八
すらりと立つ、華奢な姿は柳のよう。
真っ白な髪、真っ白な着流し。下駄の赤い鼻緒が彼岸花のように鮮やかだ。
出会った時と変わらず貌のない面を被っており、表情はおろか素顔すら隠している。
額から伸びる二本の角は優美な曲線を描き、銀色の光を弾いていた。
白面鬼。
桜魔山に巣食う鬼であり、凛音にとっては恩がある。ただ、滅多に姿を現さず遠い存在。
「ななな……っ」
凛音はあんぐりと口を開け、震える人差し指を白面鬼に向けた。
「なんでここにいるんですか! 人里ですよ!」
「俺をなんだと思っているんだ? 人里に下りることくらいある。それどころか、壱美のことならお前より詳しいぞ」
瑠璃姫も人間に混じって情報収集していると言っていたし、白面鬼がそうであってもおかしくはない。
考えてみれば分かるのだが。
けれど、山でなく人間の町で再会することになるなんて誰が思っていたか。
「それより、大声など出してよいのか? 奴に聞こえるぞ」
その言葉にハッとして、公園の入口に目を向ける。
フェンスと茂みの向こう、携帯電話を耳に当てて話し込む侑斗の姿を確認して、凛音は胸を撫で下ろした。
大丈夫だ、気付いていない。
――気付いていない?
この状況のおかしさに眉をひそめる。
数メートルしか離れてない距離に鬼がいるのに、全然気付かないとは。なんとなく討魔士というものは、気配だとか殺気だとか、とにかく第六感であやかしの居所を掴むものだと思っていた。縹が似たようなことをするからだ。凛音が山に来ると必ず向こうから顔を出すし、猪や蛇を見つけると近づく前に遠ざける。勿論後者は、ひ弱な凛音のために世話を焼いているのだ。
やはり鬼と人は違うということだろうか。
それとも、侑斗が特別鈍かったりする?
呆れて黙る凛音が可笑しかったのか、白面鬼は小さく肩を震わせて笑った。
「俺が奴の何十倍生きていると思う? あのような子猫に悟られるヘマはせんよ」
「子猫て」
"獅子"王だから子猫なのは分かるけど。敵である鬼に未熟者扱いされたと知った時の侑斗を想像し――ちょっと見てみたいかもと真顔で唸る。
(白面鬼さんに猫じゃらしで弄ばれる獅子王君……ひどい絵面だな)
背筋が粟立つような妄想を消して、凛音は目の前の白面鬼に警戒の眼差しを向けた。
「……それで、何か御用ですか? 早くしないと、あの人戻ってきちゃうと思いますけど」
用があるなら早く言えと。
少しだけ前屈みに構えて言う。
怖いのだ。
凛音からしても得体の知れない白面鬼が。
怖いのは知らないからだとよく言うが、それとは少し違う。
知らないけれど、分かってしまったのだ。
この男は強い。
たとえ息吹が百人で襲いかかったとしても、この男なら最後まで平然と立っている。それどころか、きっと、大した脅威とも思わない。
縹や瑠璃姫すらも子供に思えるような、長い時を生きていると聞く。
得体の知れなさはそのせいだろう。
長く生きるということは、秘密も多いということだから。
知らず知らず、唾を飲み込む。
白面鬼は凛音の緊張にとんと無関心といった風情で、無情な命令を下すのだった。
「凛、お前、奴に協力しろ」
「へ」
頭の中が真っ白になる。
ぽかんと、目と口をまん丸に開く。
きょう、りょく?
協力?
数秒間の硬直ののち。
ザーッと血の気が引く音が、自分の内側から聞こえた。
「や、奴って、獅子王君ですか?」
「他に誰がいる」
「え、えー」
嫌だ、すごく嫌だ。
この人(人じゃないが)、凛音が戦う力のない未熟者だってことを忘れていないだろうか。
万が一侑斗に正体がバレたら、あっという間に殺されてしまう。そういう自信だけは無駄にある。そのことを分かっていないのだろうか。
もしくは、凛音の命などどうでもいいと考えているのか。
「案ずるな。奴はお前には手出しせん」
心の中を読んだみたいに、凛音の不安をぶった切る白面鬼。
だが、凛音も簡単には信用しない。
「何を根拠に! あの人、何もないところから火を出すんですよ! 空でも飛べなきゃ逃げ切れません!」
「根拠か。今のお前はただの人間にしか見えんからだ。ほら、角がないだろうよ。邪眼を使えば怪しまれるだろうが、人間の中にも異能をもつ者はいる。怪しい力を使ったくらいで、お前が鬼だと断定することはできんさ。人間というのは、大義のない同族殺しに忌避感を持つものだからな」
「あっ」
思わず額に手を当てて確認した。
そう。白面鬼の言う通り、凛音には鬼最大の特徴とも言える角が生えていないのだ。
鬼の姿は千差万別だ。角以外は人間と全く変わらない容姿の者もいれば、下半身が蛇になっている者や手足が獣の者もいる。
彼らに共通するのが、角。大体一本か二本、多い者になるとそれ以上。鬼ならば、必ず角を有しているものだ。
この特徴は、恨みや怒りなどによって後天的に鬼となった者にも適用される。
角のない鬼は、おそらく世界で凛音一人だけだろう。それくらい特殊なのだ。
「見た目はただの人間で、かつ小鼠のように非力。どの討魔士が見ても、今のお前を鬼だとは思わんだろうよ」
「…………」
そうなのかな?
そうなんだろうな。
全く信用する気のなかった凛音だが、白面鬼の言葉を聞く内に「大丈夫かもしれない」と思えてきた。扱き下ろされているのはちょっと引っ掛かるが……。
しかし。
「でも、わたしに討魔士の協力なんか無理だと思います。ええもう、小鼠のように非力ですから」
やっぱり結論は同じだ。
侑斗がいなければ縹に守ってもらいながら霊力の修行もできただろうが、侑斗と協力となると前提条件がまるっと変わる。縹の力を期待できないのだ。
「別に共闘しろとは言っていない。したければしてもいいが、しなくとも奴が勝手に倒すだろう。お前は何かと理由をつけてそこに居り、奴を監視するだけでいいんだ」
「監視? ……そもそも、あの人の何が気になってるんですか? 白面鬼さんが気にするような実力者なんですか? というか、監視ならご自分ですればいいじゃないですか。バレずに近くまで寄れるんでしょ」
「嫌なら断って構わないぞ。まあその場合、助けた命は返してもらうがな」
「ひっ!」
悲鳴を上げ、ベンチに座ったまま仰け反った。
面の奥からの視線を感じる。
この男、本気だ。本気で自分を殺す気だ。役立たずはいらないということだろう。なんて冷たい男だ。
しかし、凛音はこの男に命を助けられた。息吹と一緒に死ぬはずだった運命から掬い上げてくれたのは、紛れもなくこの男なのだ。
生殺与奪を握られている。
――言うことを聞くしかないのか……。
嫌だが、ものすごく嫌だが。
「わかりましたよ……。やります。やってみます……」
苦悶の表情で声を絞り出す凛音に対し、白面鬼は鷹揚に頷いた。
「それでよい。まあ、万が一鬼だと知られた場合は、あの坊やを殺せばよいだけだ。あまり気負うことないぞ」
「気負う、気負う……!」
もう、命に対する価値観が違いすぎる!
みんな縹みたいな鬼さんだったらいいのに!
満足そうな雰囲気を醸し出す白面鬼に真っ向からそんなこと言えず、凛音は心の中で絶叫した。
だが、白面鬼は鬼らしい考え方をしているだけだ。
鬼とは古来人類の天敵である。
歴史上、鬼と人との戦いは枚挙にいとまがない。およそ四百年前に国中を巻き込んだ戦で人間が勝利して以来、鬼の勢いは大きく衰えたが。未だに多くの討魔士が存在するということは、鬼との戦いも終わっていないということだ。
古くから生きる鬼であれば、恨みもあるだろうか。
白面鬼にそのような感情は見られないが。
ふと。
凛音は真冬のような寒さを感じた。
二の腕と背筋が凍えるように冷たい。
夜風でも吹きはじめたのだろうかと天空を見上げる。
きらきらと綺麗な星屑が、警告を発するみたいに瞬いていた。
一瞬見惚れそうになる凛音の耳に、驚くほど醒めた声が入ってきた。
「討魔六家がこの地に足を踏み入れたことは、この数百年一度もなかった」
白面鬼は独りごちるように呟いた。
「時折、木っ端を使って偵察を行っていたようだが。それですら約定に抵触する違反行為だ。俺たちに気付かれていないと思っているようだがな。……舐められたものだ」
微かに聞こえた吐息は嘲笑。
凛音はぞくり、と体を震わせる。
突然雰囲気の変わった白面鬼に本能的な恐怖を感じ、指一本動かせなかった。
白面鬼がこちらを振り向く。貌のない面の奥から、二つの瞳が凛音を射竦めている――そんな気配があった。
「これは変化だ。良い変化か悪い変化か、見定める必要がある。獅子王の後継がどちらなのかもな。凛、お前はそのための駒だ」
「駒……」
「光栄に思え。主様のお役に立てるのだから」
無意識に、ゴクリ、と唾を呑む。
主様。
その言葉を聞いたことは何度かある。凛音を殺そうとする縹に瑠璃姫が対峙した時。息吹を煽る際にも言っていた。とても古い鬼だと。
しかし、凛音はそれがどんな姿をしているのか、どこにいるのか聞いたことがない。なぜ、瑠璃姫や白面鬼までもが仕えているのか。ある程度は知っているであろう縹も、口にするのも畏れ多いといった風に何も教えてはくれない。
彼らがそこまで敬う"主"とは何なのか。
「そうだな。お前が使えると分かれば、主様について教えてやろう」
「使えるって……あなたの命令をちゃんと聞けるか、ってことですか?」
「その認識で間違っていない。だが、俺が考えているのはもっと先の未来でのことだ」
「未来?」
眉をひそめて問い返したその時、白面鬼が僅かに頭を揺らした。少し長めの白い髪が、枝垂れた柳のように揺れる。
「奴が戻って来る」
ハッとして、凛音も公園の入口を振り返る。彼の言う通り、不機嫌顔の侑斗がポケットに携帯電話を仕舞いながら歩いて来るのが見えた。幸い他のことに気を取られているようで、白面鬼の存在には気付いていない。
慌てて視線を戻すと、白面鬼の姿はもうどこにもない。ヘマはしないという自信は本物だったようだ。知らず、肩の力が抜ける。
「はあ……」
安堵と疲労とで、深い溜め息が漏れる。そんな凛音を見て、近づいてきた侑斗は不思議そうに首を傾げるのだった。
「どうかしたのか?」
「ううん。なんでもない」
「そうか」
明らかにぐったりしているのだが、侑斗はあまり気にした様子もなく凛音の隣に腰掛けた。女の子が深夜に拘束されてぐったりしているのだ。ちょっとは気にしろと思うが、自分よりも様子のおかしい彼を見て首を傾げた。




