十二
敷居を跨いだ瞬間、全く別の空間にめり込んだかのような違和感が侑斗を襲った。ゴムのような風船のような、弾力のある膜を体がすり抜けたかと錯覚した。
邪気が一段と濃くなったのが原因だ。人によっては、体が重くなったと感じることもある。邪気を纏う怪異の根城ではよくあることだ。
侑斗は改めて暗視の術をかけ、周囲をよく観察した。
見た目は普通の玄関だ。住人がいなくなって数年以内といったところだろうか。手入れに戻っている様子はなく、埃だらけだし黴臭いが、掃除をすればまだ住めそうだ。
かつての住人は調度品を持たずに引っ越したのか、あるいは引っ越す暇もなく空き家となってしまったのか、調度品はそのままになっていた。
真鍮の傘立て、下駄箱に残った大人物の靴や草履、空っぽの一輪挿し、信楽焼の狸の置物。
生活感を置き去りにしたまま、時だけが過ぎている。
(捻じれは起きていないようだな)
強力な怪異になると、縄張り内に限ってかなり好き勝手できるモノがいる。別の空間同士を繋げたり、時間を弄ったり、あるいは現し世とは全く異なる理を敷いたり。
そういった異次元の事象を"捻じれ"と呼んでいる。
今回の怪異は被害こそ大きいが、それは対処が遅れたせいだ。怪異自体の強さは、並かそれ以下。ランクでいえばDだろう。
ただし、低ランクだからといって油断はできない。相性が悪いと、場合によっては全く歯が立たないこともあるのだ。
("音無の麒麟児"なら、相性なんか物ともしないんだろうけどな……)
上がり框のところでちょっと迷った末に、靴のまま板間に足を乗せた。たとえ無人の家だろうが、土足で上がるのは抵抗がある。しかし、敵地に裸足で踏み込むのはもっとハードルが高い。
侑斗は別の場所で暮らしているのだろう家主に心の中で謝罪しつつ、注意深く奥の暗がりに視線を飛ばした。
玄関を上がると、正面は壁で色褪せた洋画が飾られている。
左に目を向ければ長い廊下が足元から続いており、その右手には閉め切った障子がずらりと並んでいる。障子の反対側はぴっちりと雨戸が嵌められていて、月明かりが漏れ入る隙間もない。縁側から日差しが降り注ぐ平和な光景が目に浮かぶようだ。が、人が離れてしまった今、光が屋内を照らすことはない。
視線を少し戻して、顔を横に向ける。
L字型になった廊下の、底辺部分。そちらにも廊下は伸びている。突き当りには一枚の開き戸。トイレだろうか。左手は先程見た障子の部屋、右手にはドアが二つ並んでいた。
どの出入り口もまるで来客を拒むかのように閉じているせいか、酷く窮屈な印象だった。
二階はない。地下は分からないが、おそらく存在しないだろう。
(敵も俺が侵入したことは気付いているはず。どこかで奇襲をかけてくるに違いない)
相性が悪いと、とは言ったが、侑斗から逃げる姿を見るに手に負えないということはないだろう。そのうえでここに逃げ込んだなら、何か考えがあるはずだ。
いい度胸だ。
罠だとしても、飛び込んでやろうじゃないか。
(大丈夫だ、できる)
自分に言い聞かせて、左手の廊下へと進む。理由は単純。そちらの方が広いからだ。罠があれば回避しやすいし、広い方が――壊れるものがない方が――戦いやすい。
一歩踏み出すごとに、ギシ、ギシと、腐りかけた床板が沈んだ。
これは見た目より脆いかもな――心の中で危ぶみながらも歩は止めない。
ギシ、ギシ、ギシ
敵はどこだ。
ギシ、ギシ、ギシ
いつ来るか。まだ来ないか。
ギシ、と、ゆっくり足が沈む。
その音を掻き消すように――
ごおおぉぉぉん……ごおおぉぉぉん…………
家中の壁や天井を殴りつけるような鐘の音が、けたたましく鳴り響く。
不意を突かれた侑斗は思わず立ち止まり、ハッと息を呑んだ。
「……ッ!」
瞬時に生まれた気配が三つ。
前、後ろ、そして――横!
侑斗の行く手を塞ぐようにして、吹き飛んだ障子が雨戸に激突する。
現れたのは怪異――ではなく。
「人間!?」
派手な柄の羽織を纏ったスーツの男性が、止まれなかったのか雨戸に片足を掛けて立っている。
こちらに向けた顔は、異様としかいいようのないものだった。
頬は痩け、肌は青白く、眠るように瞼を閉じている。
まるで死人だ。
そしてだらりと下げた手には、錆びた包丁を持っていた。
ゆらり、と頭が動いた。かと思えば、常人とは思えない動きで侑斗に迫る。
侑斗は回避しようとしたが、背後からも同じように近付く物音がした。
「くっ」
襲撃者の真似をして、というわけではないが、障子を蹴破ってその向こうの八畳間へと転がり込む。
そこにも敵が待ち構えていないかと警戒したが、幸いなことに無人の部屋だった。
だが、すぐに別の人間が隣の八畳間を通って追いかけてくる。
今度は女性。持っているのは金槌だ。
あっという間に距離を詰められ、目の前に錆びた金属が迫る。
だが侑斗は逃げようとせず、固めた左拳を鉄の打面に合わせた。
ガィン!
まるで金属同士がぶつかったかのような音が響き、金槌が弾かれる――この時よく観察する余裕があれば、金槌の頭が僅かに熔けているのが見て取れただろう。
女性は一瞬だけ体勢を崩しかけたが、これまたとは思えない動きで持ち直し、再び金槌を振りかぶる。ぶんぶんと滅茶苦茶に振り回されるそれを器用に避けながら、侑斗は相手を観察した。
「? なんだ、あれ」
攻撃が空振った隙を突き、その腕を捻りあげながら足を引っ掛けて畳に押し倒す。逃げないよう背中に体重を掛けながら、女性の体に纏わりついているものを見た。
「羽織……と着物の帯?」
首や腕に長い布――兵児帯がぐるぐると巻き付いているのだ。それだけではなく、帯はまるで電源コードのように伸び、どこかへと繋がっているようだった。しかも薄っすらと邪気が感じられる。
羽織は先程の男性も着ていた。いや、着せられていたのか。
「これで人間たちを操っているのか?」
襲撃者たちは明らかに意識がない。怪異に何かされたと考えるのが妥当だ。
それによく見れば、彼らの顔には見覚えがある。
行方不明になった五人の内の三人。
事前調査している時に資料で見た顔だった。
(生きていたのか。よかった……)
だが安心するのはまだ早い。分かっているのは命があるという一点だけで、危険な状況に置かれていることに変わりはないのだ。この濃密な邪気の中にいて、無事で済むとも思えない。すぐにでも敵の手中から引き離さなければ。
「大丈夫ですか? 俺の声が聞こえますか? 聞こえるなら返事をしてください!」
無駄だろう。そう思いつつも、力強く声を掛ける。
その一方で、近付いてこようとする他の二人を、炎の壁を一瞬だけ張り牽制する。傷つけるつもりはない――ことは、これで敵も理解しただろう。二度と同じ手は使えない。
「なら、無理矢理にでも」
左手一本で女性を押さえつけたまま、侑斗は右手で何かを掴むような動作をした。
するとその手の中で真っ赤な炎が噴き上がり、みるみる内に剣の形を成す。
それをくるりと回して逆手に持つと、女性を縛る数本の帯をまとめて斬り裂いた。
しかし。
「やっぱり駄目か」
新たな帯が伸びてきて、再びシュルシュルと女性に巻き付く。それも何度か斬ってみたが、同じことだった。
――ケケケケケケケッ!
侑斗を馬鹿にする笑い声が頭上から降り注ぐ。
声は配管を通しているかのように複雑に反響し、敵の位置は分からない。
癪に触るが、それを表に出すようなことはしない。敵がますます喜ぶのは明らかだからだ。
「……見てろよ。人間の意地を見せてやる」
討魔士は静かに闘志を燃やす。




