七
結局、脅迫まがいの怪異討伐押し売り業者に負けて、凛音は住宅地に出没する怪異の討伐を依頼することになってしまった。と言っても形だけでよいらしく、渡された紙に言われるがまま署名した。気分は口の上手いセールスに引っ掛かった女子高校生だ。金銭のやり取りは無しとのこと。むしろこっちが貰うべきでは? これのどこが取引だと不貞腐れる凛音に、侑斗は〈手招きする女〉と遭遇した経緯について一つずつ質問を重ねていった。
「ふぅむ。道を歩いていると、十字路の影から由良たちを手招きする手に気が付いた。不思議に思って近付いたところ、奇妙な問いかけをされた、と。よくあるタイプの怪異だな。時間帯、場所を指定した特異結界への誘導。奇妙な問いかけ、返答に対応した状況の変化。行方不明になった人たちは、ここで間違った選択をしたために帰れなくなったのだろう」
「そーだね」
間違った、とは言うが、被害に遭った彼らはなんらおかしなことはしていないと思われる。聞かれたから答える。それは極々普通の流れだ。質問者が普通でなかっただけで。
人間の中にも、期待したのと違う答えが返ると不機嫌になる人がたまにいる。自分だけが正しく、世界は自分を中心に回っていると考えるタイプだ。そういう人たちにとっては自分を満足させられなかった相手が悪であり、どんな無礼を働いても許されると信じている。
そう考えると、この怪異も人間味があると言えるのかもしれない。
(どーしよー……。どうやって逃げよう)
依頼はしたが、形だけ。侑斗としては、助けを求められたという事実さえあればいい。細々とした問題は彼がどうにかするだろう。ならば、凛音がここに留まる理由はもうない。これ以上、討魔士である侑斗に関わるのは危険だ。凛音はまだ誤魔化せるとして、縹を巻き込むわけにはいかない。彼の正体はまさしく鬼であるからだ。
ただ、そうなると修行が中断してしまう。侑斗と同じ獲物を追いかけるのは色々とマズイだろう。
(別の案件を瑠璃姫に回してもらうしかないか。すっごい嫌味言われそうだけど……)
自認のあるスパルタ教師である。修行を途中で止めたとなれば、なんらかの罰を課してくる可能性は十分ある。桜馬山外周うさぎ跳び百周とか……。
だがそれでも、討魔士と同じ空間にいるよりはマシである。仮に侑斗がめちゃくちゃ優しくて、死ぬほど謙虚で、想像を絶する紳士みたいな現実と真逆を行く性格だったとしても、断固お断りしたい。
それに。
彼なら、〈手招きする女〉を確実に屠ってくれるだろうという期待もあった。未熟者の凛音と違って。
先程は見事に〈手招きする女〉を撃退した。おそらく凛音たちがいなければ、そのまま逃げるあやかしを追っていたのだろう。もしかしたら討伐まで行けたかもしれない。お家再興を掲げる侑斗としては追いかけたかっただろう。ある意味で、凛音は彼の邪魔をしてしまったのだ。なのに侑斗は責めるでもなく、被害者の安全確保を優先した。
悪い人間ではない。それは確か。
「問いかけの内容を考えると、人数も結界の条件に含まれていそうだな。由良の推測によれば男女ペアが鍵ということだが。被害者たちとも一致するし、信憑性は高いか……?」
悩んでいる。そんなことより行動した方が早いと思うのだが。
あ、でも、侑斗が一人で動いたところであいつは出てこないのか。
ということは、架空の実績を積むために頑張ってるんだなこの人……。
(そもそも見つけられないんじゃ、倒すとか無理じゃないの。どうにか出来ないかなぁ)
討魔士は怖いが、あやかしは倒してほしい。
そわそわしていると、不審に思った侑斗と目が合う。
何か応えなければならいような気がした。
「特異結界てなに?」
「簡単に言えば、結界の一種だ。結界は分かるだろ?」
「避難所に張られてるやつね」
「そう、避難所のは専用の呪具を使ってる。術者がいなくても発動できるようにな。怪異も結界を使うんだ。上級怪異になると、時空を切り取って丸ごと"場"にする個体も出てくる。切り取られた"場"は別時空となるため、術者を倒すか術を解くかしない限り、元の場所に帰ることはほぼ不可能だ。それを術者が空間の外から行うのが"封印"」
「へぇ~」
一を尋ねると三も四も返ってくるのが面白い。侑斗は人に教えるのが好きなようだ。
それにしても、封印か。
否応なしに思い出すのは息吹である。
「封印が自然と壊れることってある?」
奴を念頭に置いて尋ねると、侑斗は大きく頷いた。
「ある。通常、封印には要石となるものが必要だ。怪異を封じた場所に置いて、頸木とするわけだな。その名の通り要石には石が用いられることが多いが、きちんと管理できるなら必ずしも石である必要はない。大事なのは、これが壊れると封印も解かれてしまう点だ。少し欠けただけでも内側から破られることがある。封印して放置というのは、絶対にやってはいけないんだ」
断言するからには前例があるのだろう。完璧に管理していたとしても、想定外はあり得る。地震や台風、雷や山火事。何も知らない人が誤って壊してしまうこともあるだろうし。
「だから、なるべく封印ではなく討伐するのが好ましい。理想はな。――ん?」
その時、暗闇に無機質な機械音が鳴り響いた。侑斗のポケットからだ。そこから取り出した携帯電話で画面を確認すると、侑斗は瞬時に顔を顰めた。親指が応答を押すかどうか迷っている。コールが五回鳴ったところで、面倒くさそうに深々と溜息を吐いた。
「すまない。ちょっと電話に出てくる。ここで待っててくれ」
「え!? まだ帰っちゃだめなの?」
凛音は驚いて抗議するが。
「もしかしたらまだ聞くことがあるかもしれないからな。逃げるなよ」
「そんな勝手な! 特災法はどうしたー!」
逃げるなよー、と再度念を押しながら入口の方へ駆けていく侑斗へ思い切り叫んで、凛音ははあーと脱力した。近くのベンチに座り込む。
「もしかして寂しいんじゃないだろうな、あの人」
「単独行動には慣れているようだったが」
「分からないよ。適応と順応は違うもん」
大きな石ころと小さな砂粒を一つの容れ物に混ぜて振っても、石ころは石ころのままだ。日頃隠していた孤独感が、凛音と言葉を交わしたことでひょっこり顔を出して――というところまで想像して、なんでそれがわたしなんだと現実に立ち返った。そんな妄想するなんて疲れているのだろうか。侑斗との会話で疲労が蓄積しているのは確かだ。
再度小さく息を吐くと、街灯のヂヂヂという音がやけに大きく耳に響いた。まるで、籠に閉じ込められた蛾が生命を削って足掻いているような音だ。不安になる。
煩いほどの静寂。
こうなると、駄目だ。
凛音は奥歯を噛み締め、人差し指と中指でこめかみをグニグニと揉んだ。痛みを伝える神経だけが頼みの綱だ。
しかし。
「……大丈夫か?」
心配そうな縹にも言葉を返せず、辛うじて顎を引く。
大丈夫ではない。
あの声が。
昏く
悍ましく
泥へと誘う
あの声が。
とぷん、とぷんと、埠頭に押し寄せる波の音にも似て、凛音を真っ黒な呪いの沼へと引き摺り込もうとする。
おいで。
こっちへおいで。
(いやだ、行きたくない)
一緒に生きよう。
私が全部教えてあげる。
(いやだ、そこへは堕ちたくない)
暗闇の中で、凛音は必死に藻掻いている。
しかし現実では、手負いの獣のように低く唸るだけ。
凛音は凡庸な人間だ。人間、だった。
特別な才能なんてなく、大勢の中に埋没していくような個性しか持っていない。
そんな彼女が息吹の声に抗えているのは、岩に齧りついてでも生きるという強い意志、すなわち根性に他ならなかった。
相手は質量を持たない影なのだ。殴ることも蹴ることも、風で散らすこともできない。立ち向かえるのは精神力だけだ。明るく振る舞うようになったのは、性格が多少変わったせいでもあるが、一番の理由は、息吹の声から少しでも意識を逸らすため。影に呑み込まれて、邪道に堕ちるのを防ぐため。
影となった息吹のなんと楽しそうなことか。
なるほど、堕ちてしまえば楽だろう。
だが、ただ生きるだけじゃ駄目なのだ。
由良凛音として生き続けたい。
第二の息吹なんて真っ平御免だ。
「……に……たら、……れちゃうから」
「? 今、なんと?」
凛音は怠そうに瞼を持ち上げて、瞳を縹に向けた。その色はまだ黒い。まだ完全な鬼ではない証拠。
縹は凛音の顔を覗き込んでいる。具合が悪そうな凛音を見て、介抱すべきかどうか考えているのだろう。凛音は彼を安心させるように微笑んだ。
「わたしね、双子の弟がいるんだ。たぶん、討魔士」
「……たぶん?」
答えるまでには少し間があった。「弟がいる」という事実と「たぶん」という推量が上手く噛み合わないせいだろう。別に混乱させる意図はないので、さっさと手札を明かす。
「うん。子供の頃に生き別れちゃったから、今あの子がどんな風に暮らしてるか知らないの。手紙のやり取りも許されてないし、お互い引っ越して住所も分からない。当時は携帯電話なんかも持ってなかったしね」
よいしょ、と体を起こす。喋ったら少し気分が紛れた。弟の記憶が息吹の影を追い払ってくれたのだろうか。だとしたら、流石だ。流石音河だ。
「実はわたしの両親、二人とも討魔の家系なんだ。特に父方の実家が凄くて、よく知らないけど由緒正しい血筋らしい」
「よく知らないのか?」
「うん。父は次男で、家を出て母と結婚したの。わたしが育ったのはあくまでも普通の一般家庭で、両親とも会社員だったんだよ。二人の実家が討魔の家系だなんて、家族がバラバラになるまで知らなかったくらい」
たぶん知らなかったのはわたしだけだけどね、と心の中で自嘲する。
両親が離婚した後も、母はほとんど事情を話したがらなかった。彼女にとって、討魔の家は決して居心地のよい場所ではなかったからだろう。もう関わりたくないとすら思っていたようだ。もちろん、手放した息子のことはずっと気にかけていた。――病に倒れるまでは。
「少しだけ聞いたのは、父も母も霊力が弱くて、討魔士になれなかったってこと。そのせいで本家でも扱い悪くて、わたしたち姉弟には討魔と無関係の道に進んでほしかったんだって。だけど……」
その先を口にしようとすると、心がすっと冷える。冬の湖に浸したみたいに。
今でもこうなることに、凛音は少しばかり驚いた。
だが内心の感情はおくびも出さず、義務であるかのように淡々と口を開く。
「弟は生まれつき凄い力を持ってた。百年に一人の天才だとかなんとか。それでよく父親に連れられて本家に行ってた。わたしは連れて行かれなくて、なんで弟だけって思ってた。弟と引き離されるのが嫌だったのね」
凛音にとっての父親は、ただ父親というだけだ。それ以上でも以下でもない。育ててくれた恩はあるけれど、一度も視線を合わせてくれなかった人に情が残っているかと聞かれると、ちょっと答えづらい。
それでも、小さい頃は無理やり抱きついたり後を追いかけたりしていた記憶がある。たぶん、振り向いてもらえないのが寂しかったのだろう。母も弟もいて愛情には飢えていなかったけれど、子供というのはそんなものだ。親には無条件で愛されたいと思うものだ。凛音は普通の子供だった。
でも今は何の感情も湧かなくて、「ああ、そんなこともあったな」という感じだ。父は凛音を見ず、才能のある弟ばかりを愛し、弟はそんな父を嫌っていた。当の父親は何も気付いていなかったけれど。
「……姉弟仲は良かったのか?」
その問いに、凛音はぱっと笑顔になった。
「すっごく良かった! 音河は人より感覚が鋭くて、ちょっとしたことでも怯えたり泣いたりする子だったんだけど、勇敢な一面もあって。わたしが幼稚園でからかわれたりしてると、すぐ間に入って怒ってくれてたんだよ。格好いいでしょ?」
「ああ――そうだな。頼もしい男だ」
「でしょ! あ、音河っていうのが弟の名前ね。字が一つわたしと同じなんだ。肌が白くて、女の子みたいに可愛かった。今頃は女子にモテモテだろうなあ……」
弟の話を誰かにするのはすごく楽しくて、心がウキウキと踊った。同じ奪われた側でも、母とはこんなに楽しく話せない。凛音と母の感じる「辛い」は、おそらく似て非なる感情なのだ。
母にとって、音河の身に起きたことは自分の身に起きたことも同然。いや、それ以上。開いた傷口からは今もどくどくと血が流れ続けていて、酷い苦痛の只中にいる。
対して凛音は、生き別れた弟がどこかで無事に生きていてくれたらいいと、別離を悲しみながらも幸せを願う気持ちでいる。
その差異を敏感に感じ取っていた凛音は、母の前では音河の話をしないよう気をつけていた。ほんの少し思い出すだけでも、母は悲しみに暮れるだろうから。
(でも、そんなお母さんももういないのかも)
沈む凛音の瞳に浮かぶのは、また別の悲しみ。
春に倒れてからというもの、母はすっかり別人のようになってしまった。病気のせいだと思いたいけれど、あれが母の本心だったら……。
(やめよう。引き摺られちゃいそうだ)
暗い感情を振り切って思い出すのは、黒塗りの高級車に向かって引き摺られていく弟の姿だ。
「わたしと音河が六歳くらいの時、家に祖母がやってきて、弟はこれから本家で暮らすんだって言ったの。最初から決まってたんだって。音河が赤ちゃんの頃に連れて行く予定だったのを、何かの事情で先延ばしにしてたとか。でもわたしを一緒に本家に連れて行くことはできなかったから、両親は離婚して、わたしだけお母さんに引き取られた。それから一度も弟には会ってない」
「…………」
縹は静かに目を伏せていた。
彼の中で、一つの不安が芽吹いていた。
凛音が弟の思い出話をしたのは、侑斗に出会ったからだろう。
本家の思惑通りに事が進んでいるのなら、音河も討魔士になっているか、なる予定のはず。しかも、強力な討魔士になれる可能性を秘めている。
片や姉は鬼の仲間。
たとえ再会できたとしても、二人が幸せとは限らない。最悪の展開は、殺し合いだ。凛音は今でも弟を大事に思っているようだが、弟の方はどうか。二人が対立を望まなかったとしても、周囲が許さないことだってあり得る。何事も絶対はないのだから。
(触れないでおこう……)
この娘には、今以上の不運を背負ってほしくない。同じ息吹という鬼畜に運命を狂わされた者同士の、不思議な連帯感を縹は感じていた。何より、凛音は子供だ。まだぎりぎり親の庇護を必要とする年頃である。鬼として見たら、もっと幼い。力の使い方も満足に知らないような、目の離せないひよっこ。大人がきちんと守ってやらねば……。
そう思う縹だったが、残念ながら、皆が皆彼のように優しい心の持ち主ではなかった。
「なるほど。息吹がお前に引き寄せられたのは、大きな負の感情を抱えていただけでなく、その身に流れる強い討魔の血ゆえだったのかもしれんな」
凛音と縹は、同時に冷たい空気を浴びせられたかのようにゾクンと震えた。
上から押さえつけられるような強いプレッシャー。それでいて敵意はなく、喩えるなら大自然の偉容に圧倒されるかのような感覚。
二人してぐるんと頭を巡らせれば、いつの間にか、凛音の座るベンチのすぐ隣に、見覚えのある長身の鬼が立っていた。




