十六
視力を喰らい尽くすような眩い閃光に、凛音と侑斗は思わず腕や手で目を庇う。
ほんの一秒か二秒の、短い時間。
たった数瞬の間に、それは現れた。
警戒した侑斗が反射的に距離を取る。
黒い。
全身真っ黒な、何か。
形は人間、のようにも見える。
「ようにも」と曖昧な表現になった理由は、一つには姿勢だ。猫背と呼ぶには、あまりにも前傾姿勢。両腕は地面につきそうなくらいだらんと垂れ下がり、背中はアーチを描くように丸く曲がっている。人というより、まるで獣だ。
そして二つ目は、全身を覆い尽くす、真っ黒な靄を纏っていることだ。
負の感情を凝縮したような。怨霊が怨嗟を紡いで作った甲冑のような。
とにかく不吉で、知らず知らず体が震える。本能がこの黒い靄を忌避しているのだ。
「何これ……。あやかし?」
「いや」
呆然と呟かれた独り言に、しかし侑斗が低い声で反論する。その声には、正気を保とうとする者特有の揺らぎが含まれていた。
「霊力も邪気も感じない。これは——死んだ人間だ」
「え……?」
一体、何を言っているのか。
すぐに言われたことの意味が分からないのも、無理ないだろう。
死んだ人間。
死んだ、人間。
頭が、理解が、そこから先へ進んでくれない。
凛音はゆっくりと、黒い人型のモノへ目をやった。
——死んだ、人間?
この、不吉と不浄と生理的嫌悪感が混在したようなモノが?
ぶわり、と全身が総毛立つ。
悍ましい。
気味が悪い。
それに、なんて憐れな。
次々に押し寄せる同情と拒絶感。まるで荒れ狂う感情の大海に放り出されたかのようだ。
凛音は我知らず己の腕を掴み、押し寄せる波を打ち消そうとする。
これは、この世にあってはならないものだ。
因果関係は何も分からないものの、それだけはハッキリと断言できる。
どうにかしなければならないと強く感じた凛音は、おそらく同じ気持ちだろう侑斗に目を向けた。
「獅子王君、どうするの?」
「戦うしかない」
「……だよね」
答えに迷いはない。しかし、剣を握りしめる手は僅かに震えている。
――獅子王君にだけ押し付けるなんて。
粟立つ二の腕を擦りながら、凛音は侑斗の震える手を見つめていた。
そんな彼らの動揺を嘲笑うかのように――。
黒い靄に覆われた死人はカクカクと小刻みに震えたかと思えば、突然その場に崩れ落ちた。積み上げた積み木がバラバラに崩れるような、不自然な動き。
次の瞬間。
一瞬にして、その黒い姿が消えた。
侑斗は本能的に剣を構える。
直後だった。
ガキィィン!
長く伸びた真っ黒な爪が、侑斗の眼球の数ミリ先に迫っていた。
もし剣を構えていなければ、爪が脳にまで達して即死だったろう。
肝が冷える、そんな余裕もない生死の狭間。
「くっ……!」
ガチガチと鍔迫り合いの音が鼓膜を叩きつけ、容赦なく神経を逆撫でする。
信じられないほどの怪力だ。邪気も霊力も持たないのに、未熟とはいえ一端の討魔士である侑斗に拮抗している。
侑斗は、自分と互角以上に渡り合うその顔を睨みつけた。
黒い靄は頭部にまで及び、まるで漆黒の仮面を被っているかのようだ。
目も鼻も口もない。何もかも削り取ってしまったような、無貌の面。
その額の一部が盛り上がったかと思うと、突如、禍々しい力を帯びた角が生まれた。
「鬼の角——!?」
目を見開いて驚く。
その一瞬の間が油断となったか。ミシリ、と音を立てて剣が僅かに押し込まれた。
——力が増している。
侑斗は慌てて、しかし落ち着いて全身の霊力をさらに高めていく。
討魔術の基本中の基本、活性だ。
続いて、練り上げる――錬成。高めた霊力で身体能力を強化する。
その成果があり、グググ……と、少しずつ少しずつ黒爪を押し返していく。
「おおおっ!」
立ち昇るような気合と共に剣を押し込めば、刃は炎の軌跡を描いて敵の肩を斬り裂いた。
だが、浅い。
向こうも寸前で後ろに下がったせいだろう。
剣先が黒靄を削いだが、その量はごく僅かだ。
追撃しようとしたその時、敵がまるで虫のような俊敏さで大きく横に跳んだ。
攻撃が空振りに終わって、たたらを踏む侑斗。
そんな彼を嘲笑うかのように、敵は四つん這いになって広い庭を駆け巡る。
右へ、左へ、壁を蹴ったかと思えば地を這うに等しく姿勢を低くし、うろたえる侑斗を翻弄する。
まるで獣だ。死人の、いや人間の身体能力を軽く凌駕した動き。
凛音の目は、そんな敵の動きを正確に捉えていた。
(た、大変だ。このままじゃ獅子王君がやられちゃうよ)
止まって見えるとまでは言わないが、少なくとも侑斗よりは追えているだろう。
侑斗も全く追えていないわけではないのだが、縦横無尽な敵の動きに体が反応できていない。
時折襲いかかる爪撃を防ぐのが精一杯で、反撃する余裕がない。
(それに、あの靄……)
死人に纏わりつく、死の衣のような黒靄。
あれが剣に触れるたび、侑斗の動きが少しだけ鈍っているような気がする。それよりも靄を削り取る方が早いので、本人は大した問題とは感じていないようだが。
だが、彼は気付いているだろうか。
少しずつ――本当に少しずつ。黒い靄が、侑斗の四肢に向かって細く伸びていることに。
死者が生者に恋い焦がれる手のようにも見えて、凛音の胸には不安が積もっていくのだった。
他方――
侑斗が怪しげな黒い人間と戦いはじめたことで、結果的に場外に追いやられることとなった〈手招きする女〉は、凛音同様、庭の隅で力なくへたり込んでいた。
一体何が起きているのか分からないといった様相だ。
助けを求めたのはあやかし自身。だけど、こんなことになるなんてちっとも知らなかった。"あの時"も契約をすれば助けてやると言われただけで、内容を事細かに聞いたりしなかった。というか、真剣に取り合いもしなかったのだ。彼女から見ても、まともな相手とは思えなかったから。
ふと、気付く。
「あの人間は……」
たぶんだが、彼女がこの町に来て初めて殺した人間だ。いつもの問いかけに対して、男は一緒にいた女の名を呼んだにもかかわらず、女は恐慌状態に陥って「私だけは助けて」と叫んだ。だから女は助けてやり、嘘吐きの男は殺したのだ。
――そうか。〈奴〉はあの死体を使ったのか。なら、あたしのことを隠れて見ていたということだな。やっぱり薄気味悪い……とあやかしは顔を顰めたが、状況は彼女にとって悪くない。むしろ最高と言える。
討魔士は嫌いだ。好きと答えるあやかしの方が少ないだろうが。
討魔士は、彼女が以前縄張りにしていた町に結界を張り、彼女を追い出した。正確には、結界に彼女を閉じ込めて殺そうとしたのだ。今侑斗がしていることと同じである。だが、運良く縄張りを離れていたおかげで、ギリギリ逃げ出せた。
だというのに、移り住んだ場所でもまた奴らの仲間が襲ってきて――
今、たった一匹を相手に苦戦している。しかも、そいつは奴らが助けられなかった人間を素材にした化物だ。
なんて愉快、痛快。
おかしすぎて、腹の底から歓喜の笑いが込み上げてくる。
「はは……アハハハ! いいじゃないか。やれ、やっちまえ! 討魔士を殺せー!」
拳を握りしめ、天へ突き上げた。
憂さ晴らしをするようなその声援は、当然凛音にも届いている。
悔しさから歯軋りし、拳を握りしめる。
「好き勝手言い放題……! よく見なよ、有利なのはこっちでしょ。あっちの攻撃、一回も獅子王君に当たってないし」
それは半分くらいは願望だったが、もう半分は事実だった。
最初こそ相手の獣じみた動きに翻弄されていた侑斗だが、次第に慣れてきて、交差するたびに黒靄を剥ぎ取っている。その量も次第に増えていき、靄の中の人肌が一瞬垣間見える程だ。
残念なのは、それが決定打にならないこと。
削っても次から次へと生み出される。中の人自体が黒靄の製造工場であるようなのだ。
対して、侑斗は体力も霊力も消耗している。このまま行けば逆転することくらい、凛音にも分かっていた。
(さっきの壁に穴開けたような大技を使えばいいのに、できない理由があるのかな。……あ、そうか。わたしがいるからだ)
あの技は周囲に大きな影響を与える。タイミングを見計らってでないと、凛音や拐われた人たちを巻き込んでしまいかねない。だから侑斗は使うことを躊躇っているのだ。他にも理由はあるのかもしれないが、自分が障害となっていることに凛音は疑いを持たなかった。
悔しいのは、言いたい放題に言われていることだけではない。
侑斗の邪魔にしかなっていない、自分自身の無力さだ。
(こういう時こそ――今こそ覚醒のチャンスって奴でしょ! 頑張れ、わたし!)
白面鬼は言った。多少力を使ったところで正体がバレることはないと。侑斗のようなお人好しなら、一度信用した凛音を疑うことはないだろう。優しさに付け入るようで気が引ける。けれど、この場は利用させてもらう。
(大丈夫、できる)
ふうぅ、と息を細く吐く。
静かに目を瞑り――寸前、侑斗の剣が敵の腹に食い込み、黒靄に沈むのを見た――もう遠い日のことのようにも思える、桜魔山での修行に思いを馳せる。
浮かぶのは、縹の言葉。
――力む必要はなイぞ。凛音。
――身の内ニ流れる"霊力"ヲ感じ取リ、手足の如く操ル。
あの時の凛音には、霊力を感じるところからできなかった。一番最初で躓いていたのだ。
霊力って何?
体のどこにあるっていうの?
分からなかった。半分、ヒトだから。
だけど、今なら。
侑斗の霊力を視た今なら、自分にもあると断言できる。
(あの鮮烈な赤よりも、甲高く澄んだ……)
闇に塗られた瞼の裏に、幾筋かの糸が浮かび上がる。
ゆったりと波打ちながら、大きく大きく弧を描いて廻り続ける――――翠。
まるで雨が降る前に吹く風のように冷たくて、寂しく、そしてノスタルジック。
これが、"わたし"だ。
そこに、"息吹"を一本編み込む。
松脂に泥を混ぜたような異物感が加わる。
朱に交われば赤くなるというように、全てが悪意に染まってしまいそうな不安が覗く。
油断してると食い尽くされる。
だから一本だけ。
翠の糸束に混じった異物。
たとえ僅かでも、息を呑むほどに強烈だ。
(これで)
凛音はゆっくりと瞼を持ち上げた。
現れた黒い瞳の中に、一番星のような金色の粒子が浮かんでいた。
「――行け」
ふわあ、と。
柔らかな風が、凛音の足元から円を描きながら解き放たれる。
枯れた草が舞い、塵が踊る。
そよ風よりもなお柔らかく。
それは確かな意志を乗せて、ただ一点へと流れてゆく。
最初に、侑斗がそれに気付いた。
害意はないのに危険な気配のする風。
炎の剣を蝕んでいた黒靄が、伸ばされていた手が、風に触れた途端砂塵のごとく消えていく。
それでいて、侑斗自身や彼の持ち物は傷つけない。
さらに風は敵対者に向かって、黒靄ごと抱きしめようと翠の腕を広げた。
敵も抵抗はするが、風はそんなもの児戯だと言わんばかりに包み込み、元凶たる黒靄を掃滅していく。
指先が、腕が、肩が、体が、足が、順々に晴れて人肌があらわになっていき――残すは仮面だけとなった。
だが、そこで凛音は限界を感じる。
初めて己の意志で使った霊力。集中力を保つのは数十秒が限度だったのだ。こめかみがズキズキと痛みはじめ、これ以上は無理だと脳が悲鳴を上げる。
だから――バトンを渡す。
「し……獅子王君、今だっ。早くやっちゃって!」
「! 分かったっ」
凛音の呼び掛けにハッとした侑斗が、目つきも鋭く前を見据える。
そこにいるのは、憐れな死人。
無理やりか望んでか、化物へと変貌してしまったヒトだったもの。
同情はある。
歯痒さもある。
それでも。
禍々しい角を生やした漆黒の仮面目掛けて、侑斗は刃を振り下ろした。
音もなく。赤い閃光が縦に走る。
一拍遅れて、光を埋めるように無数の黒い点が溢れた。
夥しい数の漆黒のホタルだ。
死人の顔から剥がれて、我先にと逃げ出すように宙へ散っていく。
仮面の下から現れたのは、とりたてて特徴のない成人男性の素顔。驚愕と苦しみに満ち、死の間際まで何かを凝視していたような、そんな表情のまま亡くなっていた。
「…………っ」
予想はしていたが、実際目にすると来るものがある。
だが、まだ全ては終わっていない。
侑斗は崩れ落ちる男性の横をすり抜けて、駆けた。
向かうは今回の元凶。
〈手招きする女〉。
助っ人がやられるとは思っていなかったのだろうか、唐突な成り行きが理解できずあたふたしている。風のように迫りくる侑斗を見て逃げようとするが、その判断はあまりにも遅い。
怒り。後悔。悲しみ。憎しみ。敵意。憐れみ。
それらの感情全てを刃に乗せて、侑斗は大上段に切っ先を振り上げた。
「はあああっ!」




