06人蠱の儀
花蓉公主様についてお話するには、まず前王朝、最後の眞王である狂帝について語らねばなりません。狂帝という悪諮から、彼は暴虐の限りを尽くした悪人だと思われているようですが、若き頃の彼はそのような悪名とは無縁の、むしろ民思いの統治者でした。彼が王位についた当初は、その姿勢と良政から人々から称賛され、期待を集めておりました。広大な領土の隅々にまで目を配り、領土の端にあるような小さな邑に住む人々の声にまで耳を傾けるような心優しい人でした。
けれど、人の心とは不思議なものです。ほんの少しの亀裂でさえ深く広がってしまえば、それを修復しようとしても、元には戻りません。狂帝もまた、その例外ではありませんでした。狂帝には最愛の妻がいました。彼が変貌を遂げたきっかけは、最愛の妻であり良き伴侶でもあった皇后が病で命を落とした時でした。愛する者を失うという痛みに耐えきれず、狂帝は次第に冷静さを失い、やがて巫術という怪しげな術にのめり込んでいくのです。
巫術師を異国からわざわざ呼び寄せ、彼の言葉を盲信した狂帝は、皇后を蘇らせるという目的のために国を蝕む数々の悪政を行うようになります。巫術の儀式に必要な資金を集めるため、国内の人々には重税を課しました。その負担は富裕層に限らず、農村の貧しい人々にも容赦なくのしかかりました。
それだけではありません。狂帝は、自身の血筋を強化し領土を拡大するためという名目で、すでに夫や婚約者がいる娘たちを宮中に集め、無理やり子を産ませ、近隣諸国への侵略を繰り返し、次々とその領土を支配下に置くようになりました。
そのため、狂帝の御代、国内はひどく混乱しました。急激に拡大する領土は統治が追いつかず、税を課すための制度も整備されぬまま、重税に次ぐ重税が行われるという無秩序な状態に陥りました。その結果、多くの民が飢え、病に倒れ、あるいは戦場で命を落としました。記録によれば、あの時代の死者の数は、現代と比べ物にならないほど膨大だったと言われています。
そんな中、ある日、巫術師は「準備が整った」と狂帝に伝えます。巫術師は女の怨念が色濃い冷宮——今でいう幽寂宮に百人の人間と百本の剣を閉じ込めるように言いました。人間とは狂帝の血縁者であり、できれば血を分けた子供や孫が望ましい。剣についても、多くの血を吸ったものでなければならない、と。
「それで子供を産ませて、戦争をしたのか」
ええ。気の遠くなるような長い年月をかけて彼らは準備をしたそうです。ねえ、眞王様。百人の人間を武器と共に閉じ込めると聞いてなにか連想できるものはありませんか?
「……百人、武器。殺し合わせる?」
蠱毒という古より伝わる呪法があります。一つの壺に、百の蟲を入れて、最後の一匹になるまで共喰いさせるそうです。
狂帝と巫術師は、それを人間で行いました。百人の子供と孫を冷宮に閉じ込めて、百本の剣を共に置きました。そして、生き残りをただ一人になるまで殺し合わせたと言われています。
「なんて酷いことを……」
食べるものもなく、冷宮から逃げ出す術も封じられてしまった時、人は極限の状況に追い込まれ、やがて悪鬼へと変わり果ててしまうのです。冷宮で行われた蠱毒、いえ正しくは〝人蟲の儀〟と呼ばれるこの儀式は記録に残る限り、その凄惨さは他に類を見ないものでした。言葉ではとても表しきれない、地獄としか言いようのない光景がそこには広がっていたと言われています。
赤ん坊を守るために叔父を手にかけた女、兄弟同士で殺し合うことを拒み、自ら命を絶った少年、空腹に耐えきれずに腐敗した死体の腑をむさぼり食った男――記録には、そんな生々しいまでの事実が克明に記されているのです。想像を絶する惨状に直面した彼らの行動を責めることなど、できるでしょうか? ……眞王様がご覧になられた秘書省の史料で黒く塗りつぶされたものがいくつかございませんでしたか?
「……あった。だが、何も読めなかった」
それらが黒く塗りつぶされた理由は、あなた様のように冷宮や幽寂宮について調べられた過去の眞王様が、その記録を読んで心を酷く乱し、精神的に耐えられなくなったためだと聞いております。
「余計なことをしたのだな」
そう言わないでくださいませ。なにせ、史料とはできる限り正確な情報を後世に残すためのもの。人蟲の儀の細部——閉じ込められた者の経歴、人蟲の儀でどんな行動をした、何が原因で死亡したかがつぶさに記録されていたのですから。心が弱い人間は読むだけで精神が壊れてしまいます。
さて、人蟲の儀ですが、記録によると、たった一人、生き残った者がいました。それが、花蓉公主様でございます。彼女が最後の一人となり、この儀式はわずか三か月で幕を閉じたと伝えられています。
「待て。塗りつぶされた史料は八つあったぞ。それが三か月の間に起こったというのか?」
ええ、おっしゃる通りでございます。たった三か月の間に、八巻分に相当することがあの場所で起こったということです。
ふふっ、気持ちは分かります。狂帝以外は、皆おぞましく感じるのは仕方ありませんわ。ええ、もちろん。狂帝は花蓉公主様が生き残られたことに深く喜びました。彼はこれで最愛の皇后に会えると信じて疑わなかったからです。
しかし、巫術師の本来の目的は狂帝が信じていたものとはまったく異なるものでした。巫術師は最初から皇后を生き返らせるつもりはなかったのです。鼠を使用した蠱毒、蛇を使用した蠱毒——蠱毒にも色々ありますが、人間で試したという記録はありません。巫術師は好奇心を満たすために狂帝に近づいたのです。
狂帝が事実を知った時には巫術師は姿を消してしまいました。残されたのは国を傾け、非人道的な行為を行い、子ども達を殺した男という事実のみ。
その事実が公になるや否や、民の怒りは頂点に達しました。怒れる民衆は次々と反乱を起こし、やがてその勢いは国中に広がりました。この反乱に隣国までもが加担し、大規模な戦乱となったのです。この戦いは八年もの長きにわたり続いたと言われています。
最終的に反乱軍は狂帝の居城を攻め落とし、その首を討ち取りました。それだけではありません。狂帝の血筋を引く者、そして狂帝に与したすべての者が粛清され、ひとり残らず命を奪われました。そして、最後に残された花蓉公主様を討とうと、反乱軍は冷宮になだれ込んだのです。
しかし、不思議なことが起こりました。冷宮に足を踏み入れた者は、皆、何らかの理由で命を落としたのです。具体的な死因はわかっていません。ただ、冷宮に足を踏み入れ、花蓉公主様に手をかけようとした者は、すべて苦しみながら命を落としたということだけが伝わっています。
そんな時、眞国に新たな王が即位することになりました。始帝——あなた様のご先祖でございます。彼は平民ではありましたが、抜きん出た巫術の才を持つ者でした。冷宮を幽寂宮と名前を変えると花蓉公主様をそこに閉じ込めることにしたのです。幽寂宮はたくさんの人間が亡くなり、血と怨念がより濃い場所。この世とあの世を繋ぐ境——禁域とすることで、眞国を安定させました。
***
一通り話し終えた玉盈は深く息を吐いた。早口で、休みなく話していたため、喉がひどく渇いていることにようやく気づく。緊張からくる口の渇きだろうか、唾を飲み込んで渇きを紛らわせようとしたが、それだけでは追いつかない。唇を舐めて乾きを誤魔化そうとしていた時、不意に視界の端で何かが動いた。
玉盈が顔を上げると、前方から茶器が差し出された。誰が差し出したのかは見なくても分かる。差し出す手の仕草はどこか無骨で、余計な気遣いなど一切感じられない。
けれど、その無言の行動には、相手なりの不器用な優しさが込められているようにも思えた。茶器に指先が触れると、ぬるい温度が手のひらに伝わってくる。どうやら、この茶は話し始める前から用意されていたらしい。
「いただきます」
玉盈は礼を述べると、静かに茶を喉奥へと流し込む。温かさはとうに失われているが、緊張から冷えた身体にはかえって心地よい。喉の渇きを癒しながら、玉盈はふと視線を斜め前に移した。そこで目に入ったのは、腕を組みながら険しい顔つきをしている璙雲だった。彼は眉間に深い皺を刻み、何かを考え込んでいるようだ。
「……あの娘がなにか悪いことをしたのか?」
しばらくして璙雲はぽつりと言葉を漏らす。独り言のようにも、玉盈に向けられたもののようにも聞こえる。
玉盈は目を細め、唇の端をわずかに持ち上げた。
「しておりません。花蓉公主様はなにも」
幽寂宮にまつわる史料は全て眞王しか拝見できないため、武家は代々口伝にてことの内容を伝えられてきた。いずれ後宮にと望まれた玉盈も例外ではない。
ただ、花蓉を幽寂宮に閉じ込めておくことが先祖の罪を償う唯一の方法と考える父や兄、叔父達とは違い、玉盈が花蓉に抱いているのは憐憫だ。
「私、花蓉公主様に自由になってもらいたいのです。何もしていないのに人蠱の儀に選ばれ、何もしていないのに幽寂宮に閉じ込められた娘を救いたいと願うことは罪を重ねることでしょうか?」
璙雲は腕を組んだまま首をかしげる。眉間の皺は消えない。
「罪を重ねるとは?」
「私たち武家は、贖罪のために存在する一族です。武家はかつて狂帝の腹心でした。狂帝が行った蛮行に口を閉ざし、ただ自分たちの安寧を守ることだけを優先しました」
玉盈は言葉を区切り、目を伏せた。保身に走り、国の崩壊を見て見ぬふりをし、最後には責任を放棄して命乞いをした先祖たち。玉盈はその姿を想像するだけで、嫌悪感がこみ上げてくる。その血が自分にも流れていると思うと反吐が出る。
「馬鹿な先祖だと思います。せめて、責任を取る形で潔く命を断ってくれたらよかったのに……。そうしていれば、私は花蓉公主様のことで胸を痛める必要などなかったのですから」
玉盈の声には、苦々しさが滲んでいた。
「……報奨をひとつ、追加してもよろしいでしょうか?」
玉盈はふと顔を上げ、璙雲に目を向けた。
「ああ、可能な限り叶えよう」
「花蓉公主様と……お話をしてみたいのです」
その願いに、璙雲は少し驚いたように目を見開いた。だが、すぐにその表情を引き締め、静かにうなずいた。
「ならば、明日にでも共に会いに行こう」
璙雲の言葉に、玉盈は小さく首を横に振った。
「……いいえ。今はまだ、合わせる顔がありません。私は花蓉公主様を縛る原因のひとつですもの」
そう言って、玉盈は再び目を閉じた。その瞳を閉じた裏側に、見たこともない少女の姿が浮かび上がる。表情はぼんやりとしてよく見えない。ただ、どこか怨念に満ちた雰囲気をまとい、鬼の面をつけたような花蓉の幻影が、玉盈の心の中でじっと彼女を見つめていた。
花蓉の幻影は言葉も発さず、玉盈の罪を責め立てるようだった。




