01 薄れゆく香り
後宮には妃嬪の目を楽しませるためにあちこちに四季折々の花々が植えられている。その種類は実に数え切れない。薔薇に藤、芍薬、睡蓮、木槿、菊——。それらの花々が競い合うように咲き乱れ、どの季節であっても庭園には馥郁たる香りが満ちている。その香りは風に乗り、遠く離れた場所でもかすかに感じられるほどで、訪れる者たちの心を穏やかにしてくれる。
しかし、その豊かな花の香りも幽寂宮へ近づくにつれて、次第に失われていく。代わって青臭い竹の香りが、静かに空気を支配していった。
「……さて、どうすべきか」
小さく呟きながら、璙雲は立ち止まった。視線の先には、竹林の影にひっそりと佇む古びた殿舎がある。
昨夜、玉盈から聞かされた話が頭を離れず、朝議を終えるや否や、気が急いてこの場へと駆けつけていた。だがいざ辿り着いてみれば、何をどう話すべきか、どんな態度で接すればよいのか分からない。手土産として若い娘が好みそうな乾燥果物の蜜漬けを持ってきたが、花蓉という娘が気にいるかも分からない。もう二、三種類持ってくるべきだっただろうかと悩んでいると蝶番が軋む音が聞こえた。
顔を上げると、竹林の先にある重々しい門扉が大きく揺れている。風も止み、誰もいないはずのその門が。
(歓迎されているのか?)
そんな馬鹿げた錯覚を覚えた瞬間、不思議と恐怖は薄らいでいた。上機嫌のまま璙雲は門扉をくぐった。
門を越えた先は、予想を裏切らない。荒れ果てた庭園が広がっている。かつては美しい花々で彩られていたのだろう。だが今では、枯れた雑草が一面を覆い、所々に割れた石畳が散らばっている。璙雲は慎重に足元を見ながら歩みを進め、枯れた庭園に面した回廊へと足を踏み入れた。薄暗い廊下は湿気を帯びており、どこかしら腐臭が漂う。一つひとつ房室を覗きながら、花蓉の姿を探していると「ねえ」と背後から声が投げかけられた。
「ここはあなたが来ていい場所ではない、と私言ったはずよ」
鈴を転がしたような可愛らしい声には微かな怒気が滲んでいる。
璙雲が振り向くと何度も見た鬼面の少女が、じっとこちらを見上げていた。
「花蓉公主で間違いないか」
少女の正体は分かっている。確認のつもりで名を問うと、少女が息を呑む気配がした。
「私のこと、誰から聞いたの?」
「それは、まだ言えない」
「……そう。まあ、いいわ」
少女——花蓉が鏡を構えた。
鏡面が白く輝き出したのを見て、璙雲は駆け出した。細腕を掴み、鏡の面に自分が映らないようにする。
「やはり、君の力は鏡面を向けなければ使えないのか」
「なぜ分かったの」
「あの女の幽鬼の記憶を写した時も、成仏させた時も、俺をここから追い出した時も鏡面を向けていたから一か八かの賭けにでさせてもらった。どうやら正解だったようだな」
腕を掴んだまま、璙雲は続ける。
「別に危害を加えるつもりはないんだ。少し話をしたくて」
「私に話すことはなにもない。帰って。それで放っておいて」
静かな拒絶に、璙雲は苦笑した。
「それは無理な相談だ。俺は君と話をしてみたい。話すまで帰らないし帰らないし、放ってもおかない」
「……あなたには私に命じる権限はないはず。ただの平民風情が偉い口を叩いたものね」
璙雲は瞬きする。
「君には俺が平民に見えるのか?」
王族らしくないとは散々言われてきたが平民と言われたのは初めてだ。面白くて少し笑うと花蓉がむくれたのが分かった。
「違うの?」
「俺は眞王だ」
「……あなたが?」
花蓉は璙雲の姿をしげしげと観察する。足先から頭のてっぺん、装飾品の細部まで。
「見えない」
「えっ、そうだろうか。けっこう威厳がある装いをしていないか?」
璙雲は自らの姿を見下ろした。日月星辰の文様が刺繍された盤領袍に、ゆったりとした袴褶を合わせ、宝石で飾られた帯で締めている。帯には玉佩が吊るされ、歩くたびに軽やかな音を立てて揺れる。公主である花蓉と対話するのに堅苦しすぎず、かといって軽すぎない格好だ。
「格好ではなく、性格や佇まい。……私の父は勇敢で、あなたのような怖がりじゃなかったもの」
父——狂帝か? 璙雲は内心で首を傾げる。
「俺は怖がりではない。もう一度言うが、怖がりではないんだ」
「私を見て叫んで逃げたじゃない」
璙雲は言葉に詰まる。否定したいが事実なので、どう返答すればいいのか分からない。
「……分かった。話すから、この手を離して」
「鏡を向けたりしないか?」
「…………しない」
「おい、その間はなんだ。するつもりだっただろう」
「しないったら」
「また俺を飛ばしたら、嫌ってほど押しかけるからな!」
念には念を押すと花蓉はうんざりだと深いため息を吐きながら、手巾を取り出すと鏡を優しく包み込んだ。
「ほら、これでいいでしょ」




