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「まだやってるとは思わなかったわ」
一心不乱に縁の下を磨いて、掃除に取り組んでいたティアは、はたりと呆けたように顔をあげた。フレリスが立っている。いつも通り、長い髪に沈鬱な表情を沈めていた。ティアは手が痺れるように疲れていることに、初めて気がついた。不思議そうにその手を見下ろして、ティアは口を開く。
「聞いてもいいですか」
「ええ」
見上げたフレリスの顔は、情感が薄く、沈鬱で、何もかもを嫌っているふうですらある。
「あなたはなぜ、村を守っているのですか?」
ティアは立ち上がった。フレリスの背は高い。目を見るには少し見上げなければならなかったが、ちょうど長い髪の間から覗き込む形になった。
「あなたは、人の命をなんとも思っていません。村人のことなんて、どうでもいいと思っているでしょう。なのに、なんで、生け贄を受け続けているのですか? 村を守っているのですか?」
フレリスの表情は動かなかった。彼女は社に背をつけて寄りかかる。
「確かに私は、村人が生きようが死のうが、どうでもいい。ただ魔物が領域に入るのを防ぐだけ。私は最初から、村なんて守っていない」
フレリスは空を見上げて、誰の姿も見ずに、言った。
「私は、私が愛する人と交わした約束を、守っているだけ」
「どんな約束ですか?」
ティアは聞いてから、しまった、と顔を歪めた。立ち入ったことを聞いてしまったと思った。フレリスはティアを見ないまま、皮肉げに笑って、口を震わせる。
「生きて、村を守ってやってくれ。恨まないでやってくれ。そうして、幸せになってくれ。……馬鹿を言うわ。勝手に死んだくせに、置いていったくせに……幸せになんて、無理に、決まってるのに」
ティアは顔を伏せる。フレリスを見るべきではないと感じた。しかし、疑問の言葉を次ぐ。
「いつから、守っているんですか?」
「さあ。五百年は経ったと思うけどね、正直覚えてないわ」
ティアは息を呑んだ。フレリスは自らを切りつけるような、自虐的な声で、表情だけは愉快そうに笑う。
「美しい感傷でやっていられたのは、最初の十年だけよ。飢え死にしそうになって、守れって言われた村人をさらって……あとは、呪わしく流れる年を数えるだけだった」
ズルズルと壁につけた背中を滑らせて、フレリスは座り込む。
「いつからか、どうせ村人がいなくなるなら、って捧げられるようになって……守り神とか呼ばれはじめて……あんたがいるわけ」
フレリスは膝に肘を当てて頬杖をつく。その顔は微笑を浮かべた。
「守り神なんて滑稽ね。私は血生臭く、近寄る魔物を殺して回るしか、できないのに。そんな都合のいい神様がいたら……どんなに、よかったか」
隣で聞くティアは、言葉を失って立ち尽くす。足元で早くも芽を出した雑草の、細い葉を見つめていた。
「それでも、守るんですか?」
フレリスは小さく笑った。事も無げにうなずく。
「ええ。約束だからね」
「私は」
ティアは口を開いていた。自覚すらないまま、思いが言葉になっているかも不確かなまま、ただ喉は意味ある声を紡いだ。
「私なら、そんな約束は取り消しです。やめにします。だって、」
その瞬間にティアは、自分が声を出していることに気づいた。フレリスが怪訝そうな表情をしている。駆け抜けることにした。
「一番大切な人を苦しめるお願いなんて、絶対、押し付けられません。間違って頼んだとしても、なしです、チャラです。そんなのは」
フレリスは立ち上がっていた。ティアを見下ろしている。迫る。手を伸ばす。吹き上げる何かを押さえつけるように、その手を振り下ろす。
「あんたは」
絞り出すように、フレリスはうめいた。
「私のこれまでを否定するわけ?」
「いえ、あの、ただ……私は」
ティアは振り上げられなかったはずの暴力に、苦痛の表情を見せた。
「フレリスさんは、こんな、つらい生き方をずっとずっと続けてきたんです。もう、十分すぎると思います。だって、」
言葉に詰まり、否定するようにかぶりを振って、うめくようにつぶやく。
「無理やり続けて……自分も、村もみんなも、なにより、その大切な人を、恨んでしまったら……それは、すごく……悲しすぎます」
フレリスはうつむく。なにも言わなかった。
日は高く登り、影は短くなっていく。庇の影は、壁に寄りかかる二人の爪先で断ち切られている。雑草を取り払ったときに掘り返された土の匂いが、いつしかずいぶん和らいで、風にまかれて揺れている。
ティアは空を見た。沈黙に困った末での行動だが、それを見つけたために、遡って、まるで呼ばれたかのように、空を見上げたのだったという気がした。
「フレリスさん」
フレリスはティアを見て、視線を追って空を見上げる。澄み渡った空の薄く煙るような雲に、隠れるように小さな影が見えた。フレリスはそれを、鷹か何かだろう、と見破った。だが、ティアはそう思わなかった。
「死んだ人は雲の上に行く、ということは知っていますか」
ティアの言葉の意図をつかみ損ねて、フレリスはティアの横顔を見た。ティアは嬉しそうな晴れがましい笑顔で、視線を返す。
「その人のことを素直な気持ちで思ったとき、姿を見せてくれるんです。フレリスさん。きっと、あなたを心配して、ずっと見ていたんだと思います。だって、なんにも知らない私でさえ、見えたんですから」
「あれは、鷹でしょ。捕まえて見せましょうか?」
フレリスはティアを怪訝そうにうかがう。ティアは慌てて拒否を手振りで示した。
「いけません、そんなこと。彼らに弓引いたら、その人は畜生道に堕ちてしまいます。縁が途切れて、二度と巡り会えなくなってしまうんですよ」
「弓引けば、畜生に堕ちてその死骸が降ってくるわけ? バカみたい」
「いけません」
笑うフレリスに、きっぱりとたしなめる言葉を向ける。ティアは真剣な表情をしていた。
「たとえ信じられなくても、馬鹿馬鹿しく思えても、それを笑ってはいけません」
笑みは引っ込んだ。代わりに、呆れたような視線がティアに向けられる。
「それも、伝承の教え?」
「いえ、その。……弟が、そうしていたんです」
ティアは途端に勢いをなくして、うつむいた。
弟は数えきれないほどの伝承を学び、うちに含む不条理を発見していたが、決してそれを馬鹿にしなかった。己の正しさを誇りつつも、絶対視することを固く戒めている。間近で見てきたティアは、その態度に感銘を受け、同時に弟の指摘に理由もなく反駁する態度に、強い反感を覚えていた。
フレリスは閉じていた口を、小さく開く。
「あなたは、それでいいの? 私がいなくなれば、村を守れなくなるのに」
「本当は……困ります。でも」
ティアは言葉を探すように地面を見て、辺りを見渡した。ティアの手が入っていないところはひとつもなかった。
「私は、村を守るために必要だから、私が生け贄になることに同意しました。でも実際は、フレリスさんを生き長らえさせて、苦しみを引き延ばすための生け贄でしょう。村が守られるのは、そのオマケみたいなものです。私は、オマケのために私の命を投げ出すほど、自分を安く見ていません」
「……不思議なことを言う子ね、ホント」
フレリスは笑った。
「ねぇ。最後、社の中の掃除、一緒にやりましょう?」
「いいですね。やりましょう」
それから二人ははたきで壁や梁の埃を落とし、床の埃を掃き出して、最後にすべてを磨きあげる。手を動かしていると、床が微かに軋む音が聞こえた。
「そういえばこの建物って、汚れのわりに、全然痛んでませんよね」
「まあ、建物自体は保護してあるからね」
さらりと言ってのけるが、ティアにはそれがどういった手段でなされているものか、見当もつかなかった。
「フレリスさん。この建物って、何なんですか? フレリスさんの家じゃありませんよね」
「社は神様を祭る催事場。神様が訪れたときの仮住まいになるのよ。……私の知っている伝承ではね」
「神様、ですか」
ティアは手を止めて、しばらく世話を続けた社を見上げる。
「なんの神様を祭ってらっしゃるのですか?」
「何も。ただ作ってあるだけ」
「そうですか……。なら、守り神がいついらっしゃっても、大丈夫ですね」
フレリスは手を止めた。表情の薄いその目尻に、唐突に涙が浮かぶ。
「ああ、そっか。私、ずっと待ってたんだ」
ギョッとするティアの存在を忘れたかのように、フレリスは正体なく大粒の涙をころころとこぼしていく。動き続ける手は、懸命に社を磨きあげる。
「私を、嫌な嫌な役目から、救ってもらえるときを。あの人が愛した村を、神様に託すときを」
「フレリスさん……」
ティアは、自分と比べ物にならないほど大きい存在であったはずのフレリスを、なによりも儚く感じた。まるで赤ん坊のような頼りなさだ。ティアはフレリスを抱き締めた。
「ずっとずっと、村を守ってくださって、ありがとうございました。村を代表して、お礼と敬愛を捧げます。私たちは、みんな、あなたが大好きです」
「ふ、う、うぅぅ……っ」
フレリスはしゃくりあげながら泣いた。
「ねぇ、ティア。あなたにお願いがあるの」
落ち着いたフレリスは、隣に座り込んでいるティアに声をかけた。ティアは慈しむような笑みで答える。
「なんでしょうか」
「私が死んだら、死体の血を、村を囲うように撒いてほしい。永久に続くわけじゃないけど、魔物避けになるはずよ」
ティアは顔色を失った。
「そんな、ダメです。亡骸はちゃんと弔わないと」
「そんなの、いらないわ。私が死んだら、あとの死体がどうなろうと、もう関係ないもの。それなら、ちゃんと有効活用してもらえたほうが、まだ死に甲斐があるわ」
自分の言葉を裏付けるように、フレリスは穏やかに微笑んでいる。
ティアは泣き出しそうな顔を伏せて、分かりました、とつぶやいた。フレリスは、うんとうなずいた。
そしてフレリスは死んだ。
ティアは弱った体を押してフレリスの死体を背負って村まで帰る。生け贄となったはずのティアが姿を現したとき、村人は驚き戸惑い、弟やレベッカを始めとした半分は喜んだが、残り半数は使命を果たさなかったティアに怒った。しかしティアはその怒りを受け入れた。正当な怒りだったからだ。ティアはまず長老に事の次第を仔細に語り、ついで村人全員に語った。守り神ではなかったという話を信じたものは少なかった。しかしティアは構わないと思っている。大切なのはティアが村人に信用されることではないのだ。ティアは黙ってフレリスの血を村の外縁に撒いた。そして、かつて聖域であった社とその参道が、荒れることのないように、生涯守り続けた。晩年彼女は、大巫女として尊敬されていく。
三百年後、村は滅んだ。




