01 赤ん坊の幽鬼
幽寂宮に遊びにきた璙雲は回廊の中央でしゃがみ込む花蓉の姿を見つけた途端、歩く速度を早めた。
だが、近づくにつれて違和感を覚える。いつもならすぐ振り返り「また来たの」と呆れる花蓉は何も言わず、前を見据えていた。足音が聞こえているはずなのにおかしいな、と不安を覚えながら近付いたところで璙雲は「あっ」と思わず声をあげてしまった。急いで口を塞いで、壁際まで下がる。
すると花蓉の影に隠れていた小さな存在がよく見えるようになった。
それは、赤ん坊だった。
まだ一歳を過ぎていないほどの、小さな赤ん坊がよちよちとたどたどしい足取りで歩いている。全体的にふくよかだ。母親の乳をたらふく飲んでいるのだろう。そして、着ているおくるみは上質布で織られている。以上のことから赤ん坊はいいところの出自であることが伺える。
しかし、幽寂宮に訪れたということはこの赤ん坊は幽鬼であることは疑いようがない。どこも怪我を負っておらず、痩せてもいない。流行病や不慮の事故で命を落としたのだろうか。
(可哀想に……)
昔と比べて医療が発達し、国も豊かになったことで幼くして亡くなる子供は減った。それでも亡くなる子供はいる。
璙雲は悲しげに眉を落として、赤ん坊と、花蓉の動向を観察した。赤ん坊が花蓉の足元にたどり着いた。ふくふくとした手を伸ばして花蓉に笑いかける。小さな乳歯が顔を覗かせた。
「ほら、おいで」
花蓉が優しく手を伸ばせば、赤ん坊は喃語でなにかを話した。その声は透き通るように純粋で、耳に心地良い。
「……ごめんなさい。私にはなにを言っているのかわからないの」
花蓉は赤ん坊をそっと抱き上げた。
今気が付いたが花蓉は鬼面を外して、腰帯に吊り下げていた。これは珍しいことだ。今までは璙雲が無理やり紐を外していたか、食べ物で釣って外させるまでは頑なに素顔を見せない彼女が自ら鬼面を外すなんて。
「だから、私と遊びましょう。あなたが満足するまで、ずっと。今度はなにをする?」
こてん、と首を傾げる。両目を細めて、愛おしそうに赤ん坊を見つめた。
その時、赤ん坊が璙雲の存在に気がついたようだ。くりくりした目を更に大きくさせた。釣られて花蓉も振り返る。
璙雲の存在には気付いていたらしく、興味なさげな視線を向けられた。
「邪魔をしたな。あ、今日は杏仁豆腐を持ってきたぞ」
璙雲が手にした容器を掲げると花蓉の視線はくぎ付けになる。
彼女の反応に笑みを浮かべながら璙雲は立ち上がるとできる限り足音をひそめて、二人に近づいた。たくましい体躯と厳つい顔のため、子供に恐れられることは理解している。膝を折って、視線をできるだけ近づけて、更に笑顔を努めていると妙な視線が刺さる。
花蓉だ。その視線には奇妙な生物を見たような、戸惑いが交じっていた。
「なに、にやにやと」
「俺は子供に怖がられないように努力しているだけだ」
「その顔のほうが怖いでしょう」
花蓉はため息をつきながら、赤ん坊の目を袖で隠した。
「この子の遊び相手をするから少し待っていて」
「俺が代わるから君は休んでいろ」
「……なぜ?」
璙雲は杏仁豆腐の容器を少し持ち上げてみせる。
「ずっと遊び相手を務めていたんだろう? しゃがみ続けて裾に皺ができてる。俺が変わるからこれでも食べて休んでいればどうだ?」
「大丈夫。この子の未練が分からないもの。休めるわけがない」
「ああ、未練を断ち切らないといけないんだったか。なら、俺とその子が遊ぶ様子を観察してはどうだろうか?」
花蓉はきょとんとした。
「客観的に見てみれば、まったく違う考えが浮かぶものだ。俺は元々王座とは程遠い末席でな、成人したら城よりも市井を歩く時間の方が長かった」
袖をめくりながら璙雲は昔を懐かしむ。
「父上が許してくださったから本当に朝から晩まで市井で暮らしたよ。軍人となってからは暮らす場所は戦地がほとんどだったけどな。城で老師から聞いたことと、実際に現地で体験したことはずいぶんと違った。人々の声を聞けば、国に届くものとも違っていてな」
「役目を全うするのに、観察も立派な仕事だろう。それにな、杏仁豆腐というのは冷たいうちに食べたほうがいいぞ」
花蓉はちらりと視線を杏仁豆腐に向ける。璙雲が匙で一口分だけすくい、桜唇に当てると、花蓉はいかにもしぶしぶといった様子で唇を開いた。
舌先に優しい甘さが広がったのだろう。わずかに目元が柔らかくなった。
その様子を見届けた璙雲は、満足げにうなずき、花蓉の腕に抱かれた赤ん坊を抱き上げた。
「さて、今からお前の相手は俺がするぞ!」
肝が据わっているのか赤ん坊は嬉しそうに璙雲を見上げ、両手をばたつかせる。小さな手が璙雲の顎を打つ。さらに赤ん坊は嬉しそうに笑った。
生きていれば大物に育ちそうだ、と璙雲は思った。自分の顔を見て、抱かれて、顔を打って笑う子供は初めてだ。
「ほう、俺と遊びたいか!」
璙雲は笑い、赤ん坊の手を取り、そっと揺らしてみた。赤ん坊は最初戸惑ったように見えたが、次第にその動きに合わせて声を上げ、笑顔を見せた。
「楽しそうね。私の時よりうれしそう」
花蓉は杏仁豆腐を食べつつ、むすっと顔を膨らませた。赤ん坊の幽鬼が訪ねてきたのはいいが、意思の疎通ができず困っていた。子供と触れ合ったこともないので、どうにか遊んで、満足させようとしたのだが赤ん坊は泣きはしないが楽しそうではなかった。
それなのに璙雲は抱っこしただけで楽しそうだ。少し悔しい。
「そうか? 俺は子供に好かれないから嬉しいな」
璙雲の腕に大人しく抱かれていた赤ん坊は、花蓉が持つ杏仁豆腐にも興味を示したようで、ふくふくとした手を器に伸ばす。
「お前もこれが食べたいのか?」
璙雲が笑いながら尋ねると、花蓉はその様子を見て首を振った。
「死者は死んだときの状態のまま。満腹のまま亡くなった赤ん坊が腹を空かせるわけないわ」
璙雲は眉を上げ、なるほど、とつぶやいた。
そして、赤ん坊の興味を引き続けるため、高い高いをしてみせた。赤ん坊は突然の浮遊感に目を丸くしたが、すぐに声を上げて笑い始めた。その笑顔を見て、璙雲はますます楽しげに赤ん坊を揺らしたり、回ったりしながら遊び続けた。
「……不思議ね」
花蓉は器を手にしたまま、じっと璙雲を見つめていた。
どうした? と、璙雲が赤ん坊を抱えたまま振り返る。
「あなた、子供の相手が随分上手なのね。弟か妹でもいるの?」
その問いに、璙雲は意外そうな顔をして首を振った。
「いや、俺は末っ子だ。兄と姉ならいるがな」
「そう……」
花蓉は、ふと視線を落とした。
まつ毛を伏せる姿に璙雲は内心首を傾げた。
「君には兄弟はいるのか?」
璙雲の問いかけに、花蓉は少し悩むように黙り込んだ。
たっぷりと黙った末に「いない」と静かに首を振る。
「私は一人っ子よ」
その言葉の響きには、どこか不確かなものが含まれていたが、璙雲は深くは聞かなかった。ただ軽くうなずいて、「そうか」と一言だけ返した。
***
しばらくの間、璙雲が赤ん坊と戯れている様子を眺めていた花蓉は、ふと手元の鏡へと視線を落とした。なめらかな鏡面が淡い光を帯びながら静かに揺らめいている。
その光を見つめて、花蓉は柔らかく微笑んだ。赤ん坊の未練が断ち切られたのだ。
赤ん坊の元へ近づくと、そっと膝を折り、鏡を見えやすいように抱え直した。
「さあ、ここを見て。この光を辿っていけばいいから」
赤ん坊は瞬きをひとつこぼしてから、じっと鏡の光を見つめた。やがて、小さな手をそっと伸ばした。指先が鏡面に触れるとその瞬間、赤ん坊の姿は儚く消え去った。
急に腕の中の重みがなくなった璙雲は不思議そうに自らの両手を見つめた後、鏡と花蓉を交互に見やる。
「あの子はこれで浄土に渡れるのか?」
「ええ、心残りは無事に晴らせたわ。遊び足りなかったみたい。あなたが相手をしてくれたから、助かったわ」
花蓉が感謝の意を伝えると、璙雲は誇らしげに鼻を鳴らして胸を反らす。
その時だった。穏やかな空気を裂くように玻璃が割れる音が聞こえた。涼やかな音に花蓉はすぐさま手元に視線を落として、顔を歪めた。黒く濁った鏡面が薄氷を踏み締めた時のように細かな罅が走っていた。
「……また壊れたのね」
無意識に呟き、そっと鏡を撫でる。すぐさま罅は塞がったが、黒い濁りは簡単には胡散しない。今までならすぐに元に戻るのに、と花蓉が柳眉をひそめると頭上から影が落ちてきた。
「壊れたのか?」
璙雲が心配そうに鏡を覗き込んだ。心配そうな声音に、花蓉は何気なく鏡を袖で隠しながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……すぐに元に戻るわ。形あるものはいつか壊れる定め。仕方のないことよ」
「でも、大切なんだろう?」
「……大切でも、ずっと一緒にはいられないわ」
花蓉はそっとまつ毛を伏せる。
「それを貸してくれないか?」
璙雲の提案に、えっ、と花蓉は面をあげた。
「職人の手にかかれば、元に戻すことも、今より長持ちする術も分かるはずだ」
花蓉は鏡に視線を送る。大好きな兄から贈られた、大切な宝物。幽鬼の未練を断ち切るとその都度、光を失い、罅が深くなる。それを見る度に花蓉の心も引き裂かれたような痛みが走った。
終わりが近いからこそ、鏡が壊れ始めていることは薄々わかっていた。
わかっていても、慣れることはない。
迷った末に、花蓉が何か言葉を発するために唇を開こうとした時、
「——っ」
胸に鋭い衝撃が走った。




