
しかし、野生に近い直感が命を救った。咄嗟に飛び退いた璙雲は、ギリギリで落下を回避し、花蓉の体をより強く抱きしめる。
「くそっ……!」
視界の先、唯一の脱出口であるはずの表門が瓦礫に塞がれていた。もはや通常の道は閉ざされている。
別の経路があるのか。望み薄と思いつつ、璙雲が花蓉に問いかけようと顔を向けた時——彼女の視線が、一点に釘付けになっていることに気づいた。まるで何かに心を奪われたように、真剣な眼差しで虚空を見つめていた。
『——花蓉』
その時、優しい声が、どこからともなく響いた。風の音に混じるその声は、かつて耳元で囁かれた男の声と酷似していた。ただ、あの時のような抑揚のない無機質なものではない。今のそれは、例えるならば春の陽だまりのようにあたたかく、包み込むようなやさしさを帯びていた
花蓉には男の姿が見えるのだろう。微かに震えながら「お父さま」と呟いた。
(狂帝か!?)
璙雲は警戒心をあらわにする。柔らかな声音は、人蟲の儀を行ったようには思えない。
けれど、花蓉が父と呼ぶ人物は璙雲が知る限り、狂帝しかいない。
すると、床に散らばった鏡の欠片がひとつ、またひとつと淡い光を放ち始めた。光は徐々に集まり、やがてその中心に、一人の男の姿を映し出した。
現れたのは三十路前ほどの青年だった。武を嗜むのかその肉体は逞しく、どこか凛とした気高さを感じさせた。面差しは整っており、どことなく花蓉と似た雰囲気を纏っている。
『花蓉』
男——剣鵬は、愛おしげに目尻を下げて、花蓉を見つめた。
「……お父さま、私、謝らなきゃいけないことがあるの」
花蓉の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。後悔と懺悔が入り混じる声に、剣鵬は静かに首を振る。
『謝る必要はない。お前が生きていてくれて、本当に良かった』
「でも、私」
『俺は、後悔していない。あの日、お前を守って正しかったと、心から思っている』
ゆっくりと手を伸ばし、花蓉の頬へとその手が触れるように動いた。
『もう大丈夫だ。今度こそ、お前は幸せになりなさい』
その言葉とともに、剣鵬の姿は、やわらかな光とともに消えていく。
「お父さま……!」
花蓉が手を伸ばした。
指先が剣鵬に届く前に、光が弾け、視界一面を覆った。




