十九
時折、鳥の鳴き声が反響する静かな山中。
頭上には、天蓋のように空を覆う若草色の梢。擦れ合う葉の合間から、ガラスに透かしたような透明感のある木漏れ日が降り注いでいる。
近くには小川が流れており、目を瞑ればサラサラと涼し気な水音が聞こえてくる。日光が遮られているため、真夏の昼間でもそれほど暑くない。だが、小川の傍の岩に腰掛けて足を浸せば、ああ、夏だなぁと実感させられる。餌と勘違いした小魚が爪先をつついたりもして、長閑で心地のよい空気が漂う場所だ。
ここは、最近凛音のお気に入りとなりつつある秘密の場所――桜魔山の中腹にある修行場だ。
もっとも、修行場と呼んでいるのは凛音だけ。霊力修行に使っているから、修行場。広場みたいに開けているので使い勝手がよいのだ。何もせず、ただくつろぐためだけに訪れることも多い。
しかし今日の凛音は、いつもと少し雰囲気が違っていた。
白いTシャツに黒のストレッチパンツ。長い髪は後ろで一括りにし、伊達眼鏡は外して離れた岩の上に置いている。
服装は前とそんなに変わらない。
違うのは顔つきだ。
瞳には一切の笑みがなく、数メートル先に置いた的を睨んでいる。頬は緊張に引き攣ってすらいて、体の横に下ろした両手はきつく握りしめられていた。
直立した姿勢のまましばらく経ち――やがて凛音の足元から、ふわり、と風が生まれた。翠色の螺旋を描きつつ、ゆっくりと揺蕩うように立ち昇る。黒い毛先が重力に反して浮き上がり、Tシャツの裾がパタパタと揺れた。
風の術――凛音が元から持っていた力。
――上手く操作できている。
傍で見守る縹が、声に出さずに感嘆した。
だが、まだ終わりではない。ここから更に精密な操作が要求される。
凛音は真剣な表情を崩さず、優しく前へ差し伸べるように右手を掲げた。
くるり、と。
凛音の周囲をゆったりと廻っていた風が、今度は彼女の掌に誘われるようにして方向を変える。
目に見えるほどゆっくりした動きだ。
翠風はそのまま突き進み、小枝を束ねて作った的に――触れた。その瞬間、的はボロボロと崩れ去る。風は触手のように纏わりつこうとするが、それも叶わない。触れた傍から標的が形を失うからだ。
結局、的が全て塵と化すのに数秒とかからなかった。
「成功ダ。やったナ、凛音」
「――うん」
掠れた返事。もっと喜ぶかと思っていた縹は、怪訝そうに凛音を見下ろした。
前方に伸ばしていた腕が、ぱたりと力なく下ろされる。その掌を見つめる顔は感情が篭もっていない。
「どうしタ? 暗い顔だガ。何か不満でもあったカ?」
「不満っていうか……」
感情がないのではない。強張っているのだ。
凛音の瞳に映る手。紛れもなく自分の、普通の手。
だけど、普通なのは見た目だけだ。
今や、凛音という存在は普通とは言えない。
いつの間にか、自分は途轍もない化物に変化してしまったのではないか。
そんな不安が、手の震えに現れているようだった。
「すごく怖いんだ。この力が……」
ぎゅっと、指先を握り込む。
ずっと修行に付き合ってくれた縹にこんな本音を吐露するのは、少し罪悪感のようなものもあった。だが、吐き出さずにはいられない。
怖くて。あまりにも怖すぎて。
「だって、わたしの風に触れたもの全部、壊れて塵になっちゃうんだよ? 岩も、花も、何もかも。人間だって簡単に殺せてしまう。下手すればわたし自身も……。形も残さずに。こんなの強すぎるよ」
問答無用にして理不尽な暴力。凛音が一番忌み嫌うもの。
敵ならまだしも、間違って味方を巻き込んでしまったら――。
そう思うと平静ではいられない。
「わたし、分かってなかったんだ。息吹の力を受け継ぐって、こういうことだ。破壊の力を自分で操って、自分の意志で何かを壊す。この力を扱えるようになれば息吹の声も消えて楽になるって、それしか考えてなかった。実際今はもうほとんど聞こえなくなって、そこは助かったと思ってるけど……。代わりにすごく怖くなった。力を得て本当によかったのか。別の意味で、わたしがわたしじゃなくなるんじゃないか。そう考えたら、後悔……、してるかも」
「凛音……」
縹は咄嗟にかける言葉が見つからず、口を閉ざした。
凛音は中途半端だ。
人間の枠から外れ、かといって完全な鬼にも成れていない。
人から鬼へ成るには、強い感情というエネルギーが要る。だが、彼女にはそれがなかった。彼女は望んで人外へと変化したのではない。息吹や白面鬼が彼女の魂に干渉したことで、無理やり捻じ曲げられたといってよいだろう。
息吹はともかくとして、白面鬼は最初から分かっていたはずだ。
蘇った少女が、人としても鬼としても歪な存在になるであろうことを。
しかし、彼は良くも悪くも他者を顧みない。仲間であれば配慮もするが、当初の凛音は彼にとってただ縄張りに入り込んだだけの余所者に過ぎなかった。駒として使えるようになれば儲けもの、程度にしか考えていなかっただろう。おそらくそれは今も大して変わっていない。"使えるかも"から"使えそうだ"に変化したくらいで。凛音という少女の生き方、考え方に興味を抱いていない。監視や教育を縹たちに丸投げしているのがその証拠だ。もっとも、彼に教育を任せたら大変なことになるだろうから、丸投げは一向に構わないのだが。
ともあれ、今の凛音は、鬼の力を得た普通の人間に近い。争い事とは無縁に育ち、安穏とした女子高生だった頃の気持ちを失っていない。変わってしまった自分を自覚しつつも、心のどこかでは変わりたくないと強く願っている。
だから、戸惑う。
もう人ではないのだという事実を突きつけられて。
その感覚は、鬼として生を受けた縹には理解できないものだ。人間の妻と愛し合い、平穏な暮らしに憧れたこともあったけれど、一たび戦いが起きればすぐさま戦地に飛び込める。スイッチのオンオフを切り替えるように、簡単なことだ。
争いを厭わない。
力を怖れない。
傷つくことも、傷つけることも生きていれば"当たり前"だ。
それが鬼という種族であることを否定しない。
しかしここで黙ってしまえば、今後凛音が本音を吐き出せなくなるかもしれない。縹を困らせるだけだ、と。
そういう機微は縹にも分かっていたから、彼は懸命に言葉を探した。
「力を振るうコトに不安があるコトは理解しタ。だガ、あの夜はどうだっタ? キチンと力を制御し、侑斗を助けただろウ? 今日だってそうダ。上手だっタ」
「それは……ありがとう。でもごめん。理屈じゃないんだと思う。自分で力を使ってて分かるの。際どいバランスの上に立っているのが」
凛音は右手と左手を比べるように並べる。
「風の力と、破壊の力。少しでも加減を間違えたら暴走する。この前も今日も、運がよかっただけ。きっといつかは失敗する。失敗しても怪我をする程度だったらいいよ。でもわたしの場合、少しの失敗でも命取りなんだ。触れれば百パーセント、致死だから」
「むゥ……」
単なる感情だけではない、当人の直感に縹はただ唸り声しか出ない。
凛音の不安は正しいだろう。見ていて分かる。今の凛音は、力を使うことはできても慣れていない。極限まで集中してやっと完璧なバランスを作り上げている状態だ。凛音の集中を少しでも乱すような何かがあれば、簡単に制御を手放してしまうだろう。
黒靄と戦った時は、侑斗を後方からサポートする形だったからこそ成功したのだ。いわば偶然。そんなものに頼りたくないという気持ちも、理解できなくはなかった。
だが一方で、現実を見せなければならないとも思った。
怖くて腰が引けるのは分かる。武芸を学んだ武者でも、初陣では緊張や恐怖からろくに動けなかった実例を見たこともある。そこで戦いから逃げ、農家や漁師にでも転身できるのならすればいい。
しかしできない。
凛音にはできない。
彼女には申し訳ないが、これから先、戦いに巻き込まれることは確実だ。山の守護者である白面鬼がその方針を固めている。桜魔を護る布陣に、既に凛音も組み込まれているのだ――当人には何一つ知らせないまま。縹から伝えてもよいが、今言ったとしても余計に怯えさせるだけだろう。何せ、もう逃げることはできない。
このまま――恐怖や不安を抱えた今のままでは、いつか自分で自分を傷つけるのは確実。つまり、死だ。
それだけはあってはならない。
縹は己の口下手を呪いながら、必死に、教え諭すように言った。
「いいカ、凛音。鬼の力とは、恐ろしいのダ。ダカラこそ人は恐れル。お前が自分の力を怖いと感じるのは、人としての部分が大きな理由だろウ」
それはもう仕方がない。人でもあるから悩んでいる少女に、嫌なら人を捨てろなんて言えない。
「まず、凛音自身が恐怖を克服する必要があル。過度な恐怖は、いずれ自分自身に牙を剥くゾ」
「う。そう、かもだけど。でも――」
「恐れるナと言っているのではなイ。ただ、己の力を正しく知るコト。それはトテモ大事なことダ。自分の力で自分を傷つけてしまう鬼は珍しくなイ。特に子供は、加減というモノを知らないからナ……」
としみじみ述べ、遠い目をする縹。
語尾に残した余韻には、息子への思いが乗っていた。息吹に殺されてからは思い出すのも辛く、家族と過ごした記憶は半ば封印されていた。しかし、息吹がこの世からいなくなったことで気持ちに区切りがついたのか、最近ではその蓋も少しずつ開くようになっている。
「俺の息子も、凛音と同じく半鬼だっタ。角はあったがナ。俺に似て怪力で、小さな体でなんでも持ち上げたがっタ。ある時、村の子供たちに囃されテ、調子に乗ってナ。谷間に転がっていた大岩を持ち上げようとして、自分が下敷きになってしまったコトがあル」
「うわっ! え? 大丈夫だったの!?」
「頑丈だったからナ。幸イ、掠り傷で済んダ」
「うわぁ……」
一回目の「うわっ」は純粋な驚き。二回目の「うわぁ」はドン引きである。いくらなんでも、岩の下敷きになって掠り傷程度とは。それって本当に生き物なのかと、凛音は失礼なことを考えてしまうのだった。
「さすがに、ソレ以降は怪力自慢も自重するようになっタ。痛かったというより、恥ずかしかったようダ。何度モ、重い物を持ち上げる時は注意しろと、日頃から警告していタのだがナ。――アア、そうか。今のお前は、子供のようなモノ。ならば、言葉で理解しろと言うのも困難カ」
「子供であることを否定はしないけど、わたしはもうちょっと分別あるよ!?」
周りに囃されて大岩の下敷きになった息子と一緒に扱われるのは、ちょっと勘弁願いたい。自分はそんなお調子者ではないはずだ。
「話が逸れたナ。俺が言いたイのは、諦めずに向き合えということダ。そうすれバ、いつかお前なりの答えに辿り着けるハズ」
「わたしなりの答え……」
凛音は深く考えるように俯いた。
諦めずに向き合う――簡単に聞こえるけれど、実践するのは難しい。どこまで続くか分からない道のりを、恐怖と相乗りしていけという話だ。積み荷は自分と周囲の命。恐怖を克服するのが先か、積み荷を損なうのが先か。
強い覚悟と責任感。生半可な気持ちでは折れてしまうだろう。
(そう考えると、獅子王君はすごかったんだな)
実の叔父から実権を取り戻し、没落した家を再興させるという目的を持って動いていた侑斗。達成できる当てもないのに、彼は自分の道を信じて疑わなかった。
人によっては、彼のことを無鉄砲や向こう見ずと評価するのかもしれない。もっと上手いやり方があるはずだ、もっと考えて行動すべきだ、と。
だが侑斗は侑斗なりに考え、自分の力で成し遂げようとしている。
そこには彼の辿ってきた道があるような気がした。
凛音に今必要なのは、一歩を踏み出す勇気だろう。
表情を引き締め、顔を上げる。
「――うん。そうだよね。ありがとう、縹さん。わたし頑張ってみるよ」
「うム」
見上げるほどに高い位置にある縹の顔は、よく観察しないと分からない程度に目と口元が和らいでいた。これが彼の笑顔なのだ。造形は厳つくて怖いが、慣れれば不器用さが可愛く思えてくる。凛音には想像もできないくらい辛い道を辿ってきた彼だけど、今は穏やかな顔で過ごせている。それが自分のことのように嬉しかった。
(獅子王君はどうだろう。今、笑えてるかな)
家には味方がいないと言っていた。彼の性格で誰からも好かれないなんてことはないだろうから、こっそり応援してくれる人くらいはいるんじゃないかと凛音は思うが。少なくとも、表立って肩を持ってくれる人はいないようだ。
そんな圧倒的に不利な状況で、たとえ実権を取り返せたとしても彼の進む道は困難を極めるに違いない。彼が心から笑える日が来るのは、一体いつになるのだろうか。
「また会えるかなぁ」
凛音は梢から覗く青空を見上げ、無意識に呟いていた。




