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鬼鏡秘譚  作者: 荻原もも
武家

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05 武昭儀


「眞王様が今宵、武《ぶ》昭儀《しょうぎ》様とお過ごしになりたいと申し上げられておられます」


 床に膝をついた宦官は仰々しい言葉で眞王の言葉を伝えた。

 榻《ながいす》に腰かけながら玉盈《ぎょくえい》はぼんやりとした面持ちで宦官の姿を眺めつつ、首を傾げた。


「これまたずいぶんと性急ですこと。もう夜も更けているのに」


 格子窓の外を見れば、煌々《こうこう》と照る月が星明かりを隠し、夜空をさらに色濃くしている。通例ならばお渡りの知らせは遅くても昼過ぎには届くはずなのに、と玉盈は微かに眉をひそめた。

 その小さな変化に気づいた宦官は「では」と口を開く。


「体調が優れぬご様子と、お伝えいたしましょうか?」

「いいえ。せっかくの僥倖《ぎょうこう》だもの。無駄にしてはお父さまに叱られちゃうわ」


 微笑を浮かべながら(僥倖ではないけれど)と玉盈は心の中で否定する。妃とは眞王の寵愛を得て、子を成すために存在するもの。それがこの後宮の、ひいては女達の存在意義。

 けれど、玉盈は違う。武家の女として後宮を監視するために送られた。眞王の動向を見極め、幽寂宮を害する者を報告するための駒。それが玉盈の役割だ。

 だが、そのことを知っているのは武家の中枢を担う者のみであり、この宦官も、自分の侍女達も知らないこと。


「準備をしたいわ。少しお待ちになるよう伝えてくださるかしら?」

「畏まりました。そのようにお伝えいたします」


 宦官は深々と頭を下げた。玉盈が拒絶しなかったことに安堵したのだろう。その表情は見るからにほっとした様子だ。足音を立てないよう気をつけながら、宦官は部屋を後にした。

 扉が閉まったのと同時に侍女達の楽しげな声が玉盈の耳に届く。


「まさか眞王様のお渡りがあるだなんて!」

「ちょっと! 話していないで入浴の準備をしなきゃ!」

「衣裳はどうなさるのかしら? 初めてのことだから分からないわ!」


 侍女達は興奮した様子で言葉を交わしながら、玉盈の身支度を整える準備に房室を出ていく。残された者は少しでも眞王に気に入られるためと衣裳箱をひっくり返している。

 その様子を盗み聞いていた玉盈はうんざりしたが言葉にも、表情にも出さない。純粋に主が眞王の目にとまったのだと喜ぶ姿が滑稽《こっけい》に思えた。


(たぶん、眞王の目的は違うわ。第一、私が彼の目にとまると本当に思っているのかしら)


 後宮は皇后を筆頭に四夫人《しふじん》(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)、九嬪《きゅうひん》(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛)、二十七世婦(せいふ)(婕妤、美人、才人)、八十一御妻(ぎょさい)(宝林、御女、采女)に分けられる。

 与えられる妃位《ひんい》は家柄、血筋、容姿を考慮して授けられるのだが、玉盈が四夫人に次ぐ妃位を与えられたのは武家の人間であるがため。

 美人の条件とされる艷やかで豊かな黒髪もふくよかな身体も持ち得ない。顔も良く言えば平凡、悪く言えば特筆すべき美点がなく、記憶に残りにくい顔立ちをしている自分が選ばれるわけがない。

 その証拠に入内してから一度たりともお声がけはもらってはいないのだから。


(なにも考えず生きられるのって羨ましいわ)


 冷めた目で侍女達を眺め続けた。




 ***




 宦官の案内のもと、玉盈が連れてこられたのは真っ赤な鬼灯を思わせる閨《ねや》だった。

 なぜ鬼灯を連想したのか自分でも分からず、玉盈はきょろきょろと周囲を見渡した。壁や柱に至るまで全てが朱で塗りつぶされており、天井には黄金の龍と鳳凰が遊び飛び交う様子が描かれている。細部に目を凝らせば、龍と鳳凰の瞳に埋め込まれた宝玉が蝋燭《ろうそく》の火が揺れるたびに細かな光を放っていた。その煌めきが、空間全体をさらに神秘的に魅せる。

 初めてみる光景に玉盈が見惚れているとなにやら外が騒がしいことに気がつく。


「皇帝陛下が御成りにございます」


 間をおかず、宦官の声が高らかに響き渡る。

 玉盈は急いでその場にひざまづき、床に額を擦りつける。

 やがて、衣擦れの音が聞こえた。音が近づくにつれて漂ってくる香の薫りが強くなり、鼻腔をくすぐる。爽やかでありながらどこか重厚さを感じさせる香りだった。


「顔をあげろ」


 穏やかな低音が玉盈の耳を打つ。促されるまま、玉盈はゆっくりと面を持ち上げる。まず最初に視界に入ったのは眩しいほど鮮やかな黄色の衣——黄袍《こうほう》だ。黄色は眞王にしか着用を許されていない禁色とされている。

 さらに視線を上に移動させた。すっと通った鼻梁《びりょう》に切れ長の瞳、整った容貌だがどこか獣のような野蛮さを持つ男が自分を見下ろしていた。

 緊張から玉盈の背中がじっとりと汗ばむ。


「そなたが武玉盈か? すまなかったな。急に」


 声は穏やかだが、その視線の奥に秘められた鋭さに、玉盈の心臓が飛び跳ねる。不安をすぐに微笑で隠して「はい」と顎を引いた。


「武叡賢(えいけん)が娘、玉盈でございます」

「こちらへ。そのように緊張しなくてもよい」


 笑みを貼り付けたまま玉盈は立ち上がる。楚々(そそ)とした足取りで眞王——璙雲の側まで近づいた。その仕草一つひとつには気品が漂っていたが、それは彼女が育ってきた環境によるものだろう。


「恐れながら申し上げても?」

「ああ、気になることがあればなんでも聞きなさい」


 璙雲の返答が落ち着いたものだったからこそ、玉盈はその次の言葉をためらわずに放った。


「夜伽は建前ですよね? 本題をどうぞ」


 言葉を発した瞬間、室内の空気が僅かに揺れるのを感じた。

 璙雲の目がわずかに見開かれる。普段ならそのような場面では怒りや困惑が浮かぶはずだが、彼はただ言葉を失ったように玉盈を見つめている。


「……なぜ」

「だって、私を召す理由がわかりませんもの。他のお妃様のほうが美しいですし。あと、眞王様、私のことを知りませんよね?」

「……知っている」

「目が泳いでいますよ。いいんです。私が後宮に入ったのは、眞王様の目に留まらないためですもの」


 深くため息を吐いて玉盈は近くの椅子を引き寄せると腰掛ける。今のやりとりで璙雲の目的がおおよそ理解できた。立ったまま長話するのは避けたい。


「さあ、眞王様もお座りください」


 促せば、璙雲は素直に椅子に腰を下ろした。その様子を見て、玉盈は心の中でふと呟く。


(怒りもしないのね)


 眞王らしからぬ男だ。優しい性分なのか、大雑把なのか。玉盈の言動にまったく怒る気配がない。

 ふと先程まで自分の胸に確かにあった緊張と不安が消え去っていることに玉盈は気が付いた。


(もしかしたら、この方なら救ってくださるかもしれない)


 失礼を承知で、椅子に腰を下ろした璙雲の瞳を見つめ返した。美しい黒真珠の瞳は威圧感というよりも、どこか興味を含んだ好奇心が宿っている。


「そなたを騙すことを詫びよう。後で報奨を用意するつもりだ。なんでもいいなさい」

「なんでも? それは、本当になんでもでしょうか」

「王座を渡せや国庫の中身を全て渡せというのは無理だが……」


 璙雲は苦笑しながら答える。その余裕ある物言いに、玉盈は少しだけ目元を緩めた。


「ある人を救って欲しい、というのは?」

「ある人とはそなたの友か?」


 璙雲が問うと玉盈は首を左右に振る。


「いいえ。友でも家族でも、侍女でもございません。会ったこともなければ、話したこともないお方です」


 璙雲は一瞬だけ困惑したように目を細めた。


「会ったこともない相手を救え、というのか?」

「ええ。でも、お会いしたことがないのは私だけです」


 玉盈は意味深な微笑を浮かべた。


「付け加えると、眞王様はそのお方にお会いしたことがございます」

「覚えがない。救って欲しいということは、その者はなにかいざこざに巻き込まれているのだろう? 宦官からの報告は入っていないが」

「覚えているはずです。幽寂宮に住む花蓉《かよう》公主《こうしゅ》様でございます」

「幽寂宮、花蓉……」


 その名前を聞いた瞬間、璙雲の表情が硬直した。

 玉盈はその様子を冷静に観察し、静かに微笑む。


「ほら、覚えがありますでしょう?」

「あの鬼の面をつけた娘か?」


 璙雲の言葉には明らかな警戒が混じっていた。玉盈は何も言わず、笑みだけで答える。


「……そなた達、武家は幽寂宮について話してはいけない〝決まり〟ではないのか? 武宗賢らは決して口を開かなかったが」

「……私はおじ様達とは違います。おじ様達は花蓉公主様のことを人柱としか見ていませんもの」

「人柱?」


 玉盈はまつ毛を伏せる。


「……まず、どこから話すべきなのでしょうか」

「待て。それを話してそなたが罰せられたりしないのか?」

「話すお相手が眞王様ですもの。眞王様以外に話したとなれば、首を刎ねられたでしょうが」

「それならば、いいのだが」


 璙雲は腕を組みながら、深く考え込むように玉盈を見つめた。あれほどまで始帝の命令に従っていた武家の人間が真実を語るか、語ったことで玉盈が処罰されないかと心配しているようだ。

 玉盈は、璙雲のその視線を受け止めながら、ゆるむ口元を袖で隠す。


(どこまでも優しいお方。……この人なら、あの方を救えるかもしれない)


 玉盈は思考を巡らせながら、視線を少しだけ落として唇を開く。考えずとも口から出たのは幼い頃から何度も言い聞かせられてきた武家の罪だ。


「ではまず始まりから——」


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