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ティアの弟は博識だった。村の逸話を学び、長老の甥が持っている書庫を当たり、暇がある限り思索に耽った。それでも分からないことがあるくらい、世界は深くて広い。
死後の世界というのものは、いくら聞いても分からなかった。他の村より遠い場所など、分からないことはいくらもあったが、死後の世界だけは、また別の分からなさなのだ。逸話だけなら、たくさんあった。雲が死者の家なのだという逸話があった。傲慢な金持ちは大きい家に住むが、絶えず雨を降らせて家が削れて、いつか足元に穴が開くかと怯えて暮らしているという。小さな雲は、他人を妬み嫉む、心の狭いものが住むという。薄い雲は動物と子どもが幸せに駆け暮らしているという。罪人が空から投げたされたとき、稲光が光るのだ。ティアは何度も目を凝らしてみたが、ほんの二度ほど、何かの姿を雲間に見つけたことがある。また山の向こうには、死者の住む黄金の国があるという。そこでは苗を植えれば畑となり、ひとりでに育ち、豊かに実らせる。山の中にも死者がいるらしい。地下深くにまで続き、エリカディアンの元に、豊かに歌い暮らしているという。
どれが真か、分からない。死後の世界を弟は、もしかしたら存在しないかもしれない、とすら言っていた。ティアはそんなはずはないと思っている。死者の遺体は野焼きして、灰を川に流すのだ。だから死後の世界がなければ、弾かれものになってしまう。暮らしがつらく、たいへん困ったことになる。
ティアは目を覚まして一番に、抱きつかれているのかと思った。肩に手を乗せられて、頬をすり寄せられている。しかし、首筋を液体が流れる感触を覚えて、違うことを悟った。
「フレリスさん」
フレリスはティアの体から顔を離して身を起こす。その血色はほの白いものの健康的で、食事を欠いているとはとても思えない。
「起きたのね」
「はい」
ティアは起き上がろうとしたが、体が重かった。体の芯の方が寒く、頭がくらくらとしている。
「無理をしないで」
フレリスがティアの肩を押さえた。横になったまま辺りを見る。薄暗く、戸口から土の臭いがする。天井の梁は、そろそろ見慣れたものだ。社の中だった。
「無理をして、勝手に死なれては、困る」
フレリスは怒っているようだった。ティアはフレリスを見上げる。
「あなたが、助けてくれたのですか」
「そうね」
「そうですか」
ティアは目を伏せて、首筋に指を添える。痛みはないが、血で濡れていた。
「あなたは、血を吸うのですね」
「ええ」
「それで、物が食べられなかったのですね。ひとが遣わされていたのも、このためですか」
「私が頼んだわけではないわ」
フレリスは表情に乏しい顔で、ティアを見下ろしている。その口の端が、目の色が、かすかな笑みを匂わせた。
「寄越されたものは、ありがたく使っているけれど」
ティアは体を起こした。フレリスの手を振り払って、立ち上がる。貧血で目がくらんだ。足がふらつき、まっすぐ立てない。影に塗りつぶされた視界で、フレリスがいるとおぼしき方を向いて、声を出す。
「みんな、必死なんです。子を、家族を、たくさんの仲間を守るために。大切な人を守るために」
「それであなたが差し出されるの?」
「私も必死だからです」
フレリスの表情が変わった。意識がもうろうとしているティアは気づかない。
「私も、みんなを、大切な人を守りたい。だから、私は、ここにいるんです。あなたに馬鹿にされたくない。あなたにこそ、馬鹿にしてもらっては困ります!」
「私が、あなたの気持ちを理解することは、ないわ」
フレリスが強い口調で言った。めまいが治まってきた視界のなかで、フレリスは静かに座っている。ティアを哀れむように、それ以上に羨むように、微笑んでいた。
「でも、きっとあなたの望むようになる。これまでのように、これからも変わらない。変えたりしないわ」
ティアは立っているのもつらく、しゃがみこんだ。フレリスは手助けもしない。ただ掃除の進展を見て、ティアに告げた。
「今日は休みなさい。よく食べてよく寝ることね」
彼女が社を出ると、怯えたような動物の鼻息が聞こえた。鹿だった。四肢を折られて転がされている。ティアは膝をついたまま、頭を抱えた。命を軽んじた略取の、片棒を担がされているような気がした。
翌朝になっていた。
鹿は食べていない。四肢を折られたまま、軒先で芋虫のように這いずっている。目から腐れた膿を流していた。
薪として使う太い枝はある。それなりに重く、握りも悪くない。長さもちょうどいい。ティアは鹿から目を逸らした。
なにも口にしないまま眠ったので、芯から痺れるように重い空腹が、ティアの中心にぶら下がっている。祠にはやはり果物が転がっていた。割って、鹿の頭の前に置く。興奮した鹿が、息を荒げて涎まみれの頭を振り回した。ティアは慌てて逃げる。いくらティアでも大型の獣と接したことはない。鹿は腐臭がしていた。
見ていられない。ティアは社の階段に腰を下ろす。惨めな顔で、ティアは果物を口に押し込んだ。瑞々しい繊維の味がした。
あとは社の建家を洗い、屋内を掃除すれば終わりだ。
ティアはすぐに取り掛かった。屋根を払い、庇を拭い、壁を磨く。取りつかれたように、あるいはそれ以外のすべてを取り落としたかのように、ティアは掃除に没頭した。
鹿は果物を食べなかった。
村において、掃除には意味が伝えられている。日々積み重なっていく悪気を清めることだ。不運は高きから降るために、難しいからと天井の梁に埃を溜めるのは悪徳だった。しかし、積み重なる以上に掃除をすると、居着いた運気さえ掃き出してしまうと、また別の悪徳とされた。村の間では、ほどよく掃除好きな女性こそ、良妻と言われている。ティアはしばしば、掃除のしすぎを止められた。
掃除に手加減を求められたが、世の常として、例外が存在する。死別したときや、重い篤い病床に伏したときは、思いっきりきれいに掃除するのがよかった。運気にも相性があり、それは家に在る普段の生命力に依拠する。そのため、その定量が崩れたときは必ず掃除を徹底する必要があるのだ。
ティアも幾度か、そのような掃除を手伝った。かつて生け贄となったお姉さんの家も、そのなかに含まれている。




