十三
一方、その頃。
凛音の前にも、立ち塞がる障害があった。
だらんと手足を垂らした、覇気のない人間。皺くちゃのスーツの上に艶やかな羽織を被せた、髪の長い女性だ。顔、というか頭は具合が悪そうに俯せており、明らかに正常ではない。
顔が見えないから尚更だ。
尤も、見えていたとしても凛音は正気を疑っただろう。
何故なら女性は、死神が持つような大鎌を両手でぶら下げていたからだ。
(えーっと……。一応、農具、だよね……?)
ゲームや漫画で見るような刃が強調されたものではなく、あくまで草を刈るための器具、だと思う。
自信がないのは、そんな代物を持っている人間が自分の前に立ちはだかっている意味から目を逸らしたいからだろうか。
奇抜な衣装、手には大鎌。おまけに虚空から見覚えのある帯が伸びて、彼女の肢体に絡みついている。
まるで人形遣いが操るマリオネット。
酷く悪趣味だけど。
これで嫌な予感を覚えないという方が無理がある。
とは言っても。
「えっと、その、大丈夫ですか?」
あやかし、ではない。本能に近いところがそう言っている。
だから、心配したのは本当だった。
どう見ても大丈夫そうではないが、以前体験した学校の救命講習では、意識のない人にもとにかく呼びかけるのが大事らしいと教わった。
それを実践しつつ、凛音はさり気なく後ろへ下がった。情けないほど及び腰だ。できれば大丈夫だと言ってほしい。
「ぐ、具合悪そうですよー。ご飯食べてますかー? 救急車呼びましょうかー?」
実際、今すぐにでも呼ぶべきだろう。呼べるものなら。
最速でもあやかし退治が終わってからになるけれど……。
と、そこまで考えて、「待てよ?」と凛音は眉を顰めた。
(これって獅子王君、あやかし退治しても帰れないやつじゃ?)
あやかしの棲家に、あやかしではない人間がいる。明らかに操られた様子で、意識もない。
どう考えても警察案件。
そうでなくとも、討魔士としての手柄にしたいならそれを立証しなければならない。何かの手続きとか事情聴取とか……。よく知らないけど、面倒くさそうなことになる気がする。
退治すると決めた時点で、明日の――もう既に今日だが――朝に帰るなんて、土台無理な話だったのだ。
やったもん勝ちとは言ったものの。
凛音は事後処理のことまで考えていない。
考えるわけがない。
(……ま、いっか)
心配してもどうにもならない。
今は目の前のことを片付ける方が大事だ。
その時、タイミングよく、女が動き出した。
手にした大鎌の刃先を地面すれすれに構え、文字通り空中を滑って飛んでくる――爪先すら地面に付いていない。
「速っ!」
予備動作というものが一切ない。そのため、動画がコマ落ちしたような違和感があった。
幸い、体は考えるよりも先に動いてくれた。
足元を薙ぎ払うような大振りの初撃。
それを凛音は後方へ飛んで躱す。
さらに、逆方向から返すように追撃。
慣性を巧みに利用し、女性は一瞬で持ち手を変える。
くるんと弧を描く刃先は、後ろへ流れ。
槍でいう石突の部分で、何度も突きを放ってくる。
その全てを、凛音は余裕をもって回避した。
半端者とはいえ、動体視力も反射神経も常人を遥かに超えている。その能力を以てすれば、大して鋭くもない連続突きを躱すことなど容易い。
それどころか、相手の観察や考察をする余裕すらあった。
(わたしのとこにも一人来たってことは、獅子王君のとこには三、四人行ってそう。〈手招きする女〉が罠張ってたってことかな。怪しいのは、この人の体に絡みついてる帯だけど……)
マリオネットをイメージしたせいか、視線が虚空から垂れる兵児帯にちらちらと向けられる。
〈手招きする女〉が着物の帯を触手のように操るあやかしだということを考えれば、あの帯こそが奴の一部だろう。
(ということはだよ? あの帯の向こうに本体がいるんじゃないの?)
きっとそうだ。それしかない。
「試しに引っ張ってみたら分かりそう」
凛音は筍掘りや芋掘りを思い浮かべながら、独り言ちた。
もし侑斗が聞いていたら、正気を問うような顔をしたに違いない。
しかし今は幸いというか、誰の目もない。怪力を発揮したところで見咎められる恐れはないのだ。
操っているあやかしの力量だろうか。女性の動きは単純で読みやすい。人外の身体能力がなくても、格闘術の心得がある人なら簡単に見切れるだろう。
何度か攻撃を見極めたあと、凛音は突きに合わせて斜め前方に跳んだ。
ヒュッ、と、風を斬り、大鎌が肩先をギリギリ掠めず通り過ぎていく。
後退ではなく、前に避けたのはこれが初めてだ。
女性を操っているあやかしの動揺が、如実に動きに表れた。
今だ。
女性の肩から伸びる帯を掴む。しかも両手でがっと、力強く行った。
「よしっ、掴めた!」
思わず歓喜の声が出る。
『え? ちょっ、ちょい待っ……』
どこからか女の焦りが聞こえるが、凛音は気付いた風もなく――。
「おりゃー!」
どこか気の抜けた掛け声と共に、大量の魚がかかった網を引き上げる漁師のような面持ちで思いっきり帯を引っ張った!
「うぎゃあああっ!?」
虚空から、布の塊――否、毬藻のように大量の帯を纏わりつかせた女がずるりと出てきた。目線を隠すような帯の隙間から、驚愕と恐怖を貼り付けた顔が一瞬見える。
だがそれもすぐに見えなくなった。
何故なら、顔面から地面に激突したので。
勢いよく地面とキスしたあやかしは、ずべべべっ! とかき氷を吐き出す機械のような音を立てて庭の奥へと滑ったのち、ややあって停止した。
そんなあやかしを目にした凛音の顔に浮かぶのは、達成感に満ちた晴れやかな笑顔だ。
「やった、上手く行った!」
思った通りの大成果だ。
単純な仕掛けでよかった。裏を疑って躊躇っていたら、いつまでも回避ゲームを繰り返すことになっていたかもしれない。まあ、裏がある可能性なんて微塵も考えてなかったが。
あやかしは支えを求めるように伸ばした右手をピクピクと痙攣させている。さすがにこの程度では死なないらしい。だが、こうなっては人間を操ることもできないらしく、大鎌を持った女性はその場に倒れてぴくりともしなくなった。
「生きてる、よね……?」
おそらくはあやかしに拐われたのであろう行方不明者の一人。こんな形で見つかるとは予想外だったが、無事であるならそれに越したことはない。
凛音が不安そうに倒れた女性を窺っていると、〈手招きする女〉ががばっと体を起こした。
「あんた、何するのさ! 力任せに引っ張るなんて酷いじゃないか! 乱暴なオンナは嫌われるよ!」
「別にあなたに嫌われたって、どうってことない」
凛音は軽蔑の眼差しで女を見やった。
息吹は存在自体が邪悪だったが、それに比べれば目の前にいるのは小悪党だ。犠牲者を出している時点で、憐れみをかける余地は全くない。邪悪だろうが小悪党だろうが、どちらも唾棄すべき人類の敵だ。好悪を論ずることすら不条理だと思っていた。
「それより、人質の扱いどうなってるの? この人、こんなに窶れちゃってるじゃない。可哀想に。まさかとは思うけど、ご飯も出してあげなかったの? 良心ってものはないの?」
「はんっ。次から次へと、聞きたがりだね。なんであたしが人間の世話なんかしなくちゃならないんだい。最低限死なないよう邪気に包んで、そこら辺に転がしておいたさ」
「邪気にって……そんなことして大丈夫なの!?」
「さあねぇ。運が良けりゃ助かるんじゃないかい?」
無責任に言って、ケケケと不愉快な声で笑う。凛音の愕然とした顔を見て、嗤っていた。
「なんでそんなことを」
「いざって時の捨て駒だよ。使わないなら使わないに越したことはなかったが、討魔士が攻めてきやがったからね、札を切ったってわけさ。せっかく用意したんだから使ってやらなくっちゃね。それがあたしなりの"良心"ってヤツさ」
「お前……」
怒りで声が続かなかった。
あやかし相手に人間の常識や倫理が通用すると思ってはいけない。息吹の時に理解はしていたが、それでも腹は立つものだ。
凛音はキッと眦を上げ、女を睨めつけた。
息吹が残した破壊の力、邪眼。それが今発動したなら、弱小のあやかしなど木っ端微塵にできるだろうに。
だが、未だ瞳は閉ざされたまま。
何が足りないのか。あるいは間違っているのか。
邪眼はあくまで息吹の異能で、凛音には資格がないとでもいうのか。
悔しくて歯軋りをする。
そんな無力さを見透かしたように、あやかしはさらに嘲笑を浮かべた。
「見たところ、あのデカいのはいないみたいだね。討魔士の坊主も中であたしの人形たちと踊ってる。小娘一人であたしを止められるのかねぇ?」
その言葉で、却って冷静になる。
そうだ。自分が無力なのは元からのこと。それを何とかするのが凛音の課題だ。悔しがっている場合じゃない。
冷静になった頭で考える。
敷地の周りには結界が張ってある。どの程度もつのか知らないが、侑斗は自信があるようだった。自信というより、製作者への信頼といった方が合っているかもしれない。
ともあれ、逃げられる恐れはないと考えていいだろう。
(あとは、あっちの攻撃にわたしが捕まらなければいいだけ……)
自信は、ある。
鬼の身体能力の高さは、この数分で体感できた。
当たらなければ、どうとでもなろう。
侑斗が合流するまでの時間稼ぎなり。
一発逆転、土壇場での必殺技習得なり。
「そっちこそ、悪足掻きは止めた方がいいよ。苦しむ時間が長引くだけだから」
ぴ、と人差し指を突きつけて言う。
手札もなく大見得を切るのは、ボールを持たずにマウンドに立つようなものだと分かっている。
向こうもそれを理解しているから、余裕がある。
「は、相変わらず生意気な女だ。いいさ。なんでかあの討魔士と仲がいいみたいだし、人質としての価値は十分だろうさ!」
言い終えると同時に、ぶわり、とあやかしの背後で帯がうねった。
まるで何匹もの蛇が一斉に頭をもたげたかのようだ。
身構える凛音の脳裏に、最初の邂逅が蘇る。
縹が庇ってくれた、背後からの攻撃――束ねた帯による、高速の刺突。
あの時は視線を逸らしていたから分からなかったが、今度は絶対に逸らさない。
(さあ来い!)
――だが、その時。
本能が大きく警鐘を鳴らした。
考える前に、後ろへ飛び退る。自分でも大仰だと思える程だった。
しかして、その直後。
視界が赤に染まった。
恐竜が大木に体当りしたような轟音と振動が、足元、いや空間を激しく揺らす。
一瞬、錯覚かと思った。
しかし、そうではなかった。
「なんだい!?」
あやかしの驚く声が聞こえるが、凛音はもうそれどころではない。
爆風がここまで届いていた。
咄嗟に両腕で頭を庇ったものの、火で炙ったような熱風が、凛音の長い髪をバサバサと勢いよく煽る。目を瞑る寸前、獣の顎のようなものが見えたのは気の所為だっただろうか。
目を瞑った彼女の間近を、バラバラになった壁材や雨戸の残骸が掠めながら飛んでいく。
混乱する頭が悲鳴をあげていた。
熱と風が襲ったのは、それほど長い時間ではなかった。
しかし、それらの暴力が収まっても、しばらく目を開けられなかった。
結界が振動するガラスのようにバリバリと震えている。
吹き荒れた霊力に反応しているのだ。
もし結界がなかったら、今頃この家だけでなく周辺にまで被害が出ていたかもしれない。
凛音は、さく、と地面を踏む足音でようやく目を開いた。
「あ……!?」
声をあげかけたものの、見えたものが衝撃的で言葉にならない。
立ち上る噴煙。
その向こうに薄っすらと見える影は、もはや人が住める家ではなかった。
庭に面した家の壁がごっそりと消えて、内部が丸見えになっている。それだけでなく、被害は屋根や柱の一部にまで及んでいる。中からも綺麗な夜空が見えることだろう。
半壊といってよい有様だった。
しかし、凛音が驚いたのはそれだけが理由ではなかった。
平然とした顔で庭の土を踏む少年の姿。
まるで最初からそこに立っていたかのような顔だが――そんなわけがない。今しがた開いた大穴から降りてきたのだ。もっと言えば、その大穴を開けたのは侑斗に違いなかった。
(ご、豪快すぎる……)
一体中で何があったんだろう、と想像して息を呑む。同時に、今のところ敵じゃなくてよかった――と心底胸を撫で下ろした。
そんな凛音に、侑斗はちらっとだけ視線を寄越す。
しかし、すぐにあやかしの方へと移された。
(ちょっと苛立ってる……? もしかして、わたしがここにいるから……?)
コメントなしというのが、一層不安を掻き立てる。けれど侑斗の気迫に呑み込まれて、凛音は何も言えなかった。
徐に侑斗が右手を前へ掲げる。
かと思えば、眩い光と共に、剣がそこに現れた。
目を丸くする凛音。
一方で、爆風の中無事だったあやかしは、ジリジリと警戒するように縮こまっている。
そのあやかしへ、侑斗は光の切っ先を向けた。
「やっと追い詰めた。もう逃さないぞ、怪異」




