05 花蓉の出自
璙雲が去った後、幽寂宮はまるで深い闇に沈んだかのように静まり返っていた。虫の声も、風の囁きすら聞こえない、息が詰まるほどの無音が空間を支配する。
それは、この場所では当たり前のことのはずなのに、花蓉はその静けさの中にまるで心が空っぽになったような感覚を覚えるようになっていった。
その寂しさから目を背けるように、花蓉は目的もなく回廊を歩き始めた。閉ざされた幽寂宮には遊び道具も、食糧も、何一つ存在しない。元々、ここは罪人を閉じ込める牢獄だ。娯楽とは無縁な場所には時間を潰す術はない。強いてあげるならぼんやりと虚空を見つめるか、こうして辺りを散策することしかない。
だが、散策といっても心を慰める風景など存在しない。庭園と呼ばれる場所も、枯れ果てた雑草と朽ちた木々が並ぶだけの廃れた空間が広がっているだけ。腹を満たす必要のない者には不要とされたため、厨と呼ぶのも憚られる小さな室。眠ることが許されない身には無用の長物である臥室。華やかな後宮に存在しているはずなのに、まるで別世界のようだ。
「……ここは」
最後にたどり着いた房室の前で、花蓉は足を止めた。美貌を複雑な表情に染めて、扉を睨みつけた。
その房室は、かつて蠱毒の儀が行われた際に父が命を落とした場所だった。
花蓉の父は勇猛果敢な獅子のような男だった。民の期待を一身に背負う皇太子でありながら、祖父である眞王の悪行に心を痛めていた。
そして、とても優しい人だった。
花蓉は眞王の娘、つまり公主の身分を与えられているがその出自には真偽のほどは定かではない。花蓉の母は皇太子妃だったが、眞王に凌辱され、花蓉を産み落とした。その後、心を病み、自ら命を絶った。そのため、花蓉の記憶には母の声も姿も残っていない。
ただ、自分の容姿が母に似ていることだけは知っていた。成長するたびに、父がそのことを繰り返し口にして褒めそやした。
「つんと尖った鼻はお母様に似たな」
と指先で鼻を突いてきたり、
「お母様も花蓉のような目をしていたんだよ」
と目尻を優しく撫でた。花蓉の中に残る妻の面影を見つけるたびに父は嬉しそうに笑った。
しかし、花蓉が父の子なのか、眞王の子なのか――それを疑問視する声は多かった。皇太子妃の悲劇と眞王の狂気は国中に知れ渡っていたため、公主の位を授けるべきという声や確信がないのだから授けるべきではないという声が多々あがった。
そんな声があることを理解しながらも父は花蓉をたいそう大切にしてくれた。自分の子か、父の子かも分からない自分を――。
ある日、冷宮に閉じ込められた。そこで他の兄弟や顔も知らない親戚達と殺し合いを命じられた。訳もわからず怯える花蓉の代わりに父は剣を手にとって、戦ってくれた。
空気に触れて全てが赤黒く染まり、肉片から不釣り合いの真っ白い骨が飛び出した物体が転がる房室の中、最後に生き残ったのは父と花蓉の二人だけだった。
だが、蠱毒の儀においては、一人しか生き残れない。すがる花蓉に対し、父は全てを諦めたように微笑み、「生きろ」と言い残した。たくさんの血を吸い黒く変色し、欠けた剣で自らの首を刺した。
父が死んだ。徐々に冷たくなる体を抱きしめて花蓉は泣いた。泣き続けるうちに、美しかった黒髪は銀色に、黒真珠の瞳は血のような赤色に変わっていた。どれほど泣いたのか分からない。父の胸に額を擦り、ただただ時間が過ぎ去るのを待っていた時、鈴の音が聞こえた。
閉ざされていたはずの冷宮の扉が開かれ、眞王が現れた。鈴の音は彼が乗る玉輦の屋根を飾るもので、玉輦が揺れるたびに軽やかな音を奏でた。この場にはふさわしくない、清廉な音色だった。
名を呼ばれた花蓉が顔をあげると眞王と目が合った。遠くからしか対面したことがない祖父の顔には不気味な笑みが浮かんでいた。
花蓉の無事を確認したら何も告げずにすぐに去っていった。
幽寂宮に漂う薄暗い空気は、花蓉の記憶を容赦なく呼び覚ます。重く鈍い罪の感覚に囚われ、花蓉は拳をぎゅっと握り締めた。
ふと考える。璙雲は、自分が千年前に生きていた公主であることを知っている。だが、この幽寂宮で蠱毒の儀が行われたことを知っているのだろうか? もし知ったら、彼はどう思うだろう? 家族を、そして父を見捨てた花蓉を、軽蔑するだろうか。それとも、仕方のないことだと憐れむのだろうか――。
「……いや」
浮かび上がる問いを、花蓉は自嘲気味に否定した。璙雲が蠱毒の儀について知っているはずがない。もし知っていたのなら、あの時「外に出よう」などという夢物語のような言葉を言うはずがない。そして、もし知っていたら――彼はきっと自分と話すことすらしないだろう。
「外に出よう、か……」
ぽつりと呟いたその言葉は、静まり返った回廊に溶けて消えた。いつの頃か父から同様のことを言われたことがある。砂の海原があると知った花蓉が見てみたいな、と呟くと「いつか旅にでよう」と約束してくれた。璙雲の純粋な瞳と言葉を見るたびに、父との思い出がよみがえり心が軋むように痛む。
花蓉は房室から目を逸らし、静かにその場を立ち去った。その背中を冷たい空気が包み込み、重く沈んだ幽寂宮の空気が再び彼女を飲み込んでいく。




