04 始帝の御代
夕闇が世界を染める中、無人の路を璙雲が歩いていると、静寂を破るように物陰から人影が飛び出してきた。
「やあ! おつかれさまっ!」
突然の声に、璙雲は思わず反射的に地面に尻もちをついてしまう。ばくばくと忙しなく動く心臓を落ち着かせるため、胸に手を当てながら面をあげた。
皓月はにこにこと上機嫌に笑いながら、地面に座り込んだ璙雲を見下ろしている。その表情は、まるで手の込んだ悪戯が成功した子どものようだ。
「あはは! まさかこんなに驚くとは思わなかったよ! 君は本当に怖がりだねぇ」
皓月の声が頭の上から降ってくる。その軽薄な調子に、璙雲の頬がかっと熱くなる。
「お前、わざと気配を消しただろ!」
立ち上がりながら、怒り混じりの声をぶつけると、皓月は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「それでもここが戦場なら聡い君は気付くはずさ。気付かないということは、幽寂宮についての史料でなにか気になることがあったのかい?」
皓月の指摘に、璙雲は反論の言葉を飲み込んだ。確かに、幽寂宮について考え込んでいたせいで、目の前の警戒が疎かになっていたのは否めない。
立ち上がりながら、衣についた砂を払う。その動作の間も、頭の中には幽寂宮で目にした史料の数々が浮かんでいた。
「わからん……」
皓月の問いに短く答えながら、璙雲は悩ましげに目を伏せる。
「八巻から十五巻の史料は全て塗り潰されていた」
「他は?」
皓月が身を乗り出して聞く。
「一から七巻までは罪人の名前や処罰について、あとは冷宮付きの宦官や宮女の名前が記されていた。その頃は幽寂宮ではなく、冷宮と呼ばれていたようだ。十六巻から現在に至るまでは、取り壊そうとする度に出た死者の名前と経緯が記されていた」
「ふうん。その黒く塗りつぶされたっていう八つの史料っていうのが気になるね。読めないものを廃棄せず残しておく理由はなんだろう」
皓月の言葉に、璙雲は一瞬だけ口を閉ざした。頭の中では既にその謎を何度も考えていたが、答えは一向に出てこない。
「ずっと昔の眞王がこれを塗りつぶしたんだと。宗賢という男は口伝で知っているらしいが、あれは駄目だ。どれだけ脅しても口は割らないだろう」
宗賢の頑なな態度を思い返すと、苛立ちを感じると同時に諦めのような感情も浮かんでくる。
「あ、ねえ。ちょっと気になることがあってさ」
皓月が急に声をひそめ、意味ありげに言葉を続けた。
「宗賢と一緒に残った男達の名前って聞いたかい?」
璙雲は首を振る。確かに、あの二人の若者は秘書少監として同席していたが、彼らの名前や素性については何も知らなかった。
「あの空間で喋ったのは宗賢と俺だけだった。あの二人はずっと無言で立ち尽くしていた」
「彼ら、武家の人間だよ」
皓月はさらりと衝撃的な事実を告げる。
「私の記憶が正しければ、宗賢の息子くんと甥っ子くんじゃなかったっけ?」
「待て。二人は秘書少監と言わなかったか?」
璙雲の声には明らかな驚きが混じっていた。眞国では権力の偏りを防ぐため、長官と次官には同じ家門の人間を置かないという掟がある。それを破っている事実が、国の要ともいえる秘書省で起きているとは。
「そうだよ。私も確かにそう聞いてね。おかしいと思って調べてみたら、歴代の秘書監と秘書少監は武家が任されているそうだ」
「なぜ誰も不思議に思わない。秘書省は国の歴史を保管する部署だぞ。歴史を改竄し、あることないこと記録されるかもしれないのに!」
璙雲の声は熱を帯びていた。皓月の言葉を聞くほどに、不可解な点が次々と浮かび上がる。
「さあね。ただ、始帝の御代からそうだったらしいから誰も噂にしなかったんだろう」
「また、始帝か……」
璙雲は低く呟く。幽寂宮の史料を眞王しか見られないようにする規則も、宗賢たち武家が口を閉ざすのも、全て始帝の命令だと言われている。
「君のご先祖だろ。なにか聞いていないのかい?」
皓月が肩をすくめながら言うと、璙雲は短く鼻で笑った。
「千年前の先祖を知るわけないだろ。王位を簒奪し、良政を敷いた男という、皆が知っていることしか俺は知らん」
始帝は、前王朝を滅ぼし国を建てた初代の眞王である。混乱に陥った国を立て直し、善政を敷いたことで知られるが、その生涯には謎が多い。
「武家に聞くしかないのか」
「口は割らないだろうね。武家って名門ではあるけど、表舞台に立つのを嫌がっているようだし。千年前の命令を今も律儀に守る時点で無理でしょ」
皓月の言葉に、璙雲は唇を噛む。
「……いったいどうすればいいんだ」
低い声で呟くと、皓月が少し間を置いて微笑みを浮かべた。
「武家の姫君に聞いてみたらどうだい?」
「へ?」
思わず気の抜けた声を漏らした璙雲に、皓月は得意げに続ける。
「確か先日、君の後宮に入ったはずだよ。武宗賢の姪にあたる子が」
その言葉に、璙雲は驚きと困惑を隠せなかった。




